第1話 異世界へ
(ここは、どこだろう?)
俺は温かい浮遊感に包まれていた。どこが前で、どちらが右でどちらが左か、上がどこかも分からない。自分の体がどこからどこまでなのか、その輪郭をたどることすらできない。時間の感覚すらない。俺はそんな不思議な感覚に身を委ねていた。
(俺は死んだはずじゃなかったのか?)
そのはずだった。俺は山頂のベンチの上で、自分の死を悟りながら、やよいに抱きしめられて意識を手放したのだ。だけどこうして俺の意識はここにある。自分の体の存在を感じることはできないけれど、俺はここにいると『思う』ことができる。
(なんだか温かい…何がどうなったんだろう?)
そんな不思議な感覚に身を包みながら、俺は再び闇の底へと意識を沈めていった。静かに静かに…。
あれからどれくらいたったのだろう。いや、もしかしたら一瞬のことだったのかもしれない。俺は再び意識を取り戻した。
(あれ、体の感覚がある…?)
先ほど意識を取り戻した時とは違い、確かに体があるのが分かる。自分が人の姿をしているのが分かるのだ。しかし…。
(なんだか、おかしい…?)
まるで自分の体ではないようだ。縮尺がおかしい気がする。手足の感覚あまりにも「近い」のだ。そんな違和感だらけの体で、なんとか目らしきものを開いてみる。
(くっ、眩しい)
どうやら目らしいそれを開くと、眩い限りの光が目に飛び込んでくる。目が光に慣れていないのか、あまりの眩しさに目の前が真っ白だ。何も見えやしない。なんとか視界を確保しようと目を凝らしてみるがうまく行かない。
「Ижадемфэь!」
「Взгнп…Кчюеиадйр?」
そんな俺のすぐ脇から何者かの話し声が聞こえる。ダメだ…どうやら耳も上手く機能していないようで、なんて言っているのかまるでわからない。必死で声を発した者を見つけようと辺りを見回そうとする。しかし、首が動かないのか思うようにいかない。
(でも、かなり目が慣れてきたな…)
ぼんやりとだが人影が見えてきた。どうやら俺は横になっているらしく、そんな俺を覗き込む二人の人影が見えてきた。この二人の人影が先ほどの声の主のようだ。そんなとき、不意に人影の一人が俺に手を伸ばしてくる。
「あぁ、ああ」
口が上手く回らず、やめろと声に出そうとしても呻き声しかだせない。人影は俺に手を伸ばすと、俺を軽く抱き上げた。
(なっ!?そんな馬鹿な…)
俺の体重は病気で痩せていたとしても50kg近くあった。そんな俺をこんな風に軽く抱き上げられるわけないのだ。
そんな俺の驚きとは裏腹に、視界がますますはっきりとしてくる。そのおかげで、少しずつ状況がつかめてきた。
(手が…小さい?)
そうなのだ。自分の目の前につき出した手を見てみると小さくなっていた。そればかりか、足をつき出してみると足も小さくなっているのが見える。まるで赤ん坊の手足のような…。
(というよりも…俺の体が赤ん坊になっている?)
今度は上を見上げてみる。混乱だらけの俺の顔を覗きこむ美しい女性の顔が見えた。どうやら俺はこの女性に文字通り抱きかかえられているらしい。
「Сбжтзр?Шаеиенкф…」
女性は再び俺に話しかけてきた。ようやく彼女がなぜ何を言っているのか分からないのかが分かった。俺の耳は正常に機能している。単に彼女の話している言語が日本語ではなかったのだ。そして、英語でもないようだ。どうやら俺のまったく知らない言語らしいことだけが分かった。つまり、何も分からないのだ。
俺を抱き上げている女性の姿をじっと見つめてみる。
(そんな馬鹿な!?)
まず、目の前に飛び込んできたのが、彼女の美しい髪の毛だ。よく手入れをされているのか、肩にかかったさらさらの髪の毛は光に照らされてきらきらと銀色の光沢をはなっている。そして、何よりもあり得ないのは、彼女の髪の毛はどう見ても青みを帯びているのだ。
向かいに目をやると、優しそうな男の姿が見えた。俺の方を見て、だらしなく目元を下げている。ずいぶんと嬉しそうな顔をしている。そんな男の髪の毛もあり得ない色をしている。女性とは違って金色の髪の毛のようだが、全体的に赤みがかかった色をしている
「Ладекзб!Оьампепон!」
赤髪の男性が俺の方に向かって何かを話しかけてくる。そんな男の様子を訝しげに見ていると、俺の体は左右に揺られだした。
(な、なんなんだ!?)
