GOOD DEATH GOOD BYE
高校生の時の作品を改題、改稿しました。大筋は変えず、表現や細部を分かりやすくしました。原題は『灰色の町から』といい、こちらの題も気に入っていました。
若さが溢れる拙い作品ですが、読んで笑ってやってくださいませ。
雨が降っていた。
空はどんよりとしていてのしかかってくるようだった。世界のすべてが色褪せて、灰色に見える。もう、うんざりだった。この街はいつだってそうだ。すべてが灰色。死の灰色だ。
ザーッと水しぶきを撥ね散らかして車が一台通り過ぎていった。四角い、コンクリートで出来たビルとビルの隙間から見える景色は狭い。濡れてねずみ色に変わったその冷たい壁に手をかけ、俺は座り込んで背をもたせ掛けていたその姿勢から立ち上がった。
死のうと思っていた。
次にここを通りかかる車の前に身を投げ出せば死ねるかもしれない。雨の音だけが響いている。ここで俺が死んでも、唾を吐きかける奴はいても悲しんでくれる人間はいない。野良犬さえ餌にありつけないのを知って姿を見せないような街だ、俺を撥ねる奴には不運だったと思ってもらおう。ああ、もっと車道に近付かないとな……。
「そんなまどろっこしいことしなくたって、これ一本で事足りるじゃん」
「!?」
唐突に少年の声がして、俺は振り向いた。しかしそこには誰もいない。ウィンドブレーカーのフードを払い、もう一度声のしたほうを見てみるがやはりいない。
「どこ見てんのさ」
「うわぁっ」
首を傾げて前に向き直ったら、一歩踏み出せばぶつかるくらいの距離にそいつがいた。おかしい。確かに声は後ろからしたはずだ。うつむいた子ども。顔は見えない。
「誰だお前!」
「さて、誰でしょう」
驚かされた屈辱から怒鳴り声を上げると、そいつはビビることなく逆にニヤリと笑って俺をからかった。神経を逆撫でられて、俺は思わず拳を振り上げた。こういうガキには痛い目を見せてやらなきゃいけない。それに何よりこのまま無視するなんて俺の気が済まなかった。このぐちゃぐちゃした感情を誰かにぶつけてスッキリさせられるなら、相手は選ばない。どの道死ぬかとすら考えていたんだ、生意気なガキを殺して道連れにしてやったっていい……。
「ガキ……運がなかったな!」
「待ちなよ」
ひたと俺を見据える目の空虚さに、思わず振り下ろそうとしていた拳が止まる。こんな十代に入って間もないようなガキに、こんなひ弱そうな坊ちゃんに気圧されたとでもいうのか、俺が?
「アンタ死にたかったんだろ? ほら、これ使いなよ」
差し出されたのは、こくりと首を傾げたそのしぐさに似合わぬ冷たいジャックナイフだった。既に抜き身のそれは俺のものだ。慌ててポケットを探るがなかった。
「どうして……」
ごくりと俺の喉が鳴る。
「さぁ、どうぞ?」
鈍く光る刃が俺を惹きつける。誘われるようにして伸ばした手で掴み取れば、使い慣れたそれはしごく簡単に掌に馴染んだ。手の震えも収まる。これで目の前の生意気なガキを刺す事も出来たはずなのに、どうしてかそんな考えは浮かばなかった。
じんと頭の芯が痺れるような感覚によろめいて、ナイフを握り締めたままその場にへたりこむ。また一台、路地の狭い隙間から通り過ぎる車が見えた。
置いていかれたようなそんな錯覚。脱力感。
俺の腕がのろのろと持ち上がる。
心臓が危機を察知してか激しく脈打つ。ナイフは突き刺すポイントをそこに定めたようだ。そうだ、死ぬのなんて簡単だ。
「首筋がいい。その方が苦しまずに逝けるよ」
優しい声……。
見上げた先には先ほどとは打って変わって穏やかな表情をした少年が微笑んでいて、俺には彼が天使に見えた。彼の教えてくれた通りにナイフの切っ先を首に向けた。なるほど、大きな血管の通っているところだから楽に死ねそうだ。俺は彼に感謝した。
少し力を入れて刃を滑らせればすべてが終わる。俺はナイフを首に当て、その冷たさに正気に返った。
「っ!」
咄嗟に投げ捨てていた。金属がコンクリートの地面にぶつかる音がやけ大きく響いた。いつの間にか戻ってきていた雨音が俺の耳を叩く。何だ? 何をしようとしていた?
