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青と親父とエビフライ

作者: 夏野ほむわ

 鳥の鳴く声が、僕の耳元を震わすかのように聞こえてきた。夜明けの蒼白な空から射し込む淡い光が僕の足元まで届き、つい一時間前まで暗闇の中にいた僕を徐々に明るみへと連れ出していった。昨夜も眠らなかった僕の目はなぜか風に飛ばされる羽のように軽く、全く眠気を伴っていなかった。シングルベッドに腰をかけて微糖のコーヒーの入った金色の缶を左手に持ちながら、どこを見るというわけでなく視線を落としていた僕は、急に何か閃いたようにコーヒーを飲み干した。そして金色の缶を持ったまま立ち上がり、部屋に一つしかない窓の前に立った。窓の外の見慣れた風景は僕に溜め息をつかせようとしているのか、いつもと何も変わっていなかった。

 部屋の隅にある銀色のラジオに電源を入れ、もう一度ベッドに腰をかけた僕は、全身の力を抜いてベッドに倒れ込んだ。オルゴールの弾んで落下するような音色が銀色のラジオから流れ、目を閉じた僕の耳を撫でるように割れて消えた。

 僕は、今日一生を終えようと決意して呼吸を続けていた。ラジオのすぐ横にある机の上には大量の薬を用意し、一晩かかって芝生のような緑色のノートに遺書も書いた。終わりを迎える準備は万全と呼べるほど整っていて、あとは僕が心に踏ん切りをつけるだけだった。

 ほんのりとコーヒーの香りが漂う僕の部屋で、相変わらず銀色のラジオのスピーカーから溢れ出るオルゴールの弾んで落下するような音色が優しく鳴り響き、青く滲んだ陽の光と慣れたベッドの感触が僕を包み込んで離さなかった。最近になって少し冷え始めた朝の空気を全身に送るように、僕は深くゆっくりと息を吸った。

「よし」と僕は一人言にも満たない虫の羽音のように小さな声で呟いた。ベッドからのそっと起き上がって金色のコーヒーの空き缶を置き去りにし、机の上の薬を持てるだけ持つと僕は、部屋の入り口のすぐ脇にある洗面台の前に立った。

 自分の姿を鏡で見てみると、そこには押しのける絶望も折れる希望もなくどこまでも黒い虚無に囚われた僕がいた。溜め息をついて透明なコップに水を汲んだが、右手一杯に盛られた薬を見つめて僕はためらった。ためらうつもりなどなかったけれど、僕の心は切れた輪ゴムのように弱かった。それでも一生を終えることを諦めきれず、長い間洗面台の前で立ち尽くしていた。

 この葛藤はいつまで続くのだろうか、と僕は考えた。明日か、明後日か、それともいつの間にか馬鹿らしくなって全てを投げ出してしまうのか、今の僕には答えなど出せるはずもなかった。

 すると、薬を置いてあった机の上にある携帯電話の音が鳴った。僕は驚いて振り返り、それがメールの着信音であることがわかると、洗面台の左横のまるで海のように青いカラーボックスの上に薬を投げ出して机へ歩いた。

 白い携帯電話の電源を入れると、一通の新着メールが届いていた。

 それは「今日は仕事が休みなのでそちらへ行こうと思います。あなたの予定はどうですか」という内容の親父からのメールだった。親父はメールをするときいつも丁寧な口調で送信してきた。家族であるのにも関わらず、どんな内容のときもそうだった。初めて親父とメールのやり取りをしたときその口調に違和感を感じたが、いざ自分がメールを送る側になると友達のような口調で送信するのが恥ずかしくなって、親父とメールするときだけは自分も丁寧な口調で送信するようにしていた。

