表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

踊女

作者: 白色粉末


 おどりめ、おどりめ、と馬鹿にされて生きてきた。一芸極るまでは誰も彼もそうなのだ。身の程知らずの商売女と言われて育つ物だ。



 踊女、寒山は昔を思い出す。商家に女子として生まれたは良いが、押し込み強盗の畜生働きのせいで物心つく前に天涯孤独の身となり、遊郭の女から舞を習って生きてきた。

 寒山等というまるで女らしくない名は一番初めに舞を教えてくれた女が付けた。寒山自身は気に入るも何も無い。ただ夜の町で生きようと思うなら、元の名は邪魔だった。


 十二の時に、大層有名らしい舞の名手の眼鏡に適った。寒山自身は何も考えていなかったが、先達が「こうだ」と言えばそうなるのが芸の世界だ。寒山はあれよと言う間に舞手、東雲の預かりとなり、体ではなく芸を売って暮らす事になる。

 確かに舞は好きだった。己の身体で花を、水流を、雲を、風を表す。人の愛憎、情動の全てが舞の中にある。

 一芸の練を認められるまでは、その日暮らしで過ごす酔っ払いにすら馬鹿にされ、土くれを放られてからかわれるのが踊女だったが、寒山は少しも気にしなかった。


 寒山の舞は、そんな事では汚しようがなかった。



 寒山、齢三十六。体は弱り、皺が出来、段々と死が近づいてくるのを感じるが、未だ舞の頂は見えず。

 生来体は強くない。代わりに心が強かった。泣けずの寒山可愛げなしといびられる、不撓不屈の踊女であった。


 踊女とは蔑称である。決してそういった意味合いで生まれた言葉では無かったはずだが、昨今良い意味で使われることは無い。寒山程にまで名を成せば、舞手と呼ばれる物だ。


 だが寒山は己の事を踊女と言った。舞手などと上品な呼び方は似合わないと思っていた。


 舞とは淫猥で、しとやかで、苛烈で、優しい。

 少なくともお上品なだけの物ではなかった。踊女と言うのがはしたない言葉なのだとすれば、踊女と呼ぶのが最もしっくりきた。



――



 「寒山御師匠、姐様方、揃ってお待ちです」


 寒山は火鉢に煙管の中身を叩き落とす。厳冬の刺すような寒さは火を傍においても一向に和らぐ事がない。寒山等と言う寒々しい名前を持っていてもそうだ。

 踊女の緑天が障子の向こうで三つ指ついて寒山の返事を待っている。冷たい廊下で平伏しているあの可愛い緑天は、さぞかし凍えているだろう。


 寒山は感情の籠らない冷たい声を発する。


 「好きにやらせな、緑天」

 「でも、寒山御師匠」

 「いいとこのお嬢ちゃんがこの寒山の所に何をしに来たって? 寒山の舞は教養じゃないよ。もっと下品な物なんだ。好きにやらせて、適当な所で帰しな」


 寒山は弟子は自分の都合でとる。これと思った者に声を掛ける。かつて自分がそうやって拾い上げられたように。

 だから他人の都合で押し付けられた弟子の事なんて知ったこっちゃない。“合う”と思えば構わず稽古を付けるが、押し付けられた手合いではそういった者は余りいない。


 「怒られます」

 「じゃぁ怒られな。嫌なら黙らせりゃ良い」

 「…………」


 良家の子女相手に怒鳴りつける度胸など緑天には無い事を、寒山は重々承知している。


 渡世なぞどこまで行っても人と人、その繋がりだ。寒山はそれを無視している。仮に緑天が言う通りにして町のお歴々を怒らせたら、寒山はもうそれで飯の種がない。

 後は野垂れ死ぬだけだろう。寒山はそれを承知で言っていた。それで死ぬならそれまで。寒山は何時死んでもいいのだ。


 それは緑天にも常々言っていた。寒山は緑天の飯と寝床と勉学の世話をしていたが、何一つとして強制しなかった。踊の事以外は。

 だが、死ぬ時は惜しまず死ねと言っている。何時もそう言っている。苛烈な話だから、逃げたくなったら何時でも逃げて良いとも。


 死なば死ね、偽って生きるな。無駄に生きるな。


 寒山は頑固婆だった。


 「戻ります」

 「行きな」


 障子に映る小柄な影が、一度頭を沈み込ませてから立ち上がる。緑天は寒山がそう簡単に口に出した言葉を覆さないのを知っている。

 するすると足音無く遠ざかる気配。寒山は沈黙の中で目を閉じた。鳥の羽ばたく音が聞こえる。


 「……駄目だ」


 か細い呟きだった。寒山は立ち上がり、外行の羽織を手に取った。



――



 寒山は玄助と言う男を伴って北の山に登った。玄助は二十五かそこいらの来歴不明の男で、普段は稽古場の下働きをしていたがこうやって寒山の用心棒を務める事もある。

 滅法腕が立つのだ。必要以上に寡黙で、口が堅い。玄助と話す者は玄助の大柄な体躯の事も相まって、巌に向かって一人相撲を取っている気分になると言われるほどだった。


 北の山道はそれほど厳しくない。町に近く役人の目が届くため、ならず者の類も居ない。

 寒山と玄助はそこを登り、中腹の川に辿り着く。近くには山村があり、田畑がある。村民達は朝も早くから忙しく働いている。


 川の中に襤褸衣を着た少女が一人居た。少女は痛いほどに冷たいであろう川の中に立ちつつも平然としており、太陽に向かって力の抜けた右手を差し出し、ゆるゆると回っている。