「ちっ! 根性なしが」
恐ろしく冷たい声に辺りを見渡したが、そこにはもう少年の姿はなかった。あのナイフもなくなっている。いや、違う。ナイフはずっと俺のポケットの中にあったのだ。……夢だったのだろうか?
あんなにリアルだったのに。
少年も、ナイフの触れた感触も。
急に背筋がぞくりとして鳥肌が立った。身動ぎした拍子に首がちくりと痛んで思わず手をやる。その掌を見ると血が付いていた。じゃあ、やっぱり、夢じゃなかったのか。
俺は再びぶるっと体を震わせた。何はともあれ、あの死神とも悪魔ともつかないあいつからは逃れられたんだ。とにかく今は、一刻も早く家に帰りたい。俺は滴る雨のしずくをぬぐうと、フードを目深に被ってその路地を後にした。
借りている部屋は狭くて汚くて、日当たりが悪いせいでいつも陰気な感じがする。大嫌いだが、俺には似合いの場所だった。それに、他に行く場所もない。ほんのちょびっとの切り傷を自分で手当てした後は、何をする気にもなれずにベッドに倒れこんだ。枕に半分顔を埋めて考える。
どうして俺はあの時、死ぬことが出来なかったんだろう。
無意識に生を望んだからだろうか。それともあの悪魔の言うとおり根性がなかっただけ、か。
思えば俺の人生が狂っちまったのはいつからだろう。母親に捨てられたとき、俺はまだ五つだった。施設行きを逃れるために、十歳上の兄貴が歳を誤魔化して働いて世話をしてくれた。それも苦しくなって兄貴は地元のチームに入って、あの頃から俺たちは日の当たらない場所で生活してきたんだ。チームの中で生きていくのも、辛いことや危ないことがあってそれなりに厳しかった。サツに追いかけられたことは何度も、捕まったこともあった。けど、皆で騒いで馬鹿やって、楽しくて仕方がなかった。
十四のとき、一人で暮らすようになった。
その頃にはもう兄貴は女もいたし、家に帰ってくることの方が少なかった。俺のことは可愛がってくれてたが、兄貴はチームでちょっとした役割を担っていて俺がいない方が都合が良いことが多くなっていた。俺も俺で仲間と集まるのにいつも誰かの所にばかり行って、自分のところに招けないことが辛かった。兄貴がいつ帰ってくるか分からない家の中じゃ、下っ端の俺と俺の仲間はいつ鉢合わせするかとビクビクしてなきゃいけなくて気を使う。
だから、兄貴が部屋を残して女のところへ移っていったときは素直に嬉しかった。それがお互いのためでもあったわけだし、兄弟なんだから住む場所が違ったからって何も変わらないだろうと思ってた。
それからしばらくして兄貴が死んだ。
チームの仲間に殺されたんだ。兄貴はチームで扱っていたクスリをくすねてて、それがバレた。金を引くくらいならまだ良かった。それをやってる奴なんてたくさんいる。そういうのは他所から取ってこさせたりクスリを売るときにふっかけて稼いだ金で穴を塞げばそれで済むからだ。だが兄貴は……兄貴のやったことは許される範疇になかったってことだ。
あの人は商品に手を出して、それに溺れきってた。手遅れだったんだ。俺にはいつも、絶対に手を出すなって言ってたのにな。
見せしめの意味もあってか、リンチの挙句に殺されていたあの人の死体は酷いもんだった。血と、他の体液にまみれてて、顔は腫れ上がって見る影もなくなってた。兄貴の女がどうなったのか、俺は知らない。もし生きているとしたらきっと、恨んでいるだろう。兄貴のことも、俺のことも。
俺はチームを追放されて、生まれ育った町にもいられなくなった。女もダチも失った。それから色んな場所を転々として、この町にたどり着いた。ねぐらを手に入れ、不安定な日雇いの職で食い繋いでいる。こうして俺は今の俺になった。
誰にも存在を認められない灰色の生活だ。誰とも話さない、どこにも行く場所がない、ただ生きているだけ。何の楽しみも見出せず、逃げるように隠れて歩いて。人間の生き方じゃないだろ、こんなの。
だから死にたかった。けど、死ねなかった。
ごろりと転がって薄汚れた天井を見上げる。手を伸ばしてもどこにも届かないが、この手にはまだ血が通っている。ぎゅっと拳を作れば、掌に熱がこもる気がした。
