シーザーの奴隷
織田信長も良いですが、ローマ物の転生が書かれることを期待しつつ書いてみました。
紀元前63年、ガイウス・アントニウス・ヒュブリダとマルクス・トゥッリウス・キケロが執政官だった年。春。
……
「……ったく、人使いが荒いよなぁ」
現在、俺は主人に頼まれて買い物に出ている。
なんでも牛革で真っ黒なツルツルと加工されたベルトが欲しいんだと。
どこへ行ってでも探し出して買って来いとのご命令だった。
大方どっかの年若い男が身に付けてるのでも見て欲しくなったんだろう。
そんな命令を俺に下した主人はもう子供もいる三十後半だってのにいまだに女の気を引きたくて身だしなみに煩いのだ。
ここ、ローマにおいて成人男性が身に付けるひたすら長い布『トーガ』と呼ばれる衣服も毎朝奴隷仲間達と着せてやるのだが、その日の気分によってあーしろこーしろと着付けについて毎度煩く注文を付けてくる。ったく、それなら自分一人で着てみろってんだ!
はぁ……
転生してはや十五年。
最初はビックリしたけど、前世で高校生だった俺は産まれて直ぐの頃はワクワクとこの新天地に期待もしていたのだ。しかし、直ぐに絶望的な現状を把握することとなった。
なんと、俺の母は奴隷だったのだ。つまり、産まれてきた俺も奴隷。なんともベリーハードな転生だ。因みに名前は『ゾイロス』と命名されていた。
しかも、ラノベで得た知識、“ノーフォークなんたら”とか使う間もなく言語の壁にぶつかる。
ギリシャ語!? 知らんがな! つか、異世界じゃないのかよここ!?
そう、どうやら俺はギリシャに転生してしまったようなのだ。と言うか、それも最近知った。コイネーだかエリニキだか分からんが、彼らは自分達の言葉を『ギリシャ』なんて発音しないのだ。さっぱり何言ってるか分からんかった。
そして、知っていただろうか?
……ギリシャなんて国はないのだっ!!!
えっ? 二十一世紀にはあるって? そうなの? なに? ギリシャの場所? 知らないよ。とりあえずヨーロッパでしょ……?
あー、えー……ゴホンゴホン……さ、更にはだな、ビルとか車とかが見えないから中世に転生しちゃったのか……と思いきや! ヨーロッパと言えばキリスト教! のはずのキリスト教が全くと言っていいほど知られてない。キリストってあれだよね。西暦〇年の人だよね? イエス・キリストが死んだか産まれたかしたときから確か西暦って始まってるんだよね……うん。俺はどうやら中世以前のギリシャに産まれて来てしまったようだった。
そんな俺も三歳になり、ようやく言語やギリシャ文字に慣れてきたと思ったら今の主人に拾われたって訳。その人の奴隷になるときに海賊に捕まったりとか色々あったんだけど、まぁ今は割愛する。
兎に角だ。この主人がまたいけない。なんとローマ人なのだ!