 舞っているのだ。寒山は川辺の小岩に腰掛け、簪を直しながら問い掛けた。



 「今日はなんの舞だい」


 寒山の紅の乗った厚い唇が笑みの形に歪み、ふるふると震える。


 この少女を見るのが、寒山の楽しみだった。少女が舞っている事はよくある。舞いながら、寒山の事を待っているのだ。


 「風」


 少女は無感動な声音で応えた。


 「どんな」

 「この山の」

 「随分ゆったりした風だね」

 「違う」


 この山は山犬山と呼ばれている。山犬山を降りる風は冷たく強く、優しさの欠片もない。

 少女の舞のようにゆっくりとはしていない。寒山の悪戯っぽい言葉に、ぴしゃりと否定。


 「こうすると、風が良く解る」

 「見えもしないものが解るのかい」

 「解る。あたしには解る」


 少女は目を閉じ、震えていた。常人には理解できない感性だ。天賦の物である。


 「ならアンタ、早死にするよ。人の中で長生きできない。アンタを連れて行くのは風か妖か、それは解らないけどね」


 寒山は小岩を蹴って立ち上がり、草履と足袋を脱いだ。そして高価な着物が濡れるのも、冷たい水が体の熱を奪うのも構わず川に踏み入り、少女の横に立つ。


 「やってみな。解るね、前に見せたんだから。出来なきゃそこまでだよ」


 寒山は右手を蛇のようにくねらせて天へと掲げた。円を描く右の蹴り足が水を弾き、簪についた鈴がシャンと鳴る。

 果たして寒山の傍らで少女は同じように手を掲げる。迷いも衒いもなく、寒山の動きと山の景色の中に同化するように動く。


 玄助は常と変らぬ表情で見守っていた。直立不動のまま両手を握り締め、何を言うでもなく。



 山犬山。悪事を働いた六人の山伏が、山の民に復讐され五体を八つ裂かれた伝承の残る山だ。山伏達の躯は山犬の餌になった。

 しかし陰惨な伝承は山には関係ない。山は何時も冷たく厳しい。変わらず其処にあり、そして美しい。


 山の風、山の水よ。寒山は両手を開いて右肩を落とす。鋭く手で空を切れば、風の中に自分が埋もれていくのが解る。


 あぁそうだねぇ、あんたのさっきのあれは、間違いなく山犬山の風の舞だよ。


 寒山は横目で少女を見やった。少女は目を閉じたまま舞っていた。それで少しも身のこなしを崩した様子がないのだから、全く大した物だった。


 だが駄目だ。目は常に見開いていなきゃ。

 人の生は短い。何でも感じて、取り込んでいかなけりゃならない。


 「目ぇ開けな! アンタを覗き込む神様を、しっかり睨み返すんだよ!」


 ざざ、と二足で足踏む。右から左。左から右。ざん、ざん、小気味よく水の流れを割るように。

 寒山を少女が追う。流水の如き動きを己の内に取り込んで。


 寒山と少女が消えていく。水と風になっていく。


 そして終りは来る。少女が水の中に倒れこみ、寒山は慌てず騒がずそれを助け起こした。

 少女は痩せ細っている。酷く軽く、肉付きは悪い。限界に達したのだろう、蒼褪めている。


 農村の子であるというのは寒山にも予想ついていた。そして農村の生活は生易しい物ではない。