兄貴のことを思い出して、やっぱりあんな死に方はしたくないと思った。死ぬなら楽に死にたい。もし出来るなら、意味のある死に方がしたい。幸せを見つけてからがいい。惨めなまま、生きていたことすら誰にも知られずに死ぬのは嫌だ。
ふと、何かの気配を感じて上体を起こした。大して広くもない部屋を見回すと、いつからいたのか、さっきの悪魔の姿があった。俺の部屋に一つしかないぼろぼろの背もたれもなくなってしまった椅子に、足を組んで座っている。柔らかそうな白無地のコットンシャツに深緑色の英国風セーターに身を包んだそいつは、灰色の半ズボンに紺の靴下、茶色の革靴とどこのお坊ちゃんだという出で立ちで俺の部屋に不法侵入している。
「まだ生きてたんだね」
「……俺を殺しに来たのか?」
「いや? ノイズが消えたから来てみただけさ」
何をされるかと身構えたが、そいつはそっけなく首をすくめて苦笑した。まるで人間みたいな受け答えだ。寒気がする。お前は悪魔だ。そうじゃなきゃ死神だろうが。そう言ってやりたいのを堪えて、俺は他の質問をした。言えば殺されるかもしれないと思ったからだ。
「ノイズって何のことだ。何が望みだ?」
「やれやれ、質問は一つずつお願いしたいね。出来ればの話だけれども?」
「………………」
皮肉たっぷりな口調だ。目の前に紅茶の入ったカップでもあれば啜っていたに違いない。ドラマに出てくる英国人か、お前は。
カチンときたオレは奴の向かいになるようにベッドに腰掛けた。睨みつけると、器用にも片眉だけ持ち上げて面白そうな表情の悪魔と目が合った。何も感じない。こんなのただの子どもと同然だ。馬鹿にされた屈辱のせいで、死への恐怖ってやつを忘れてしまったようだ。
「まぁ、いいよ。オレは悪魔じゃないし、死神でもない。それと、今はアンタを殺すつもりはないよ」
「じゃあお前は何なんだよ」
「今は」と強調された言葉を気にしないようにしつつ問い返した。するとそいつは肩をすくめて事も無げに、
「さぁね。オレは名前も忘れてしまったんで何とも言えないよ」
「!」
俺はその言葉にとても驚いた。こいつ、記憶喪失なのか……。
詳しく聞き返してみると、こいつは自分の名前だけじゃなく生まれた国も家族のことすら忘れてしまったらしい。覚えていない、じゃなく、忘れたってところが執着のなさを表している気がして、ちょっとだけこいつを可哀想に思った。
憎たらしい奴だが、見た目だけはまだほんの子どもだ。病人みたいな白い肌をして、淡い茶髪は猫のような癖っ毛で、皮肉げに歪められた口許と細められた吊り目がどこか悲しい影を背負っているような……。一人ぼっちの、子どもの悪魔だ。
「なんにも覚えてないのか……」
「一つだけ。マキって女の子のことだけは、思い出せる気がする」
「何だ、ガールフレンドか?」
「うるっさい!」
からかうと少年の白い頬に朱が差した。お、こいつもこんな顔するのか。
「オレのことはもういいだろ? それより他に聞きたいことはないわけ?」
ないことはない。何故ここにいるのか、何しに来たのか、生きているのか死んでいるのか、やっぱり悪魔なのか、聞きたいことはいくらでもある。
「だから、悪魔じゃないって。アイツラはもっとどこかぶっ飛んでる。オレのはちょっと違う」
「心が読めるのか!?」
「まぁね。さて、もう質問はいい?」
「ま、待て。えーと、そういえば、ノイズが消えたってどういうことだ? あの時俺には何も聞こえなかった。どういう意味なのか考えても分からないんだ」
質問を打ち切られると思った俺は、慌てて思いついたことを言った。どうしてだかこの会話を終わらせたくなかったのだ。
「オレには、人の心の声が聞こえるんだよ」
少年はぐっと身を乗り出して俺の目を見据えた。
「アンタの声が、あんまりにも悲痛なノイズ交じりの恨みの声だったからさ、頭が割れそうだった。そんなにこの世が嫌いなら、オレが手伝ってあげようと思ってね」
その言葉に驚くと共に、深い自己嫌悪に陥った。あんな醜い心の裡を知られてしまったことが恥ずかしかった。ああ、頭も割れそうになるはずだ、俺だってこんな気持ちを吐き出したくて捨ててしまいたくて仕方がないのに。
「……俺が、死にたいと望んだから、俺を殺しに来たのか?」
殺しに来てくれたのか?