ローマってあれだ、確か、“コロシアム”の国。うん、今俺が転生したこの時代には確かに奴隷同士を闘わせる見世物があるからね。俺は焦ったよ。ローマに連れて行かれて俺はどうなるんだ、って。なんてったってローマ人が喋るのはラテン語だからさ、三年間ギリシャ語を必死に覚えたってのにまた話が通じないんだもん。俺、幼児ながらに冷や汗ドバーですわ。
そんなわけで当時の俺は三歳だったことから母親と共に遠くローマまで今の主人について行くことが決まり、かな~りまずいと焦っていたわけなんだけど、まぁそんなもん杞憂だったよね。
ローマはギリシャの国々と違って結構奴隷に対してもおおらかで普通に解放された奴隷がそこらにいたからだ。
しかも俺はギリシャ人でギリシャ語がしゃべれるってことと転生者で前世の記憶があるため(勿論隠してはいるが)か、小さいながらに光る物があるやつだと主人に期待されていたらしい。
イーリオス? なんて文学も分からなければ彫刻も音楽も嗜んだことがない、弁論だってやっとラテン語を覚えたばかりなのだから覚束無いそんな俺だったけど、数学の知識は良かった。分数の計算でも十分な力量を示せたのだろうけど調子に乗ってラテン語で会話できるくらいの歳になってから三平方の定理とか披露してみたら「ピタゴラスの再来か!?」とかなんとか喜ばれた。因みにここローマでは0の概念が全く受け入れられてないので数学に苦労することが度々あったりする。
兎に角、そのお陰なのか母は俺が成長するまでしばらく面倒を見させたあと直ぐに解放した癖に、俺はあれから年月を経て今年で十五歳になったってのにいまだに全くもって解放させて貰えない。
こうして今もトーガによって隠れてしまうであろうベルトを一つを買うためだけに街中を走らされてるってわけ。
さて、この辺りで少し我が主人とその家庭についてご紹介しよう。
まず、主人の名前は『ガイウス・ユリウス・カエサル』。うん。それにしても名前が長ぇ……俺なんか『ゾイロス』だけだぞ?
まぁ、それもそのはず、この主人は貴族なのだ。ユリウス一門のカエサル家って所だろう。ユリウス一門はローマ建国の折からあった凄い貴族らしいが、その一門の中でカエサル家は俺の主人のお陰で借金浸けだ。
別に借金して飲んだくれてる訳ではなく、気前が良いのだ。女と平民達のために借金してまで金を使う男なのだ。まぁ、俺もその点については嫌いではないのだけど。
そしてそんな主人に金を貸してくれているクラッススさんって人はがめつく、反乱奴隷に容赦ない怖い人なのだがウチの主人とは仲が良い。この寛容な性格のためか良い友人にも恵まれているのが俺の主人の幸運な点でもあった。
それから、この『カエサル』って名前、何処かで聞いたことがある気もする。平成日本の高校生だった俺が聞いたことがあるってことはもしかしたらローマの偉人になる可能性があるってことだ。まぁ、常日頃借金と女ばかりのこの主人は確かに大物になりそうではあるのだけど。
そんな我が主人の家庭はと言うと、主人の母となるアウレリア大奥様、そして、ポンペイア奥様と、二十歳になる娘のユリアお嬢様の女だらけの四人家族だ。
因みにこの娘のユリア様。主人の前妻コルネリア様との間の娘だ。ローマは亭主関白な家庭が一般的だが、主人はこのユリア様に対して凄い親バカを発揮している。前妻のコルネリア様にも大層ベタ惚れだった。まぁ浮気はしてたんだけど。
あとは、この主人には姉と妹がいる。どっちもユリアと言う名前だ。と、言うかこのローマ人と言うのは名前の概念が希薄で女の名前はだいたい家名で決まったりするのだ。
それから使用人でもある奴隷が数人。出入りもここの所けっこう激しく、トーガの有無である程度判別できるがそれでも古参の奴隷以外はいまだに誰が奴隷で、誰が外から来た商人で、誰が主人の愛人か分からなくなることがあったりする位だった。
あぁ、あったあった。
きっとあのベルトだ。
って、めっちゃ売れ残ってるじゃねえか! そりゃ見かけないわけだ……
あっ!? 8セステルティウス(青銅貨8枚)だと!?
6セステルティウスしかもらってねぇぞ! 金、足りねえじゃん!
