ウェリタスの城
目が覚めると、一樹とともに街へ出た。
眠ったのはたったの三時間だったが、彼は目が冴えているようだった。
「どこにいくの」
少女は一樹のあとを、赤い靴をはいて追う。
大地のかおりがするその人は、店だ、と短くこたえた。
少女は、赤い靴だけしか履いたことがなかった。まるで、呪いのように。
だれもが、シリウスに赤い靴を貢いだ。
ストラップのついた、赤い靴。いずれ、足を切り落とされてしまうのだろうか。シリウスはちいさな恐怖を覚えていた。
シリウスの瞳は、おおぜいの人間たちを映している。
こんなにおおぜいの人間や、たくさんの建物を見たことがない。
「シリウス」
はじめて、男は少女のなまえを呼んだ。
切れ目の瞳をしている男は、彼女の手をつかむ。あたたかい手だった。
ごわごわの革のジャンパーのしたに、ラヴェンダーアイスのキャミソールを着たままだ。
「おまえの服を買いに行く」
「私の洋服?」
一樹は短くうなずいて、歩幅をゆるめる。シリウスの歩みとあわせるように。
「言っておくが、金はあまりないからな」
「慣れているわ」
「なにがだ」
「薄着でいること。私、風邪引かないの。思っているより、身体が丈夫みたい」
「だからって、まだ晩春だ。雪もふる」
一年中キャミソールでいても、風邪など引いたことがなかった。
寒いと思っていても、風邪は引かない。だから、飼い主たちもみな一様にそのままにしておいた。
今までの飼い主は、全員金の亡者だった。
シリウスの歌で稼ぎ、彼女に金をわたすことなく懐に入れていた。
そして、女遊びや豪遊をするのだ。
くだらない、とシリウスはそれを冷ややかな目で見ていた。
「ありがとう。一樹」
(優しい人。私に、あたたかいカフェ・オレをいれてくれた人。)
名前で呼んだシリウスの声は、一樹にとって喜ばしい色だった。
彼女の声は、とても澄んでいる。
汚れのない、清らかな声。
その声が、一樹の名を呼ぶ。
一樹は、数年前に死んだ妹のことを思い出した。
やさしい少女だった。
兄思いの、やさしくかわいらしい少女。
――突如うしなわれた、そのいのち。
まだあどけない少女だった。
それなのに、殺されたのだ。
どれほど辛かっただろう。
どれほど痛かっただろう。
無念さを思うと、夜も眠れなかった。
だが、知人にさそわれたライヴハウスで、彼は救われた。
歌詞で感動することはなかった。
ただ、シリウスの「うた」という概念に近いものに救われたのだ。
ひびが割れてしまいそうな声に。やわらかで、つたない音程に。
妹が、ゆるしてくれそうな気がした。
いまだ10歳であった少女が、男を。
痛みに別れをつげることを。
眠れぬ夜に別れをつげることを。
「一樹」
りんとした、鈴のような声で我にかえる。
「どうしたの」
さらさらとした髪の毛を揺らしながら、首をかたむけていた。
かぶりを振り、そばにあった店に入った。
「いらっしゃいませ」
若い女性の声がきこえる。
明るい店内は、少女の線の細さを際立たせた。
サファイアブルーの瞳が、照明できらきらと輝く。
彼女はそう広くない店内で、ゆっくりと歩きはじめた。
うつくしい魚のように。
「私、これがいい」
彼女が手に取ったのは、アクアグリーンのワンピースだった。すとんとしたシルエットのワンピースは、彼女の瞳の色とあいまって、とても似合っていた。
そして黒のカーディガンを買い、そうそうに店を出た。
少女の顔色が悪かったからだ。
青ざめ、くちびるの色も青ざめている。
細い髪の毛が風でゆれるたびに、少女がかき消えてしまうのではないかと、(そんなことがあるはずないのに)おもう。
アパートに帰ると、一樹はベッドにシリウスを寝かせ、おそるおそる、額に手をあてた。
枕に頭をうめた少女は、「熱なんてない」と笑ってみせた。
実際、熱はなかった。ただ、異常に冷たかった。
まるで、死人のように。
ふいに、電話のベルが鳴る。
「出ないの?」
出るのをためらっている一樹に、少女は不思議そうに無垢な瞳で見上げる。
部屋のすみにある電話をとると、見知らぬ男の声が「お前が次の飼い主か」と告げた。
瞬時に分かる。
この男は、前の飼い主だと。
「連れ戻すのか」
「まさか。俺はもう、たんまり稼がせてもらった。一生食っていけるほどだ」
「……」
「忠告してやる。長生きさせたいなら、外に出すな。外の空気はあいつには毒だ」
「どういうことだ……」
「言葉そのままの意味だ。安心しろ。俺はもう、シリウスの前には現れない。じゃあな」
男はそれだけ言うと、電話を切った。
人工的な音だけが聞こえる。受話器を置き、シリウスのもとに戻る。
濃い青色の瞳が、ゆるんだ。
「前の飼い主の人? 私、また捨てられてしまった」
今までの会話を聞いていたかのように、彼女はつぶやく。
哀しいことばを紡いでいるというのに、声色はまるで太陽のもとにいるかのようだった。
「あなたも、きっと私を捨てる。きっと」
「……どうしてそう思う」
「だって私は……。ううん、なんでもない。ねえ、また、外に出してくれる?」
「お前、聞こえていたんだろ。あいつは、外の空気はおまえに毒だと言った」
「知ってる。だから、前の飼い主は外に出してはくれなかった。身体をこわすと、稼げないから」
その意味を、一樹は直感的に、あるいは感覚的に理解した。
少女は人間ではない――と。
そもそも戸籍がない人間など、この日本にそうそういるのだろうか。
それに、あの体温の低さ。風邪を引かないという、ことば。
それが本当なのだとしたら、この少女は人間ではないのだろう。
「おまえ、人間じゃないんだな」
「そう。私は人間じゃない。でも、何者なのか、私にも分からない……」
「……それでもいい。俺は、おまえを捨てない」
「ほんとう? 私、人間じゃないのに?」
「ああ」
少女は、嬉しそうにほほえんだ。
まるで、ゆくすえを知っているかのように。
今思えば、シリウスはすべてを知っていたから、あんなほほえみを浮かべることができたのかもしれない。
こころを読めない、唯一の存在が自分であることがどういうことなのか、分からなかった。
今までは。
(俺は、おそらくあの人間ではない少女に恋をした。)
(そして、心を隠したのだ。知られないように。)
(それが、すべてだ。)
(俺と、シリウスとの。)