直前
文化祭当日が目前に迫ったある日、僕ら三人は珍しく教室で昼飯にありついていた。僕らは普段、屋上で昼休みを過ごすのだが、文化祭の準備の時間を少しでも捻出するために教室で準備した流れのまま昼休みへと入ったのだった。当然のことだが、教室では他の生徒も昼飯にありついている。ましてや文化祭がすぐそこまで来ているのだ。そのような教室の昼休みの騒がしさは想像を絶するものがあった。しかし、それはそれで悪くないなと青春らしさを感じていた。周りの生徒はそれぞれが思い思いの話をしている。文化祭の話はもちろん、昨日のテレビの話や、最近できた駅前のカフェの話など、誰かしらが常に口を開いている。
「昨日のドラマ見た?あそこからの脱獄はびっくりした。来週どうなるんだろう。」
一人の女子の声がはっきりと聞こえた。正確には「脱獄」という言葉だけが。思わず固まってしまった。理由は明白である。例の噂が心の奥底に隠れていたのである。そのまま隠れていてくれればよかったのに、「脱獄」というキーワードから刑務所を連想してしまった僕に、ここぞとばかりに一気に近づいてきていた。僕は無意識に真司を見た。くしくも真司も僕の方を見ていた。彼の耳にも「脱獄」は届いていて、彼の目の前にも噂があらわれているのだろう。そして、僕らは怪しまれないように光へと視線を動かした。光は、特に変化もなく弁当に夢中である。僕は思わずほっとした。しかし、もしかしたら、光にも「脱獄」は届いているのではないかと。そして、光も「脱獄」から「刑務所」を、そして父親を連想しているのではないか。そんなことを考えながら、いつのまにか噂話を信じ始めている自分に少し嫌気がさした。真司もなんとも言えない表情を浮かべながら箸を進めている。
結局、僕も真司も、そして光も、例の噂のことに話すことはなかった。話すことはできなかったのだ。
弁当を食べ終える頃に、光は隣のクラスの友人に呼ばれ、教室を出ていった。待っていましたと言わんばかりに真司が僕をトイレに誘った。
トイレに着くと、真司は先客がいないかを確かめたうえで、僕に向き直った。
「カズはどう思う?」
もちろん、噂のことだ。なんのことか確かめることは、無駄なことだと分かったので、正直に答えた。
「分からないよ。本当かどうかなんて。さっきの昼飯の感じだと光の様子はいつもと変わらない気がしたけど。でも、それは光がうまくごまかしているって見ることもできるし。」
「そうだよな・・・。」
そんな話をしていると、他の生徒がトイレへとやってきた。結局僕らは、互いの何とも言えないやきもきとした気持ちを確認するだけで終わってしまった。そして、その気持ちを晴らすことができないまま、午後の活動へと移っていった。
いつもの帰り道。いつもと変わらないくだらない話。違うのは真司と僕の、光への疑念。真司は我慢できなくなった。
「なあ、光。」
「ん?」さっきまでの調子で答えた光が、真司の顔を見て、雰囲気の変化に気付いた。「どうしたんだよ、突然改まった顔しちゃって。」少し茶化した光だったが、それが逆に真司とそして僕の真剣さを引き立たせてしまった。
少し間をおいてから、真司が口を開いた。「こんなことを聞くのは、なんていうかプライバシーの侵害?ってやつかもしれないんだけどさ・・・お前の父さんって何してる人なの?」
一瞬、光の顔が凍り付いたように見えたが、すぐにいつもの光に戻って答えた。「なんだよ、そんなことか。俺の父親が何してるか、よくわかんないんだよね。物心ついたころにはもう別居してたから、よくわかんないんだよ。」
なんとも歯切れの悪い答えに我慢ができなかったのか、真司が確信をつく問いを投げかけた。「別にそうだったとしてどうってことはないんだけどさ・・・」
「まぁ、噂で聞いたんだけどさ、刑務所にいるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、光の顔が曇ったのが分かった。「・・・そっか。」そういって光はしばらく黙りこんでしまった。真司が少し声を荒げて光に迫った。「そっかってなんだよ。どうなんだよ。」
真司の剣幕に気おされることもなく、むしろ、すべてを悟ったかのように光が答えた。「誰から聞いたのか知らないけど、噂、聞いたんだろ?言っとくけど、その噂、間違ってるから。正確には間違ってると思う。」
「なんだよその曖昧な否定は。」
「さっきも言った通り、物心ついたころから別居してるからさ、父親がどこで何してるか知らないんだよ。」
確かにそれならば致し方ない。きっと父親との思い出はおろか、父親の記憶さえ曖昧でもおかしくはない。冷静に考えてみればそうなのだが、今の僕らはそんな答えでは満足ができなかった。僕らが満足できるのは、光の口から噂を否定するはっきりとした答えがでることだけだった。
「母親から何か聞いたりしてないのかよ。」真司の問いかけから遠慮が消えていた。
少し気恥ずかしそうな顔をした光は、「なんか、聞きづらいだろ?それに母さんと二人の生活が嫌ってわけでもないし、それにそんなこと聞いたら、母さんのこと苦しめそうだしな。」光の顔にいつもの笑顔が戻っていた。僕は光のその顔を見ることで、言葉で否定される以上に納得して噂の否定を受け入れることができた。
「そっか。なんか、変なこと聞いてごめんな。」
「いいって。まぁ、次にそんな噂を聞いたら否定しといてくれよな。」
「もちろん。」
その日の夜、光は父のことを思い出そうとした。おぼろげな記憶の中で、公園で両親と過ごした風景が浮かんだ。穏やかな空気が父と母と自分を取り囲んでいる。それが事実なのか、幸せな家族の一般的なイメージなのかは分からない。それでも、そのあやふやな幸せは、決して悪いものではなかった。おぼろげでも、事実とは異なっていても、不幸な記憶よりはましだ。そんな中でなぜかはっきりと思い出したのは、自分に語り掛ける母の言葉だった。
「光、お父さんを殺したのはお母さんなの。」
日が射しているはずなのに、なぜか薄暗い部屋の中で、泣きながら自分に謝罪する母親が頭から離れなかった。