マジかよ……クソ~。
あの頭の良い主人のことだ。絶対に分かっていて少しだけ少な目に金を渡したのだ。それでいて、ゾイロスなら値切れるのだからその位が丁度良いだろうくらいにしか考えていないのだ、はぁぁぁ本当に困る。
どうしようかと店前をウロウロしていたら、客も来なくて暇だったのか店主に話しかけられてしまった。
「おう、カエサルさん所の奴隷のチビじゃねぇか! なんか買ってくのか!?」
「こんにちはおじさん、いや、えっと……」
先手を取られるのは都合が悪い。
何にしても物事は先んじなければならないってのは主人の言葉だったが、俺も値切るにあたりどうやってこの店主に話しかけようか全く考えていなかったのだ。
これはまずい、何か無いかともう一度辺りを見回した時だった。知り合いのマリアだ。俺は末っ娘マリアを見つけることが出来たのだった。
「ちょっと人を探してまして。あぁ、いたいた。おぉーい! マリアー、末っ娘マリアー!」
俺はさも待ち合わせをしていたかのように、探し人が見つかったかのように腕を高く上げながらマリアに近付く。彼女は十二歳。俺は十五歳。若いカップルの会瀬として見たのか店主も鼻で笑っていた。
マリアと言う名はキリスト教から来たものではなく、戦の神マルスに由来するマリウス一門の娘の名前だ。
彼女は五人姉妹の末っ子なので末っ娘マリアと呼ばれているよくある名前の平民だった。
「おーい、末っ娘マリアー!」
「ゾ、ゾイロス! 末っ娘って言うのはやめてって言ってるでしょ! 可愛らしいマリアって呼んで!」
「ハイハイ、それじゃあ向こうで話そうぜ」
「もうっ!」
頬を膨らます小さなレディの腰に手を回し、通りを歩くように促した。
なんだかんだと大人ぶる末っ娘マリアはこうやって紳士的に接することに弱い。一応俺は奴隷だが、身綺麗にしてるし、別に顔も悪くない、それに、ここはスパルタってバカみたいな階級社会の国なんかとは違ってローマだ。このくらいなら誰でもしている。
「それで、あなた、こんな所でフラフラと何をしていたのよ?」
「あぁ、ちょっとな。主人に頼まれて……」
素っ気ない俺の返事にふーんと返すマリア。年齢が近いため彼女とは昔からの腐れ縁だ。俺は貴族のギリシャ人奴隷だが無名のガキんちょだったし、彼女は平民。距離感もそこまでかけ離れてはいなかった。
ただ、今俺はベルトについて値切る覚悟を決め、後はどう攻めて行こうか、その戦略についてを必死に考えていたわけだ。
申し訳ないが末っ娘マリアといつものように楽しくおしゃべりしている余裕はなかった。
「そういえばあんたの主人のカエサルさんって、あんたと違ってモテモテよね。護民官のラビエヌスさんまでもっともっとしゃべりたいって言ってるわよ?」
「っ! うっせ、ったく皆してウチの主人の何が良いってんだよ……」
「とか言いつつ、あんたも相当主人が好きって噂が立ってるけれど?」
「はぁ~!? いやいや、誰だよそんな噂流してるのは!」
「平民だけじゃなく元老院まで皆知ってることよ? お母様がカエサルは女だけじゃ満足できず男も必要なのかしらって少し怒りながら言ってたもの」
「……マジ勘弁だわ色々と」
冗談にしても酷い……ベルトのことなど忘れてつい言い返してしまった。
ちなみにうちの主人は貴族で、元老院議員でもある。
一方、ラビエヌスさんの役職、護民官ってのは簡単に言えば平民代表者だ。
ローマの政治は貴族が中心の『元老院議員』と、そこで立候補が認められ、国民の選挙によって決定する二人の『執政官』、さらに有権者である『平民』の3者を中心に政治が行われている。日本でいえば平民は国民、元老院議員は内閣、執政官は総理大臣みたいな感じだ。ちょっと違うか。
ただ基本的に、貴族代表の元老院議員は平民代表の護民官とは対立するのでウチの主人のように仲が良いってのは一般的ではない。
