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フロースの砦

 少女は、トラックの荷台でねむる。

 子猫のように、丸くなって。

 革のジャケットだけを布団がわりに、少女は眠っていた。

 けれど、すっと荷台に光が入る。

 月の、白い白いひかり。

 シリウスはそっと目をひらいた。

 サファイアブルーの瞳を、またたかせながら。


「……」


 がらすのような、脆い呼吸をしながら、その招かれざる客を見つめた。

 男だった。

 ベージュのコートを着て、首にタッセルのついたストールを巻いている。


「あなたが」


 シリウスは、すべてを知っていた。

 彼女は魔女。

 千里眼をもち、ひとのこころを見透かす魔女だ。

 

「……」


 男は、呼吸をした。

 息をのんだ、と言ったほうがいいだろう。少女はあまりにも、か細かった。ぶかぶかの革のジャンパーに不釣り合いなラヴェンダーアイスのキャミソール。そこから伸びる足は、小枝のようだった。


「ああ」


 そっとうなずく。


「連れ出しにきた」


 男は、ようやくことばをつむいだ。

 シリウスの瞳が、月に反射して輝いた。






 男のなまえなど、シリウスにとってはどうでもよかった。

 ただ、連れだしてくれるそのひとの手のぬくもりを感じていた。


 車に乗って、どこかへ行く。

 ことばは交わさない。

 空が白んできたころ、車は止まった。そこは、すこし古いアパートだった。


 男は、シリウスの手をひいてアパートの部屋にあがり、古い銀のケトルで湯を沸かす。

 まだ、さむかった。


「なにがいい」

「カフェ・オレがいい」


 サファイアブルーの瞳をほそめて、彼女はほほえんだ。男がみる、初めての笑顔だった。

 少女は、自分の年がわからない。

 いつ生まれ落ちたのか、どこで生まれたのか分からない。

 それでもいいとおもった。

 ただ、歌うために生まれてきた。それだけは分かっている。

 ひとのこころを覗いて、そのひとが欲しい音程、欲しいことばを歌にしてのせる。

 彼女の歌は即興だった。

 だからこそ、彼女の歌が響く毎週日曜日の夜は、煙たいライヴハウスが楽園になる。たった一時の楽園に。

 そして、涙するのだ。

 すべてをゆるしてくれる、すべてを受け入れてくれる……そして、すべてを救ってくれる、神のような存在に昇華するのだ。

 ひとは、弱い。

 だから、救い主をさがす。

 シリウスが、彼ら、あるいは彼女たちの神だった。


 だが、もうあの場所に行くことはないだろう――。



 男の顔は、シリウスも知っていた。

 いつも、うしろのほうでシリウスの歌を聴いていた男だ。


 コーヒーに、たっぷりのミルクをそそぐ。

 白いマグカップからは湯気がたちあがっていた。


 けっして広くはない部屋。それでも、上質なソファがおいてある。

 革ではないが、ベルベットのような手触りをしていた。


「すわれ」


 男はソファにすわると、少女もとなりに当然のようにすわる。

 ふたりは、ことばを交わすことはなかった。

 それでも、少女はわかっていたのだ。

 千里眼をもち、こころを覗くことができる少女。彼がなにを考えているのかなど、わかりきっている――と、思っていた。


「……」


 シリウスの瞳が軽く見開かれる。

 読めなかった。彼のこころのなかが。

 

「どうして?」

「なにがだ」

「あなたのこころが読めない」


 男はなんのことか分からなかった。

 少女の力のことは、「飼い主」にしか知らされていない。けれど、今はもう、飼い主はいない。あの場所ではない場所にきたのだ。檻に入れられて過ごした日々。少女は、飼い主に飼われないと生きてはいけなかった。


「あなたは、私のことをまったく知らないで連れだしたの?」

「知っているさ。あのライブハウスで歌っているのを見ていた」

「それだけ?」

「それだけだ」


 男は、せなかを丸めてコーヒーを飲んだ。フルーティーなかおりが、シリウスのつややかな黒い髪の毛をなでる。


「それが本当なら、私をすぐにあそこに戻して。でないと、あなたは……」

「いいさ。別に、どうなっても」

「殺されるかもしれないのよ」

「……そうか」


 なにが「そうか」なのかが分からない。

 シリウスは立ち上がって、男を睨んだ。

 

 (どうしてだろう。このひとには死んで欲しくない。)

 (私を飼った人は、みんな死んでいった。)

 (不幸な死だった。みんな殺されていった。だけど、この人はなにも知らないのに私の歌を聴いただけで……。)


「橘一樹」

「え?」

「俺の名前だ」

「あなたは、なまえを教えてくれるのね」

「不便だろ」

「今までの飼い主は、なまえを教えてくれなかったの」

「飼い主?」


 男――一樹は、眉をひそめた。

 コーヒーを飲む手が、とまる。


「そう。私は飼われなければ存在できない。戸籍がないから」

「戸籍がない? それは本当か」

「私はうそなんてつかない。言ったでしょう。はやく戻してって。あなたは善意で私を連れ出してくれたんだと思ってる。だから……」

「戻すつもりはない」


 ふたたび飲み始めたコーヒーは、もう冷めているようだった。

 シリウスのすこしだけ残ったカフェ・オレも、冷めてしまっている。手の先が、つめたかった。

 

「あんな場所にいると、死ぬぞ」

「死……」


 かじかむ指先をマグカップに押しつけて、うつむく。

 さらりと長い髪が肩から流れた。

 死。

 それは、シリウスにとって他人事だった。それは、たくさんの死を見てきたからに他ならない。


「死って、どんなものなの?」

「うしなうことだ」


 一樹の髪の毛は、くすんだ茶色をしていた。そして、かすかな土のにおいがする。大地のやさしいにおいだ。

 うしなう。

 彼の目は、ふかい哀しみをたたえている。おそらく、彼はうしなったのだろう。死というかたちで。




 もう外は明るい。

 一樹はソファで眠った。シリウスはベッドのなかにもぐりこんでいる。

 すこしのあいだ、眠ると言っていた。

 ベッドで眠ることなど久しぶりすぎて、おちつかない。

 革のジャンパーを脱がされて、あたたかい格好をさせた一樹だったが、男物の洋服のせいでかなり大きかった。

 それでもキャミソールだけよりはましだろうと、スウェットを着せられている。

 ベッドからぬけだす。

 そして、一樹の顔をのぞきこんだ。


「こころが見えない人なんて、はじめて」


 サファイアブルーの瞳をとじて、そっと少女らしい、赤いくちびるを開いた。

 少女は歌った。

 彼のこころが見えないせいで、歌詞などない。

 澄んだ声。

 硝子のような、氷のような、少女のつたない透明な歌。


「泣いているの?」


 涙は出ていなかった。まるで、枯れ果ててしまったように。いつも彼は、奥の席でじっとシリウスを見ていた。

 ときおり酒をのんで、それでも酔ったそぶりをせずに理性的な表情で彼女を見つめていた。

 まわりはたばこを吸ったり、酒に酔って大声で泣いたりしていたというのに。

 彼だけは、ちがった。

 ずっと、シリウスの歌だけに耳をかたむけていた。


 おこさぬように、そっと手をふれる。とてもあたたかかった。

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