彼は黙っていた。
冷たく澄んだ無感情な瞳で俺を見返してくるその様は、とても大人びていた。頷きもせず、否定もせず、彼は俺の目を、心を覗き込んでいた。
俺は熱に浮かされたようにたわごとを吐き出し続けた。
「俺は……、逃げ出したかったんだ。金もないし、仲間もいない。家族も。
この、灰色の町にもうんざりしてる……全部、投げ捨てたくなったんだ。何もかも捨てて、どこか別のところに行きたいって……!」
こんなことを彼に言ったって仕方がないのに。だが、何故か俺は助けを求めるように自分の中にあるものを吐露していた。彼は決してこういったことを打ち明けやすい相手ではなく、むしろ誰かにそうされるのを嫌う類の人物だ。そしてそれを隠しもしないのだ。ほら、今だって嫌悪感を露にして俺を見ているじゃないか。
俺の感情はすごく後ろ向きだ。自分でもよく分かっている。ドロドロした、汚いものだ。怒りを抱えているくせに、臆病で、覇気もない。いつだって逃げてばかりで、立ち向かうなんてとんでもないと思っている。このゴミ溜めの町にお似合いな、襤褸屑の様な俺。生きている価値なんてない。
「またノイズ。そういうの、見てるとイライラするんだよね!」
怒りをはらんだ声に俺はハッと顔を上げた。気付かずにいつものクセが出ていたらしい。すぐに俯いてしまう、いつものクセが。
「ああ……頭が痛い。全く、大の男がウジウジ、メソメソと。甘ったれんな!」
「!」
「そんな風に泣き言垂らすのは、アンタが本当は死にたくないからだ。止めてほしいんだろう? 違う? そのくせ“俺は生きていても価値はない”とか、“この世は絶望だ”とか言っちゃって。おまけに“殺しに来てくれたのか?”だって? 他力本願もいい加減にしろ」
「…………………………」
心の臓を刺されたようだった。
反論しようと口を開いたが、出来なかった。確かにその通りだったからだ。俺は自分をダメな奴だと思っている。生きている価値がないと。それでも死ねなかった。死ぬことはいつでも出来たはずなのに、だ。勇気のない、臆病な卑怯者……。
「死にたきゃもう一度試してみる? でもアンタ、絶対に死ねないよ」
「……俺も、そう思う。でもどうすりゃいい? 俺は死ねない。その勇気がない。だったら! ……俺はどうすればいい? このままじゃどうにもならない。お前の言うノイズは治まらないんじゃないのか?」
「自分で考えなよ」
「!」
突き放された。
ぐっと喉元まで出かかった言葉を押さえ込む。
こいつは俺にも“生きたい”という願いがあることに気付かせてくれた。それだけでも感謝すべきなんだ。俺のこれからについて何の義理もないこいつにアドバイスを求めるなんてこと、しちゃいけないんだ。それなのに、俺は……。俺は「なんでだ」と思ってしまった。見捨てられたと思ってしまった。唇を噛み締め、こんな思いを彼に悟られないようにとうつむいた。
「言いたいことは言えばいいのに」
「え?」
「……さっきは死ぬことなんて考えてなかったじゃん。むしろ逆にさ、生きたいって思ってたんじゃん。何でうつむいてんのさ。そんなだから、視野も狭くなる」
「………………?」
「アンタ、この街を出てみたら?」
「え?」
「逃げ出したかったんだろ? なら丁度いい。もっと大きな街で仕事と家を探せばいい。陽当たりのいい、明るいところがいいね」
「……それで変われるかな」
俺の言葉に奴はムッとした。
「暗い言葉は聞きたくないよ。“変われるか”じゃない、“変わる”んだろう?」
「そう、だったな」
腰掛けていたベッドから立ち上がる。
「荷物は要るものだけ持って、今すぐここを出るのもいいかもな。向こうで安い部屋を探してさ。金もちょっとならあるし、仕事は何だって出来るしな。もうすぐ朝だ、バスはないから、一緒に街まで歩かないか?」
「……いいじゃん。その調子、その調子!」
思い返せば、このとき一度だけだった。彼が、本当に朗らかな笑顔を俺に向けたのは。
それから、少しだけ眠った。朝食を摂り、少ない荷物をまとめ、部屋を引き払いに行った。残していくものは勝手に処分してくれるそうだ。道路沿いを歩いていると、自ら動く者には幸運が訪れるのか、同じ方向へ行くトラックが「荷台で良ければ」と言って街まで乗せてくれた。