我が主人カエサルは平民出身で執政官まで上り詰めたガイウス・マリウス(マリア同様マリウス一門の人だ。もう死んでるけど)を叔父に持ち、また借金してまで平民のために見世物をやるものだから平民からの人気は殊更高い。
実際に女には手を出しまくってるしそりゃあ誰からもモテモテと言われるのはわかるのだが、男色だけはマジでやめてくれ。奴隷のゾイロスが毎晩伽の相手をしているなんて噂が流れるのは絶対にお断りだった。
「ねぇ、所でさ……参考になんだけどさ、男の人ってどんなプレゼントが嬉しいのかな……?」
「は? あー、ベルトとかじゃね? ほらさっき俺がいた店のあの牛革のベルトとか」
「へ、へぇ~……じゃ一つ買おうかしら」
……十二歳だってんのに色気づいてんな~このマセガキめ。
マリアの家はそれなりに裕福な中堅商人の家のためか、我が主人の欲するベルトを買うくらいにはちゃっかり金も持ってるようだし……
と、そこで俺は一つの妙案を思いつく。
「ん……ちょっと待ってろ、今俺がさっきの店主に話して来てやるよ。さっき仲良くなったからさ。買いとる話ついたら合図するから!」
そう言って俺達は来た道を戻り、再度ベルトを買いに向かった。
店が見えてくるとマリアは道端に寄って日陰に入り、コチラを眺めつつ俺が合図するのを待ってくれていた。
よし、今度こそ値引き交渉を上手くやってみせよう!
「やぁ、おじさん! おじさんのお店のお陰でマリアと出会えました」
「フン、そいつは良かったじゃねえか、それにしても流石カエサルさんの奴隷だな、チビな癖にマセてやがる、ガッハッハ」
「それで、実は今後も主人の命令で使いに出された時など、ここをマリアとの待ち合わせに使いたいのでそのためにも何か買わせて頂こうと思ったていたのですが……これ、少し高くないですか?」
そう言って売れ残っている牛革のベルトを指差す。
最初に見た時から減ったようにも見えない。
俺の主人は本当にこんな不人気なベルトが欲しいのか……?
まぁ、取り敢えず値引き交渉は始まった。
売れていないこともあり、店主はうーんと唸っている。いくら値下げするつもりか分からないが、少しでもこちらが得になるような売り方を考えてくれているのだろう。
そして、ここでも俺は先手を取るべく次の言葉を発した。
「取り敢えず半額の4セステルティウスでどうです?」
「なっ!? オイオイ、それは流石に下げすぎだ! こっちが赤字になっちまうよ!」
「そうですか? でも、私に売れば主人のカエサルにこのベルトを売り込むことが出来ますよ? そうすれば直ぐに次々と売れてしまうことでしょう!」
「カエサルさんがねぇ……うーん……」
ここでの俺の目的は、
・6セステルティウス以下に値切ること
・主人の“格”を損ねないこと
・相手にも得があると思わせること
である。
そのためにも、最初から主人の命でベルトを買いに来たとは伝えずあくまで自分のための買い物を装う。主人であるカエサルの名はネガティブなことではなく、ポジティブな印象のために使うのだ。
しかも、一種の待ち合わせに使わせて貰おうと言う感謝の意味を込めつつも、店主からしてみれば売れ残りを捌けるという提案である。
悪い気はしないはずだ。
そこで半額。悩んでるところを見る限り行けそうな気がする。
と言うことで俺はもう一押し強気で攻め立てた。
「ならば早速我が主人に紹介するまでもなく直ぐにでも今ここでベルトを一つ売ってみせましょう! さて、それならばよろしいか?」
「お、おぉ、それならば……」
店主が俺の押しに怯み、一生懸命頭の中で利益を計算している間に俺は声を張り上げてベルトの宣伝をわざとらしくしてやった。
なんと、これが本当に牛の革なのか!? 光沢は大理石のようで、色は純白のトーガに負けないほど映える深い深い黒! まさに厳かな青年ローマ人のトーガの下で身に付けるにはうってつけの重厚感ある一品だ! 我が主人カエサルが目につけるだけある、あぁ、なんと素晴らしいベルトなのだろう!
