表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

プエッラの花

 その意味を知らなかった、というのはただの言い訳にすぎない。

 少女を外につれだすという意味を。その、ほんとうの意味を。




「おいしい。これ、なんていうの?」

「カフェラテだ」

「カフェオレよりもすこし苦いけど、とてもおいしい」

「そりゃよかった」


 スターバックスに入るとその空間は広く、混んでいた。

 幸運にもいちばん奥のソファ席が空いていた。


「一樹が飲んでいるものはなに?」

「アイスコーヒーだ。おまえにはまだ苦い」


 プラスティックのカップに注がれたコーヒーが、すこしだけゆれる。

 細く白い指が、そのカップにふれたからだ。

 そのコントラストに、一樹はめまいをおぼえた。


「本当に、いいのか」

「?」

「俺はまだ、おまえのことをよく分かっていない。外に出すなと言った男のことを信頼していいのかも分からない」

「私は、外に出たかった。ずっと、私は私の目で外を見たかったの。だから、いい」

「……不思議だったんだが」


 グリーンのストローに触れているシリウスに、一樹は問いかける。


「おまえは、俺を信用しているのか? なにをするかも分からないというのに」

「信用していなかったら、私は逃げている。こころが見えないひとだから、知りたいと思う。そんなひと、私のまわりにいなかったから。私のほうこそ、問いかけたい。あなたは、私のことを信用しているの? 信頼しているの?」

「分からない。だから、知りたい」


 アイスコーヒーのなかに浮かぶ、氷がからりと溶けた。

 まだ、朝夕はさむい。けれど、昼間はとてもあたたかかった。

 スターバックスのなかは騒々しく、高い笑い声が聞こえてくる。シリウスは、それを聞くと以前買い与えたベージュの、シフォンワンピースからのぞく手を、そっとまだ幼い耳へ当てた。

 黒い髪の毛がそっとゆれる。


「どうした」

「なんでもない」

「……聞こえるのか? まわりの人間の声が」

「―ーうん」

「出るか」

「ううん。いい。だって私、ここが好きだから」


 耳から手をはなした少女は笑い、ストローに口をつけた。

 少女は音楽を聴くように、森のささやきを聴くように、目をとじる。

 

 その姿は、少女ではなく――成人した女のようだった。


 サファイアブルーの瞳。

 日本にはない、目の色。

 どこの国の人間も、その目の色をしていないだろう。

 それほどまでに、澄み、うつくしい色をしていた。


 少女は、人間ではない。それを今更ながらに痛感する。

 だからといって、人間ではない部分を探すことは困難だった。

 どこから見ても、それほどまでに人間だったのだ。


「そろそろ出るぞ」

「うん」


 プラスティックのカップをゴミ箱に捨て、スターバックスを出た。外は、すこしだけ曇っている。雨でも降ってきそうだった。アパートに帰るあいだに、クロッカスの花が咲いているのを見つけた。黄色い、すこしオレンジかかった、鮮烈な黄色。

 シリウスは、それを見下ろしてから再び歩き出した。

 アパートに帰ると、一樹はつなぎを着始めた。

 仕事に行くのだ。

 シリウスはその後ろ姿を見て、幼いくちびるを開く。


「もう、行くの?」

「ああ」


 茶色の髪からわずかに漂うのは、大地のかおり。一樹は、工事現場ではたらいている。時給がいいことと、昼間は家にいられるからという理由だった。


「じき、暗くなる。夕食は作っておいたから、食べろ。いいか、暗いうちは外に出るな」

「わかった」


 シリウスの頭にふれようとした手が、引かれる。ふれてはならない。一樹は自制している。少女にふれてはいけない。

 清らかな少女が、汚れてしまう。


「一樹」

「なんだ」

「いってらっしゃい。私、まってる」

「……ああ」


 シリウスが手をふると、一樹もかえした。

 手を振るなど、何年ぶりだろう。

 妹がまだ、生きていたころ――。

 いや、やめよう。もう、あの少女はいない。永遠に年を取ることはないのだから。


 

「おはようございます」


 シリウスをアパートにのこし、一樹は工事現場にうろつく男にあいさつをした。

 壮年の男だが、足腰はとても強く、現場監督として一樹の面倒を見てくれている。


「おはよう。なんだお前、えらく今日は機嫌がいいじゃねぇか」

「……そんなことはないですけど」

「いいや。そんなことあるね。彼女でもできたのか?」

「まさか」


 たばこを吸っている監督は、名を佐々木勇治という。

 勇治は携帯灰皿にたばこの火を消して捨てた。


「さ、今日も始めるか。おおい、みんな、集まれ」


 春休みをもてあました大学生や、一樹とおなじように工事現場で食べている男が、ぞろぞろとあつまってくる。

 タオルを首にまき、ヘルメットをつけている姿は、一樹にとって見慣れたものだった。

 色がない。

 あのシリウスの瞳の色やクロッカスの花のような色は、そこにはなかった。


 耳が痛んでしまいそうな音が、ずっとつづく。

 聞こえないふりをして、働いた。

 自分はなんのために働いているのだろう。

 なんのために生きているのだろう。

 ずっと、答えの出ない問いを続けていた。

 そうだ。答えなど、でやしない。

 

 それでも――あの少女といる間は、永遠につづくはずの無意味な自問を、消し去ってくれた。

 

 それではいけないことを、知っている。

 それでは――。

 少女の歌をきいて涙する人間たちとおなじだ。

 たしかに、彼女の歌はすべてを救う。こころを、救ってくれる。

 だが、それだけだ。

 ならば、少女のことを誰が救うのだろうか。

 少女がどのような環境で生きていたのか、一樹は知った。ライヴハウスを出た少女が、トラックの荷台に入ったまま出てこないところを見て、知ったのだ。

 そう、少女はまさに「飼われていた」のだろう。


「シリウス、か……」


 星。

 いちばん明るい恒星。

 太陽よりもやさしく照らす、星の光。

 





 外の空気は毒だと、知っている。

 それでも、シリウスは一樹と共にいたかった。おなじ景色を見たかった。

 徐々に身体をむしばんでゆく。

 呼吸がすこし、苦しい。

 


 歌うこと。ひとのこころを見て、そのひとが欲しいことばを歌につなげる。

 そして、救うのだ。

 シリウスは、ひとを救う。ひとのこころを救う。

 それでよかった。

 シリウスは、シリウスという存在を知らなかった。


 (おしえて、一樹。私は、いったい何なの?)

 (私は、どうすればいいの?)



 口べただけれど、彼はやさしいひと。

 しっている。今までの飼い主とちがうということ。

 だから、どうすればいいのか分からない。


 (どうすれば、正解なのだろう?)

 (おしえて。一樹。)


 シリウスはソファのうえに丸まって、まぶたを閉じる。


 少女は、一樹が帰ってくるまで一度も目を開くことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