 僕は「一日中暇人ライフですね」と返信した。実際本当に今日はすることがなかったし、どうせ今日も心の踏ん切りをつけられないことくらい察していたからだ。僕が白い携帯電話を机に戻すより前に「では、あとで行きます。着いたら連絡しますね」という親父からの返信が来た。僕は返信せずに白い携帯電話を机の上に置き、部屋に一つしかない窓を見て溜め息をついた。窓の外だけはすっかり朝だった。


 僕はしばらく着ていない紫のパーカーとベージュのズボンに着替え、顔を洗って歯磨きをした。朝御飯は基本的に食べない生活を送っていたが、今日だけはなぜか食べなければならない気がしてパンと野菜ジュースを朝御飯にした。ふと壁の時計を見上げると十時前だった。僕はいつも昼過ぎに起床しているからか今日がとても長くなりそうな、そんな気がした。朝御飯を終えた僕は窓際のロッキングチェアに座って「雨色テレパシストは傘をささない」というタイトルの文庫本を、ちらちらと時計の針を気にしながら読んだ。


 親父から「着きました」という簡単なメールが届いたのは昼過ぎだった。僕は携帯電話と財布を持ち、急いで部屋を飛び出した。

 赤い帽子を被った親父は白い軽自動車の運転席で退屈そうに僕を待っているように見えた。僕は小走りで車に近付き、恐らく僕に気付いて車窓を開けた親父に手を振った。

「よう、久しぶりだな。元気だったか」と親父は淡々と流れるように、あるいは初めからこれを言うぞと用意していたかのように言った。僕は「うん、まあね、それなりにね」と目を逸らしながら答えた。「とりあえず、乗れ」と親父に言われ、僕は助手席に乗った。

「どこに行きたい」と親父は僕に訊いた。「そうだな、まずは昼飯が食べたい」と僕は少し考えてから言った。親父はふうんと唸って車にエンジンをかけた。懐かしい乾いたエンジン音だった。

 車を走らせながら親父は「何が食べたい」と僕に訊いた。僕は「エビフライがいい」と言った。ついさっき親父の車に向かっている途中でどこからかエビフライの後味のような匂いがしたからだ。僕は、冷やし中華だったりカレーパンだったり、そういう匂いを嗅ぐと、無性にその後味がする食べ物が食べたくなった。

「エビフライか」と親父は呟くように言った。それっきり車内に言葉はなく、開けた窓から入り込むうねるような風の音と唸るような車のエンジン音だけが寂しそうに聞こえていた。僕は何を思うわけでもなく、前方を走る車とその周りの風景を眺めていた。

 ふと車のエンジン音がなくなって、赤い帽子を被った親父が「着いたぞ」と言った。よくわからない不透明なものに耽っていた僕は我に返って「あ、うん」と言った。車から降りると、うっすらとラーメンの匂いがした。

 僕は「ここはどこ 」と親父に訊いた。親父は「とりあえず有名な場所だったから、エビフライ、あると思ってな」と言った。かなり大きな建物で、黄色い外装が質素な街にアクセントを与えているような気がした。

 建物に入ると、ラーメンの匂いが強くなった。丁度昼時で、元からいた客たちが各々の昼食をとっている最中だった。

「ラーメンしかないかもな」と親父が言った。「そうだね」と僕が言うと「とりあえず奥まで行ってみるか」と親父が僕を見下ろしながら言った。僕は、この建物はとても大きくて数件のラーメン店だけがあるわけではないのだと気付き、半ば諦めかけていたエビフライに少し期待を取り戻した。

 しかし、建物の奥は特産品や土産物などが所狭しと並べられていて、とてもエビフライが置いてあるようには思えなかった。親父もそれを察したようで「悪いな、ラーメンしかないみたいだな」と真っ直ぐ前を見ながら言った。僕は「構わないよ。ただなんとなく食べたかっただけだしさ」と親父を見上げながら言った。けれども親父は目を合わせてくれなかった。

 結局、入り口付近の数件あるラーメン店から奇抜なラーメンを売りにしている店を選び、「これ、けっこう美味いな」と言いながら二人で親父の帽子のように真っ赤なラーメンを食べた。