 馬鹿な子ほど可愛いと言う世迷言は農村では通用しない。仕事の遅い者は嘲られ、煙たがられ、怠け者は淘汰される。

 朝から女組の仕事を手伝わず舞に傾く少女に、何も言わず飯を食わせるような甘ったれはいない。


 矢張りこの子は生まれた場所では生きられぬ。


 「玄助! 火を起こせ!」


 玄助は寒山の命令を予想していたようで、何時の間にか枯木を集め終えていた。



――



 寒い季節だ。濡れたまま放っておけば凍死しておかしくない。

 少女を火にあたらせ、玄助に持ってこさせた握り飯を食わせながら、寒山はその様子をじっと見ていた。


 器量は良い。髪も肌も荒れているが、磨けば直ぐに光るだろう。

 柔らかな身体。体を操る上手さ。指の動きなどは、特にいい。足運びも優れている。


 だが何よりその感じ方。

 他の何も目に入らない、捨て身の生き方。


 「腹が減る事よりも、踊る方が良いのかい」


 少女は首を傾げた。何を言っているのか解らないらしかった。


 少女は暫し考えて、結局寒山の言葉を無視した。


 「アンタ、綺麗に動くな」

 「そりゃそうさ。ずっとそれの為に生きてきた」


 素っ頓狂な少女の言葉に寒山は思わず微笑んだ。年を取り、寒山が微笑む事はめっきりなくなった。


 「でもね、アンタも綺麗だよ」

 「そうなの?」

 「そうさ、それに凄い。アンタは自分の舞を信じてる。ややこしい事を考えない」

 「よく解らない」


 藪がざざ、と鳴った。すわ獣かと身構えるが、玄助は平然としている。


 現れたのは男だ。鎌を持っている。近くの山村の者である事は容易に想像つく。


 「竹! またお前は!」


 竹と呼ばれた少女は怒鳴り付けられたと言うのに平然としていた。ちらりと視線を遣っただけで、また握り飯にかぶりつく。


 「あんたらか、竹に変な事を吹き込んだのは」

 「舞の事かい」

 「竹! 何食ってやがる! とっとと村に戻って女組に混じれ! 仕事せんなら今日も食わせんぞ!」

 「アンタ、この子の親父か」


 男は寒山に険しい視線を向けてくる。


 「俺の子ではねぇ、村の子だ」


 山犬山の村は若衆組の仕切りで夜這いを取り組む乱婚の村だ。母親は知れても、父親は知れない。生まれた子は誰の子でもなく村の子として育つ。


 寒山はそうかい、とだけ言って少女の頭をガシガシ撫でた。玄助と一つ声を掛ければ、巌の如き男は背負った寒山の荷物から紐を通した銭束を取り出す。


 そしてそれを男の前へと放り出した。一介の農民では、容易に手に出来ない額の金子だ。


 「な、なんじゃこりゃ。何なんだ」

 「銭だよ。仕事しねぇ娘なら要らないだろう。この子は私が貰っていく」

 「何だと?」


 寒山は少女の頬に手をやって強引に顔を向かせた。

 寒山は頑固婆だ。でも一番重要な所だけは選ばせる。


 「答えは解ってるがね、一応聞いとく。アンタ、私についてきな。アンタは村じゃ生きられないよ。舞のことばっかり考えてる。自分でも解るだろう? アンタは踊女になるために生まれてきたんだ。そういう天命って奴なんだよ」