と、まぁこんな具合だ。カエサルが欲しがっているとカミングアウトしているが、店主は俺のビジネストークの一環だとでも勘違いしているだろう。
ギリシャ人は商魂逞しいのだ。加えて堅苦しいローマ人と違って劇鑑賞なんかも大好きである。
俺の、ゾイロスの中に流れるギリシャ人の血とギリシャ人の母に育てられた歳月は、引っ込み思案だった前世日本人だった頃の性格を大いに変化させていた。
そうして、一通り目立った所で末っ娘マリアにウインクで合図する。
劇役者のようだが恥ずかしがって中途半端になるのが最も愚策。毒を喰らわば皿までってな!
「あ、あの、よろしいかしら……そ、その、あの、ベルトを一つ……」
「おじさん、さぁさぁベルトを一つ彼女へ!」
「は? その娘はお前の……あぁ、あぁ、そう言うことか。オイオイなんて罪な男だ! はっはっはっ! ほらよ、お前も持っていきな!」
こうして俺は店主に女に貢がせるヒモ野郎と誤解されつつも4セステルティウスでベルトを手に入れた。
残りの2セステルティウスはどうするかって? 勿論俺の懐だ。ローマ人は銅貨一枚無駄にしない位のケチなのだ。えっ? お前はギリシャ人だろうって? まぁ細かいことは気にするな。
今回大いに俺の買い物に貢献してくれた末っ娘マリアにはその恩を返すため家まで送ることにした。
と言うか結構近所なのだ。帰り道が一緒なのであまり送ってる感じもない。
「ところでお前は本当に昔から人見知り酷いよなぁ、独りで買い物出来るか不安だよ俺は……」
「う、うぅ、うるさいわね! 良いのよ別に!」
「ところでそのベルトを誰にやるんだ? ん?」
ニヤニヤとしてしまう。
他人の恋路だがこう言うのって気になるよな。
因みに奴隷に結婚の自由はない。と言うか、ローマは家族でさえも家長である夫または父が絶対で、結婚なんかも父親の意見が重要だ。俺の結婚なんかも主人の許しが必要だった。
ローマは戦争もあるし、人々は戦いや死生観に対して矜持や誇りを持っている。恥の文化もある。自国への愛もある。身長も低く、髪も黒かったりするので戦国時代や大戦時代の日本とどこか似ているのだ。だからなのか、ギリシャよりも結構住み心地が良かったりした。インフラも整ってるしな!
「あ、あんたよ……」
「……は? なに?」
「ゾイロスに買ってあげたのよ! フン、嬉しいでしょう!?」
そう言ってベルトを俺の胸に突き付けてくるマリア。
顔が赤く、なっている。
何をしているんだこの娘は……
……
…………
………………
「えっ!? お、俺!?」
「そうよっ! 早く受け取りなさいよ!」
ヤバイ、ちょっと思考が停止していた。
彼女はいわゆる幼馴染み的ポジションではあったもののこんな感じでデレることのないツンのみで構成された女の子だったはずだ。腐れ縁というか、俺達の仲は友達や知り合いのそれで、もちろん仲は良かったものの小さな子供が抱く友情のカテゴリーの範囲内だと思っていたのだ。
女の子って、こんなににも年若く友情が恋愛に変化するのだろうか?
俺は驚きと急なマリアの態度の変化にドギマギしながらもベルトを受け取った。
ここで、なんとも言われようもない重たいものが俺にのしかかってきた。
俺は彼女をついでとばかりに利用したのだ。だからだろうか? 罪悪感のような気分の悪さと今感じている胸の中のチクチクとした痛みは結構辛いものがある。
彼女がまだ小さな子供で……勿論外見的にはさほど年齢は変わらないのだけど、精神的に未熟なため、俺が女性として見ていないのも一つの要因だ。
つまり、小さな子を騙したかのような気持ちになっていたのである。
「よ、よし、お返しをしよう!」
「あら、ゾイロスがウチの奴隷になってくれるなら大歓迎だわ! 早速カエサルさんに話しに行きましょうか? あっ、私のお父様にゾイロスを買って、って頼むのが先か……」
「いやいや、そうじゃなくて……」
「ふーん……やっぱりゾイロスはご主人様が大好きなのね」
主人が好きかどうかは置いておいて、俺は今回手に入った2セステルティウスを使い、上等な布で薄く青染めされたハンカチとピンを買う。
そして、その場でハンカチを折って自らの手の中で薔薇へと仕上げた。
そう、日本人が得意な折り紙である。紙じゃないけど。
更にそこへピンを着け、形を固定してやれば布で出来た蒼い薔薇のブローチの出来上がりである。
「わっ、凄い!!」
「さぁ、どうぞ可愛らしいマリアへのお返しだ」
「あ、ありがと……」
ふっ、惚れたな?