 大きな建物を出て僕は微糖のコーヒーを買い、親父も僕のものと同じコーヒーを買った。

「最近このコーヒーにはまってるんだよね」と僕が言うと、「昔は一日に缶コーヒーを四、五本は飲んだな。今ではコーヒーより水の方が美味いけどな」と親父が言って笑った。

「それより、すぐ近くの本屋にでも行かないか」と親父は急に訊いた。僕は「いいね。僕も丁度本がほしいと思っていたところでさ」と答えた。コーヒーを飲み終えた僕と親父は、空き缶をごみ箱に捨てて歩き出した。

 本屋は歩いて一分にも満たない場所にあった。店内に入ると、僕と親父はそれぞれの好みの本が置いてあるような場所へ自然にわかれた。

 親父がどうかは知らないが、僕は読書がそれなりに好きだ。今朝親父が迎えに来る前まで読んでいた「雨色テレパシストは傘をささない」という本も、作者は全くわからなかったがタイトルが直感的に気に入ったのでなんとなく買った本だった。なんとなくで本を買えて読み耽られるくらい、僕はどんな本でも好きだった。

 僕はまた今日という日も、なんとなくタイトルが気になった「ネバーエンディングサマー」という本を手に取った。僕が今立っている広い本屋の中でも誰も訪れそうにないような少し暗い場所にその本は置いてあって、その他にも古めかしい本が誰かに買ってもらうのを待っているかのように並べられていた。僕は、特に何も考えず「ネバーエンディングサマー」の本を持ってその場所を後にした。

 しばらく本屋で親父を探し歩き、見つけて駆け寄ると僕は「これ、よろしく」と言って、「ネバーエンディングサマー」の本を差し出した。親父は口許を緩めて「ああ、いいよ」と言い、本を受け取った。そして親父は他に二冊の本を持って会計に向かったようだった。

 少しして親父が紙袋を片手に戻ってくると「出るか」と僕に言った。僕は「うん」と言ってうなずき、先に歩き出した親父の後を追った。


 車に乗り込んだ僕と親父はほぼ同時に、ふう、と溜め息をついた。

 不意に「どこか、行きたいところはあるか」と親父は僕に訊いた。僕は長い間考えて「どうだろ」と答えた。短い沈黙の後で「それなら」と親父が言い、「俺が行きたいところに行ってもいいか」と言葉を一つ一つ区切るようにして言った。僕は「もちろん」と即答した。

 親父がエンジンに火を入れ、白い軽自動車は走り出した。依然として親父は赤い帽子を被っていた。僕は助手席の窓から、足早に過ぎる景色をいとおしむこともなく眺めていた。

 にぎやかな街中を通り過ぎて漁港に近付くと、海が太陽の光を反射していて、無数の電球を並べてあるかのように見えた。波は穏やかで、閉じた後の本のような静けさを休日の午後に与え、溶け込ませていた。

 親父は無口のままハンドルを切り、白い軽自動車はいくつもの坂道を上った。僕は、次第に少なくなる人工物とそれに反比例するかのように増えていく自然物の姿を、坂の下に流し落とすように見続けていた。

 坂を上っては平坦な道を進み、そしてまた坂を上った。僕の基本的な移動手段は徒歩か自転車だったから、自分一人ではここへは辿り着けないだろうな、と思った。恐らくこの複雑に連なる道の先へは、僕と親父二人でしか行けないのだと、道を進んでいる間中ずっと考えていた。坂ではなく平坦な道を進んでいるときは、日に照らされてさらに緑色の濃さを増した葉をつけた木々の隙間から、時折真っ直ぐな水平線が顔を覗かせた。

 親父がどこに向かおうとしているかはわからないが、海岸線に沿って車を走らせていることはわかった。どこへ行くのか親父に訊こうとしたが、なぜか訊いてはいけないような気がして、その声は喉元で止まった。