 「天命?」

 「そうさ」


 少女は男と寒山を見比べた。男は少女の、静かな水面のような感情のない視線にあてられて、沈黙する。


 「そんなん知らない。でも、あんたの踊りを教えてくれるなら、ついていく」

 「……そうか」


 天命なんて知らない。少女の言葉に、寒山は普段の頑固婆ぶりも忘れて納得してしまった。


 確かに自分も、天命がどうのこうのと考えたことは無い。舞は天命でやるのではない。やりたいからやるのだ。


 「決まりだね。おい、その銭は持って帰りな。足りなきゃこの寒山を訪ねてくるがいいさ。たった今からこの子は私の子だ」


 寒山は少女の目を見る。何も考えていない馬鹿の目だ。


 ただ一つの事しか見えていない。舞の事。


 この子は鏡だ。森羅万象を映す水面なのだ。



――



 松林、と名を与えた。竹より上等で響きがよいと思ったからだ。

 松林は与えられた名を何とも思っていないようで、呼ばれても反応しない時がある。慣れるまでは時間が掛かるだろう。


 半月経った。寒山は玄助を部屋に呼びつけ、喋らない男を無理やり喋らせた。


 「緑天が諍いを」

 「へぇ。あの気の弱い娘がね」


 松林を朝から晩まで働かせ、同時に手習いをさせ、夜になれば灯りを準備し、疲れ果てて眠る前に稽古を付ける。

 松林の為に手間と暇、そして金子と油を惜しみなく使う寒山の事を誰もが奇異の目で見ていた。

 言葉も満足に話せない出来損ないにどうしてそうまで情を掛けるのか。寒山にとって幸いだったのは、寒山の勘気を恐れて直接聞いてくる者がいなかった事である。当然、煩わしくなくて幸いと言う意味である。

 が、何れ問題が起きるのは当然と思っていた。それが緑天と言うのは多少予想外だったが。


 「喧嘩の内容は」

 「緑天が松林の簪を取り上げたと」

 「私もあったよ、そういうのは。姐さん達は皆意地悪だったもんさ」

 「二人を呼びますか」


 寒山は目を細くした。



――



 松林と緑天と揃って布団部屋に押し込まれていた。これが狭くて黴臭くて暗い物だから、子供は大層怖がる。

 のだが、松林は至って平然としており、緑天は松林への怒りから恐怖を感じる暇もなかった。お仕置きにはならないだろう。


 「これはあたしの」


 松林はそっぽ向きながら、頭の簪に触れる。結い上げた髪は半月前とは違い艶を増してきた。


 「元は寒山御師匠のじゃないか」


 緑天もそっぽ向きながら言う。ぐしぐしと泣きながら膝を抱え、歯を食いしばっていた。


 「欲しいの?」

 「そういう事じゃないよ」

 「何で?」


 緑天は目を吊り上げて立ち上がる。


 「だっておかしいじゃないのさ! 何でアンタばっかり!」

 「あたしばっかり?」

 「急に拾われてきて、何にも出来ないくせに手習いの先生付けてもらって、お小遣いまで。寒山御師匠の稽古だってアンタの方が構われてる! おかしいじゃない! 私ずっとここにいるのに!」