なんて嬉しそうなマリアに対してバカなことを思いつつ、そう言えば『ロマン』とか『ロマンチック』ってきっとローマから来たんだよな? でもどの辺りがローマンなのだろう、とか考えていた。神殿だろうか? それとも度々行われる凱旋式やお祭りだろうか?
まぁ、なんにせよ彼女の笑顔で俺の中にあった罪悪感のような物は少し晴れたのだった。
ギリシャ人に成りきれない日本人、いやもうローマ人になってしまったのかもしれない自分がそこにはいた。
……
さて、時刻は昼過ぎ。
この時間、主人は基本的に家にはいない。
街中の人々の話ではどうやらローマ郊外に流れるティベレ川の方へ向かったのを見たとのことだった。あぁ、ヤヌスの丘だろうか? あそこならローマを一望できる。
きっとあの人は日陰に入りながら休憩でもしている頃だろう。
末っ娘マリアと別れた後の俺の足は、ローマ郊外へと向かっていた。
「いたいた、やっぱりここか……」
川を渡った丘の上、昔はローマとその外との境界となり要塞になっていたヤヌスの丘に登れば、我が主人カエサルの姿が見えてきた。
俺が朝に着させてやった、元老院議院にのみ許された赤いふち取りのついた純白のトーガに身を包み、サンダルを履いた壮健な二本の足で丘の上に立つ主人はこちらに直ぐに気づいたようだ。
髭が綺麗に剃られた30後半の主人の顔面と視線がこちらに向けられていた。
「おぉ、やっと来たかゾイロス」
何か複数の人と会話をしていたようだが、その話を打ち切り、改めてこちらに声をかけつつ手を振るう我が主人。
奴隷のために会話を取り止めるのは失礼かと思われるが、それだけ主人がこの牛革のベルトを待っていたということだろう。
近くには秘書のような役割をする俺の先輩奴隷、シリウスさんも立っていた。彼はノーメンクラートルなる生きた名簿人だ。頭の中には膨大な人間のデータが入っていて、常に面会相手の情報を主人に伝える役割を果たす。そんな凄い人だった。
それから主人の周りにいた人達も話は終わっていたようで帰る準備を始めていた。
「では、今後もカティリーナ様をよろしくお願いします……」
そう言って主人の元から去り、丘を降りて行く人々はどうやら貴族の奴隷であったようだ。
これは所謂選挙運動ってやつで、権力者はそこら中で『誰それをヨロシク』と、奴隷を使ってまで自らの名を売っている。勿論貴族の一人である主人もそうだったし、それはローマの貴族には必要なことであった。
「うむ、これだ。このベルトは確かに私が欲しかったものだ! よく見つけてきてくれたなゾイロス」
「あぁ、別に難しくはなかったですよ、強いて言うなら、このヤヌスの丘が市街から遠くて時間がかかってしまったくらいです」
金が少なかったことについて一言言ってやろうかと思ったけどやめた。こちらもさも買ってきて当然とばかりに返してやったのだ。
ふぅ、と一息着く。
「ハハハ、金もどうにか出来たようだな、流石だ! しかし、この丘の上に来るだけで疲れていてはまだまだだ。ローマ軍は日に20マイル以上進まなければならないこともある。それでいてアルプスも踏破できるような屈強な足腰も必要だ、そうしなければまたローマに悪夢が舞い降りることとなるからな」
「あー……でも、奴隷は戦争と関係ないのでは?」
「ゾイロス、では我々が立っているこのヤヌスの丘が何に使われてきたかを知っているか?」
「……戦争でしょうか。今でもこの場所に赤い旗を立てることはローマに敵が迫っていることを示すのですよね?」