 生い茂る濃緑色の草木に不自然なほど馴染み、どうしてここに敷かれているのかわからない線路が、木々の隙間の海を背景にして現れた。親父は踏み切りで車を一時停止させ、左右を五回ずつ確認してまた車を走らせた。僕が数秒間だけ見ることのできた線路の先は、どこに続いているのかわからなかった。

「もうすぐだ」と、親父が言った。僕は「うん」とだけ答え、窓の外を見続けた。

 親父は「どうした、まだエビフライが恋しいか」と僕に言った。「そういうわけじゃないよ」と僕は呟くように言い、「少し緑に囲まれ過ぎただけかな」と続けた。親父は「囲まれ過ぎると苦痛になる癒しってのもあるもんだな」と言った。

 それから数分後、唐突に親父は車を止めた。

「ここだ」と親父は前を見据えながら言った。「本当にここなの」と僕は訊き、「囲まれ過ぎてるよ」と言った。親父はふっと笑い、「まあとにかく降りてみろ」と言ってドアを開けた。僕もシートベルトを外してからドアを開けて外に出た。


 ドアの先は妙にひんやりしていた。いつ頃残されたかわからない轍跡に足を取られないよう気を付けて歩きながら、僕は親父の背中を追った。四方を濃緑色に閉鎖されていた。澄んだ空気とは裏腹に居心地の悪い閉塞感が僕の足元をすくった。尻餅をついた僕は特に意識もせず、唯一開け放たれた空を見上げた。それは青かった。青よりも蒼だった。薄く伸ばされた雲が尾を引いて流れていた。一陣の風が吹いた。すると、親父が戻ってきて「おいどうした」と訝しげに言った。僕は「なんでもない」と言って立ち上がり、ズボンの汚れを手で払った。「行くぞ」と親父が言った。

 親父に草木が掻き分けられていくと、不意に視界が開けた。

 見えたのは芝生だった。広い広い芝生だった。どこにこんなものがあったのかと問いたくなるくらい明るい緑色をした広い芝生だった。僕は息を飲み、親父を置いて思わず駆け出した。腹の中で「すごい、すごい」と叫びながら、広い芝生の端まで走った。芝生の下は崖だった。まるで工芸品のように磨き上げられた岩のその先に海があった。漁港で見た無数の電球を並べたような海とは全く違う、今まで見たどんな青よりも青に近かった。工芸品のような岩に当たって弾ける白波が海に戻るとき、僕は顔を上げた。すると、海の上に空があった。水平線一本で海の青と見分けがつく蒼をしていて、この蒼もまた美しく切なかった。僕は親父に肩を叩かれるまで、透明な風に吹かれながら海の果てを眺めていた。


 日が暮れた後、僕は親父に家まで送り届けられると、「無理しないで、しっかり生きろよ」という言葉をかけられ、今朝飲み損ねた大量の薬など捨ててしまおうと決意した。僕ははっきりしない返事をしたまま、親父を手を振って見送った。別れの時が、今日で一番の笑顔だった。


 その日の夜、母親から入った一本の電話が、僕のほっこりした気分をないがしろにした。

 即死だった。スピード違反の車に正面衝突され、病院に運び込まれた頃には既に息を引き取っていた。車内には、二人分の「エビフライ弁当」があったというのを警察から聞いた。車は、実家の方向ではなく僕の家に向かっていたと、現場の調査で明らかになった。

 僕は「無理しないで、しっかり生きろよ」と言ったのにも関わらず死んでしまった親父に酷く腹を立てた。壁を殴り、机を蹴飛ばし、洗面台の鏡を割り、喉が枯れるまで怒りを吐き続けた。親父との思い出など、すべて千切り捨ててしまおうかとも考えた。

 頭から離れない親父の最期の言葉。

 親父と見た「あの」景色。

 僕は泣くのを止められなかった。






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