 「簪は?」

 「簪だって! 寒山御師匠の物を強請るなんて烏滸がましいったらないよ!!」


 松林はうんと唸って立ち上がると、手をくねらせて天に掲げた。


 「見てろ」


 松林は舞い始めた。布団部屋は狭い上当然布団がしまってある。動ける距離は半歩ほどもなく、とても舞える場所ではない。


 しかし松林の舞は小揺るぎもしなかった。薄暗闇の中、松林の周りだけが色付いていく。


 体捌きに鬼気迫る物がある。何時しか緑天は見惚れていた。

 長く舞を続ける者には、時々「降りてきた」と言われる時がある。舞の最中、体内に超常の何かが降りてくるのだ。

 皆、神様が降りてきた、と言う。


 それだ、と緑天は思った。


 松林は両手を肩の高さまで上げ、左右に開いた。

 傾げた小首に色気がある。とてもやせっぽちの小娘とは思えない迫力で、松林は緑天をねめつける。


 「緑天の動きは綺麗。でも舞は寒山師匠とあたしの次」


 緑天は頭に血を登らせた。松林の言葉に怒りを感じたのではない。


 それを認めてしまった己の不甲斐無さに怒りを感じたのだ。


 この憎らしい女の体捌きは自分の物とは明らかに違う。

 何も疑わず、捨て身で舞だけをやってきた人間の物。

 寒山御師匠の舞に雰囲気がよく似ている。


 布団部屋の扉が開かれた。閂を握り締めた寒山が仁王立ちしている。背後には下働きやら踊女の姉さん方が恐る恐ると言った風に連なっていた。


 「このお馬鹿!」

 「寒山御師匠」

 「何ボケッとしてんだ、テメェの舞にケチ付けられて! 私の預かりに腑抜けは要らないよ!」


 緑天は立ち上がって問答無用に松林を張り倒した。松林はもんどりうって倒れる。鼻血が垂れて着物に染みた。


 「痛い」


 松林はそういったが、気にした風もなかった。折檻されるのは慣れっこだったのである。


 緑天はしゃくりあげるのを必死に我慢して途切れ途切れに声を発した。涙までは止めようがなかった。


 「寒山御師匠! あだじ、頑張っては、はだらくげど、手習いやめまず! あだじ、ま、ま、舞だけ、舞だけやりまず! 他になんも要りまえん!!」


 寒山は肩を怒らせて緑天に拳骨を落とす。


 「何粋がってんだい女にもなってない餓鬼が。学の無い奴に舞は出来ないよ。松林、アンタだってそれはそうだ」


 おいで、と言いつつ、寒山は二人の首根っこを引っ掴んで部屋に引っ張っていく。



 囲炉裏の前に二人を放り出して、改めて一発ずつ拳骨を落とした。


 「緑天、松林が嫌いか」

 「大っ嫌いでず……。この子を買っだがら、寒山御師匠はどううんの婆様にお金の無心をずることになっで、びんなに馬鹿にざれて」

 「誰がアンタに私の心配をしろと言ったんだ! 松林! アンタは緑天をどう思う!」


 我関せずとそっぽ向いていた松林は、何も気負わず答える。


 「あたしは緑天の舞、好きだ」

 「松林、アンタは馬鹿だ! 人間の心が解らないから神様みたいには舞えても、人間の舞は出来ない! 怠けてんじゃないよ! もっと必死に人を見ろ!」


 寒山の大喝を受けて、流石の松林も震えた。それほどの迫力があったし、舞を教えてくれる寒山は松林にとって特別も特別だった。


 「アンタら、仲良くなんてしなくて良い。でもね、アンタら踊女としちゃ全然足りてない。互いを見るんだ。もっと必死におなり」



――



 翌日からもう、何事もなかったかのように振る舞った。



 緑天は頑張る娘だ。何でも褒められると嬉しいから、色んな事を必死でやった。

 礼儀正しく、丁寧で、控えめだった。気立ての良い子だと姉さん方からも可愛がられた。


 譲る事の多い気性だし、年少であったから、争う経験なんて殆どなかった。