「そうだ、そして見てみなさい。あのローマを鳥籠のように包む壁を。ローマは建国以来多くの戦争をしてきた。サビニ、アルバ、サムニウム、カルタゴ、マケドニア、スパルタ、そして今もポンペイウスが軍を率いてオリエントを制圧し続けている。そして、一時的に敗北することはあってもローマは最終的にその全てに打ち勝ってきたのだ」
「はい、知っています。しかし、それと奴隷の自分がどうして関係してくるのかが分からないのです。奴隷は軍隊には入れないですよね……?」
「そうかもしれない。だが、あの壁が無かったら、ローマの周囲の安全が確立されて戦争が無くなったら人々の生活はどうなるだろうか? 君も奴隷とは言えローマに住まう者だ。この国の行く先を、そんな平和な未来を君は考えたことがあるかゾイロス?」
「……」
答えは勿論イエスだった。
俺の記憶で、それは戦争が無い平成の日本を生きた経験であり、天下統一の後長く平和を享受した江戸時代と言う歴史だったからだ。
しかし、言葉を発することが出来なかった。
流石に高校生であった俺でも知っている『平和』は毎年のように軍を使って鎮圧や制圧を行うここローマにはまだ遠い未来だと思っていたのだ。
「私は、いや、私こそがこのローマの平穏を願い、この国を未来永劫と続く偉大な国家にしたいと思っている。南と西はスキピオが平定し、東は今まさにポンペイウスがローマのためにと働いている、後は北のガリア地方の安全さえ確保できればローマには安寧の時代が訪れるはずなのだ」
熱く語る主人カエサル。
この人のこういう部分、俺は嫌いではない。
突き抜けるほどのポジティブで、爽快で、夢を語る彼の様子を見ていることは気持ちよくも感じることがある。
主人の斜め後ろに控えているシリウスさんも黙って目をつむり主人の話に耳を傾けていた。
「だから、その為に、君達優秀な奴隷には是非私の力になって貰いたいと考えているのだ! なぁシリウス、私は君の記憶力や誠実さ、配慮、様々な雑事に事務と言った能力に期待しているのだ」
「はい、私は我が主に忠誠を誓っています。なんなりとお申し付けください」
「ゾイロス、君もだ。君の算術の才能はその年齢でありながら既に完成の域にある。また、発想力についても私を唸らせるほどのものがあるのだからこれを優秀と言わず何と言うのか」
「わ、私は解放されることを第一に考えているだけで……」
オーバーリアクションを伴いながら君の力を貸してほしいと熱弁を振るう主人。
正直、俺は少し照れていた。
新しい生を受けてから15年。
結局生まれ変わっても自分が特別って訳ではなく、前世と同様に人としての生活を日々送るだけ。いや、奴隷としての日々か。
まぁさほど変わらないだろう。
でも、この人の奴隷になってからは色々な仕事を体験させられた。勿論今日のような駒使いもあったけれど、イベントの計画や属州への出張なんかもやっている。子供だってのに、いくつもの帳簿処理に追われたこともあった。
でも、そうやって人に必要とされている時こそ俺は生き甲斐を感じてもいたのだ。
あぁ、少し奴隷根性に染まっているのかもしれないな。
「ハハ、謙遜するな君が常日頃から口に出すその“解放”の言葉を君自身が望んでいないことを私は知っている。私達ローマ人は家族への愛と同じくらいこのローマと言う国家を愛し尽くすことを使命とさえ感じている。君もまた私に尽くすことに対してそれに近い思いを抱いていることを、私は知っているのだよ」
「そ、そそ、そんなことは、別に……」
