プエッラの花
その意味を知らなかった、というのはただの言い訳にすぎない。
少女を外につれだすという意味を。その、ほんとうの意味を。
「おいしい。これ、なんていうの?」
「カフェラテだ」
「カフェオレよりもすこし苦いけど、とてもおいしい」
「そりゃよかった」
スターバックスに入るとその空間は広く、混んでいた。
幸運にもいちばん奥のソファ席が空いていた。
「一樹が飲んでいるものはなに?」
「アイスコーヒーだ。おまえにはまだ苦い」
プラスティックのカップに注がれたコーヒーが、すこしだけゆれる。
細く白い指が、そのカップにふれたからだ。
そのコントラストに、一樹はめまいをおぼえた。
「本当に、いいのか」
「?」
「俺はまだ、おまえのことをよく分かっていない。外に出すなと言った男のことを信頼していいのかも分からない」
「私は、外に出たかった。ずっと、私は私の目で外を見たかったの。だから、いい」
「……不思議だったんだが」
グリーンのストローに触れているシリウスに、一樹は問いかける。
「おまえは、俺を信用しているのか? なにをするかも分からないというのに」
「信用していなかったら、私は逃げている。こころが見えないひとだから、知りたいと思う。そんなひと、私のまわりにいなかったから。私のほうこそ、問いかけたい。あなたは、私のことを信用しているの? 信頼しているの?」
「分からない。だから、知りたい」
アイスコーヒーのなかに浮かぶ、氷がからりと溶けた。
まだ、朝夕はさむい。けれど、昼間はとてもあたたかかった。
スターバックスのなかは騒々しく、高い笑い声が聞こえてくる。シリウスは、それを聞くと以前買い与えたベージュの、シフォンワンピースからのぞく手を、そっとまだ幼い耳へ当てた。
黒い髪の毛がそっとゆれる。
「どうした」
「なんでもない」
「……聞こえるのか? まわりの人間の声が」
「―ーうん」
「出るか」
「ううん。いい。だって私、ここが好きだから」
耳から手をはなした少女は笑い、ストローに口をつけた。
少女は音楽を聴くように、森のささやきを聴くように、目をとじる。
その姿は、少女ではなく――成人した女のようだった。
サファイアブルーの瞳。
日本にはない、目の色。
どこの国の人間も、その目の色をしていないだろう。
それほどまでに、澄み、うつくしい色をしていた。
少女は、人間ではない。それを今更ながらに痛感する。
だからといって、人間ではない部分を探すことは困難だった。
どこから見ても、それほどまでに人間だったのだ。
「そろそろ出るぞ」
「うん」
プラスティックのカップをゴミ箱に捨て、スターバックスを出た。外は、すこしだけ曇っている。雨でも降ってきそうだった。アパートに帰るあいだに、クロッカスの花が咲いているのを見つけた。黄色い、すこしオレンジかかった、鮮烈な黄色。
シリウスは、それを見下ろしてから再び歩き出した。
アパートに帰ると、一樹はつなぎを着始めた。
仕事に行くのだ。
シリウスはその後ろ姿を見て、幼いくちびるを開く。
「もう、行くの?」
「ああ」
茶色の髪からわずかに漂うのは、大地のかおり。一樹は、工事現場ではたらいている。時給がいいことと、昼間は家にいられるからという理由だった。
「じき、暗くなる。夕食は作っておいたから、食べろ。いいか、暗いうちは外に出るな」
「わかった」
シリウスの頭にふれようとした手が、引かれる。ふれてはならない。一樹は自制している。少女にふれてはいけない。
清らかな少女が、汚れてしまう。
「一樹」
「なんだ」
「いってらっしゃい。私、まってる」
「……ああ」
シリウスが手をふると、一樹もかえした。
手を振るなど、何年ぶりだろう。
妹がまだ、生きていたころ――。
いや、やめよう。もう、あの少女はいない。永遠に年を取ることはないのだから。
「おはようございます」
シリウスをアパートにのこし、一樹は工事現場にうろつく男にあいさつをした。
壮年の男だが、足腰はとても強く、現場監督として一樹の面倒を見てくれている。
「おはよう。なんだお前、えらく今日は機嫌がいいじゃねぇか」
「……そんなことはないですけど」
「いいや。そんなことあるね。彼女でもできたのか?」
「まさか」
たばこを吸っている監督は、名を佐々木勇治という。
勇治は携帯灰皿にたばこの火を消して捨てた。
「さ、今日も始めるか。おおい、みんな、集まれ」
春休みをもてあました大学生や、一樹とおなじように工事現場で食べている男が、ぞろぞろとあつまってくる。
タオルを首にまき、ヘルメットをつけている姿は、一樹にとって見慣れたものだった。
色がない。
あのシリウスの瞳の色やクロッカスの花のような色は、そこにはなかった。
耳が痛んでしまいそうな音が、ずっとつづく。
聞こえないふりをして、働いた。
自分はなんのために働いているのだろう。
なんのために生きているのだろう。
ずっと、答えの出ない問いを続けていた。
そうだ。答えなど、でやしない。
それでも――あの少女といる間は、永遠につづくはずの無意味な自問を、消し去ってくれた。
それではいけないことを、知っている。
それでは――。
少女の歌をきいて涙する人間たちとおなじだ。
たしかに、彼女の歌はすべてを救う。こころを、救ってくれる。
だが、それだけだ。
ならば、少女のことを誰が救うのだろうか。
少女がどのような環境で生きていたのか、一樹は知った。ライヴハウスを出た少女が、トラックの荷台に入ったまま出てこないところを見て、知ったのだ。
そう、少女はまさに「飼われていた」のだろう。
「シリウス、か……」
星。
いちばん明るい恒星。
太陽よりもやさしく照らす、星の光。
外の空気は毒だと、知っている。
それでも、シリウスは一樹と共にいたかった。おなじ景色を見たかった。
徐々に身体をむしばんでゆく。
呼吸がすこし、苦しい。
歌うこと。ひとのこころを見て、そのひとが欲しいことばを歌につなげる。
そして、救うのだ。
シリウスは、ひとを救う。ひとのこころを救う。
それでよかった。
シリウスは、シリウスという存在を知らなかった。
(おしえて、一樹。私は、いったい何なの?)
(私は、どうすればいいの?)
口べただけれど、彼はやさしいひと。
しっている。今までの飼い主とちがうということ。
だから、どうすればいいのか分からない。
(どうすれば、正解なのだろう?)
(おしえて。一樹。)
シリウスはソファのうえに丸まって、まぶたを閉じる。
少女は、一樹が帰ってくるまで一度も目を開くことはなかった。