 初めてだった、松林のような存在は。あぁも負けたくないと思うのは。



 今日も緑天は朝日が昇るより前に置きだして稽古する。鶏が鳴くと同時に皆起きだして仕事を始めるから、それよりも早く起きて稽古にあてる。


 寒山御師匠は舞を教えてくれるが、本当に大事な所は教えてくれない。自分で気付くしかない。時間は幾らあっても足りない。


 そうする内に朝は来る。掃除、火起こし、布団干し、割り当てられた仕事をこなす内、あっという間に時間は過ぎる。

 昼を過ぎれば先生が来る。字を習い、詩を習う。その時徒弟は緑天のような踊女達だけでなく、色々な所から色々な者が集まってくる。中には意地悪なのも居て、緑天は辟易させられる。


 ふと隣を見れば松林が真面目に書に取り組んでいた。

 初めの内こそ誰にも従わない野良犬のような振る舞いだったが、松林は寒山の言う事は素直に聞いた。割り振られた仕事をこなすようになったし、字の先生を前に嫌な顔をする事もなくなった。

 でもやはり根っこの所は変わらない。誰からどう思われても構わず、暇さえあれば足裁きを、寸暇を惜しんで手の振りを見ている。


 最初は誰もがこの生意気な松林を煙たがったが、七日もしない内に一目置くようになった。

 松林の余りの必死さと一途さに気圧されたのだ。それはそうだ。緑天だって松林の捨て身の舞を見て、“寒山御師匠のようだ”と思ってしまうぐらいなのだから。



 夕暮れ、緑天が門前の掃き掃除をしているところに松林が通り掛かる。

 塵出しをしていたらしい。


 松林は緑天を見て足を止めた。誰が相手でも路傍の石とでも言いたげな態度の松林だったが、緑天には何故か特別な振る舞いをする。


 「何なのさ」

 「頑張れ、緑天」


 松林が何を言ったのか、緑天には直ぐには解らなかった。

 緑天は思った。明日は槍が降る。


 「うるさい。偉そうに言うんじゃないよ」

 「緑天の方こそ偉そうだ。緑天の癖に」

 「癖にって何さ!」


 思わず声を上げた緑天は、はっとして掃き掃除に戻る。

 こんな奴にかかずらっている余裕はない。


 そっぽ向けば松林は何を思ったか、態々回り込んで緑天の顔を覗き込んでくる。

 またもやそっぽ向く緑天。回り込む松林。


 「もう行きなったら!」


 溜らず緑天は怒鳴った。松林はうんと頷いて何事も無かったかのように歩いていく。


 緑天はなんだか胸がじんじんとうずいて、訳も解らず声を発した。


 「松林、アンタ、私の舞を好きだと言ったよね」


 再び立ち止まり、振り返る松林。


 「丁寧で綺麗。他の奴らみたいに気の抜けたとこが無い。緑天の舞、好きだ。師匠とあたしの次だけど」


 一言多いのだ、馬鹿。

 じわ、と緑天の目に涙が浮かぶ。寒山は滅多なことで緑天を褒めない。


 「私もアンタの舞、好きよ。でも負けない」

 「うん」

 「負けない! ……頑張れ、松林」

 「うん」


 松林はやっぱり頷いて、門の中へと消えていく。


 昨夜の事が思い出される。悔しくて、嬉しい。何か新しいものを手に入れた。緑天はそう思う。


 ぼろぼろと涙が毀れてきて、掃除が出来なかった。


可愛い女の子が書きたい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 久しぶりに読み直しましたがやっぱりいいですね。
[良い点] 今更読みました。こういう小説は少ないから、珍しく感じますね。 [一言] 可愛い女の子が書きたい? HAHAHA、無理するのは駄目度と思いますよ!
[一言]  これ、連載してほしいなあ(笑)  踊女の人たちのお話を、もっと読んでみたいと思いました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