「ふむ。ならば何故、対価を求めない? 自ら給金を得られるような仕事をなぜ探そうとしない? 私が国家に尽くすのは、私財を投げ売ってでも尽くすのは、そこに愛があるこそだ。それは無償の愛であり、私が対価に求めるのは名声と言う生き甲斐でしかない。君もまた日頃の様子から察するに、私に尽くすことで何らかの生き甲斐と言う対価を得ようとしているようにも思える。それを知っていて私は君を従えるのだ、君に生き甲斐を与えられる主人然としてあり続けようと、君が私に尽くす限り私もまたそうやって君に尽くそうと思うのだ」
反論出来なかった。
そんな俺に対してシリウスさんが一歩前に出て発言した。
「失礼ながら口を挟まさせて頂くと、ゾイロスは解放された後どうなりたいのでしょうか? 独りで生きていくのは人間なのだから無理でしょう。あなたは既に我が主や私達奴隷仲間、そしてカエサル家とも“一門”の間柄です。だからこそ私も、また、我が主もゾイロスがしたいことを応援したいと思うのです。そして、あなたのやりたいことはきっとここにある。奴隷かそうでないかはさほど重要ではありません。我が主カエサルの元でこらからのローマを見ていくのがどんなに楽しいか、きっとあなたも分かっているはずです、今も家で待っていても良かったはずなのに、わざわざベルトをここまで持ってきたのはきっとその為なのですよ?」
気づけば、俺は主人に渡すベルトを握った手を見ていた。
この主人には育ててもらった恩のような物もあるし、カエサル家はまるで我が家のような雰囲気もある。
そして、その主人カエサルは俺を必要としてくれている。
もう少しだけこのまま、カエサルの奴隷を続けてみようか。
俺はその時そう思っていた。
……
この後、俺は激動のローマを主人と共に生きることとなる。
主人カエサルは本当にローマを変えたのだ。
元老院の在り方を巡った執政官キケロとの裁判弁論。
最高神祇官への逆転当選。
カティリーナ事件や三頭政治。
そして、ガリア全域に及ぶ七年にも及んだガリア戦記。
そうして、英雄として名をあげた主人にとうとう『賽は投げられる』……
“偉大なる”戦将ポンペイウスとの戦い。
クレオパトラと出会ったエジプト、シリア、キリキア、ポントスと快進撃を続け、そうしてその生涯を閉じるまで俺はその全てをこの目で見続けることとなった。
……
――奴隷としての立場が良かった訳ではない。
それは私が望んでそうなったものではない。
だが、この人の元にたどり着けた自分の幸運にはとても感謝している――
ガイウス・ユリウス・ゾイロス
『ゾイロスの碑文』より。
……
追記。
ローマの奴隷はギリシャの奴隷と違い、死ぬまで奴隷と言うことはほとんどなく、結構頻繁に尚且つ簡単に、主人に良いことなんかがあると解放されていました。
その場合、解放奴隷はローマ市民権者となりローマ人としてローマで生きることになります。
事実、この頃のローマには解放奴隷、またはその子供としてローマ市民権を得たものが多くいました。
おそらくローマの奴隷制度は多くの人が考えているご主人様と奴隷と言うような関係よりももっと絆が強いものです。
奴隷から解放された後も『クリエンテス』と『パトロヌス』と言う関係となり、自由を得ると共に生活する上でのパトロヌスつまりパトロンである主人との絆は切れることはありません。
勿論、解放された後も主人に陶酔し仕え続けるパターンなんて美談のような話もあれば、その逆で主人から逃げ出す奴隷や反乱を起こした奴隷も数多く居たのですが……
結局、解放奴隷はローマで生活する上での支援を元主人から受けつつも、元主人に何かあれば助ける。そんな関係だったようで、スパルタなんかの奴隷制度よりは遥かに幸せだったようです。