今日は良く晴れた日だった。久しぶりに早朝外に出た気がする。風がすがすがしく、心まで軽くなったようだ。ぐっと背伸びをして息を大きく吸えば、まるで生まれ変わったみたいにすっきりとした。隣に座っているあの少年を見ると、なんと彼は半ば透けていた。慌てて「どうした」と問うと、あいまいに微笑んで答えた。
「朝だからね。……オレみたいな精神体は陽の光に弱いのさ」
なんだか吸血鬼のようだと言えば笑われた。苦笑のように見えたのは気のせいだと思いたい。そうしている内に街に着き、俺は四十過ぎの陽気な運転手に礼を言い、握手をして別れた。すでに日は昇りきっており、街の端では市を開いているところもあって賑わっていた。
俺たちは遠くに見えるビル群を目指して歩いていった。メインに近い辺りを通っていたとき、子どもを預けに行くのだろうか、若い母親らしき女が三歳くらいの少女の手を引いて道を渡っていた。それを見て俺も足を踏み出した。
「車が来たよ」
奴の囁きと車の荒々しいブレーキ音が耳に入ったのは、ほぼ同時だった。
「っ!」
危ない、と声を掛けようとしたが口に出せていたかどうか……。
肩の荷も下ろせぬままに前を行く二人を抱え込んで引っ張り倒す。同時に俺は彼女たちを庇うように自身を車の方へ放り出していた。脇から背に抜ける重い衝撃。そのまま吹っ飛ばされたかして俺は体を横たえていることに気が付いた。ゼリーの海の中にでもいる気分だ。耳も良く聞こえないし、手足が重くて動かない。目を開けるのも億劫だ。
子どもの泣き声が遠くなっていく。おお、良かったな、助かって。どうやら俺はここまでのようだ。
「ったく。お人好しだよね、アンタ。子どもを庇って死んじゃうなんてさ。あ、もしかしてロリコンだった?」
――抜かせ。こうなって俺は後悔なんかしちゃいないぞ。むしろ本望だよ。それに、あの小さい娘は可愛かったしな。あ、いや、俺はそういうんじゃないぞ? 将来性があるって思っただけで……。聞いてるか、お前、おい……?
「あーあ、せっかく未来は明るかったっていうのに。バカなことしたなって思ってる?」
――思ってない。二人は、助かったのか?
「ああ。アンタのおかげでね。ひとはいずれ死ぬ。なのにどうして庇ったりしたのさ」
――そうするのが、正しいと思ったからだ。
「なるほどね。まぁ、自分の命だ、好きに使うがいいさ。じゃあ、良い死を」
――ああ、さよならだ。
ふと、目を開けると光が流れ込んできて目が眩んだ。手で遮ろうとしても全く動かない。俺は、死んだのか?
「意識が戻られたのですね?」
と、そんな声と共に俺の視界に誰かが割り込んできた。それはまだ若い女だった。看護婦ではない、少女と言ってもいいくらいだろう。白い肌に映える健康そうなピンクの唇、キラキラと陽にきらめく金髪に、俺は最初、彼女のことを天使だと思った。
――君は誰? ここはどこだ?
口がうまく動かない。喉から漏れるのはひび割れた音だけだ。
「まだ動かないで。麻酔がきいているのよ」
俺の唇に何かが当てられた。それは濡らした清潔な布で、彼女はそっと口の中を湿してくれた。長時間寝かされていたんだろう、舌が張り付いたようだったのだ。
それから色々なことを聞かされた。彼女の名前はジュリアで、俺が助けたのは彼女の義理の母と妹だったこと。彼女の父親はとても感謝していて、ここの入院費を払ってくれていること。そして、退院したらしばらく彼女の家で養生しないかという申し出だった。
俺がそれを快く受け入れると伝えると、ジュリアは嬉しそうに笑った。願ってもないことだったし、何より、彼女は俺の好みだったんだ。
「ねぇ、貴方のお名前は?」
「……ロナウド。ロナウド・ホフマン」
口を動かすのもやっとのことだったが、その価値はあった。ジュリアがにっこりと微笑んだのだ。天使より可愛かった。
麻酔が切れかけているのか、笑うと肋骨に痛みが走ったが、俺は生を実感していた。あの悪魔を呼び寄せるようなノイズはもう出さない。俺は自分の命の使い方を知ったんだ。
だが、いつか俺が死ぬとき、また彼に会えるだろうか。あの皮肉げな微笑を浮かべた、記憶喪失の悪魔に。その日まで……
Good Death. Good Bye