どうやら俺を抱きかかえている女性が俺をあやす様に、俺の体を揺らし始めたのだ。あまりの急な展開に内心疲れていた俺は、そんな居心地のいい彼女の腕のゆりかごの中でいつしか眠りに落ちていった。
俺はある晴れた秋空の下、必死で道の上を走っていた。目的地は向こうに見えるこの辺りで一番背の高い建物だ。建物の先端にある塔はひし形のような紋章をあしらっている。
周りに人はいない。俺は前世ならあり得ないような速度で必死に目的地を目指した。俺の視界の端を何軒かの木造の建物が通り過ぎていく。なんとか目的の建物にたどり着くと、その建物の扉を力任せに開け放ち、そのまま部屋の中へと踏み込んだ。
「母さん、急病人だよ」
俺の声に気がついた青い髪の女性が何か書類を書いていたであろう机から立ち上がる。そして、壁にかけてある青いローブに身を包み、机の傍に置いてあった鞄を掴みとると、俺の方に駆け寄ってきた。
「案内してくれ、フラン」
俺をそう呼んだ彼女の指示に従って、来た道を引き返す。来たときとは違って子供らしい速さの走りだった。5分ほど走ると、苦しそうに胸を押さえながら倒れ伏している男性のところへたどり着く。必死で走ったせいで息も絶え絶えの俺は呼吸を整えながら、横目で男性の周りを数人の男女が心配そうに取り囲んでいるのを見た。そんな取り巻きの中の、男性の手を握りながら男性を励ましている女性がこちらに気がついた。
「ミネルヴァ様!」
彼女は俺の隣を行く女性にそう声をかけると、心底ホッとしたような顔をする。
「もう大丈夫だ。さぁ、少し離れていてくれ」
そう言って、周りの取り巻きを冷静に引き離すと女性は苦しそうに倒れている男性の胸に手を当て、目を閉じた。男性を温かな青い光が包み込む。
「ふむ…」
女性が何かを考えるような顔をすると、傍に置いてあった鞄から小瓶を取り出して中の液体を男性に嚥下させる。男性の喉が上下して液体を通すのを確認すると、再び女性は男性の胸に手を当ててから目を閉じる。
再度、男性の体を青い光が包み込むと、男性の苦悶に満ちた表情が少しずつ安らいでいく。しばらくすると、男性の呼吸は落ち着いたものへと変わり、眠りについたのがわかった。
「さぁ、これでもう安心だ」
「ありがとうございます」
手を握っていた女性が何度も治療に当たった彼女にお礼の言葉を述べていた。おそらく倒れていた男性の妻だろう。
「礼には及ばないよ。これも仕事だからね。さて、すまないが誰か彼を教会のベッドへと運び込むのを手伝ってくれないか?」
「あっ、私が連れて行きます」
彼女の依頼を引き受けたのは男性の妻と思われる女性だった。彼女は自分よりも体格のいい夫の脇と膝に手を差し入れると、男性をひょいっと軽く抱きかかえた。そして、彼女の案内で先ほどまで彼女がいた背の高い建物へと足を運んでいく。
そんな一連の様子を眺めながら俺は今までのことを思い出していた。
結論から言うと、7年前のあの日、病院の裏手にある山の山頂で命を落とした俺はこの異世界に転生した。どう考えてもここは地球ではないのだからそう考える他にない。空に月が2つ浮かんでいるのが最たる証拠だろう。もしかしたらどこか別の惑星かもしれないが、こればかりは考えても答えが出ないのでどうしようもない。前世の記憶が残ったままなのも、これまた原因がまったくわからない。
最初はまったく分からなかった言葉も、生まれてから1年ほど経つ頃にはすっかり理解できるようになった。未知の言語を誰にも教わらずに習得してしまった子供の脳の吸収力にはまったく驚いた。
ちなみに、先ほど男性を治療したのが俺の母、ミネルヴァだ。住民1000人ほどのこの小さな村、メディナの教会の司祭を務めている。今、男性を運んでいる先が母の職場でもあるこの村の教会だ。ひし形の紋章が教会のシンボルになっている。
先ほど男性を治したのは、奇跡の技術――そう、魔法だ。この世界には魔法が存在している。母は卓越した治癒魔法の使い手――治癒魔導士なのだ。
この国ではそれぞれの町や村の教会に母のような治癒魔導士が配置され、町や村の病院としての役割を果たしている。
そんな俺が住むこの国の名は、ウンディネス皇国。最高神ウンディアナをその頂に構えるウンディアナ教を国教とする宗教国家だ。
宗教と聞くと嫌な顔をする日本人は多いが、教義が非常に緩やかな多神教の宗教で日本の神道に近い。国土の多くが海に面し、内陸に大きな河川と肥沃な大地を抱えるこの国は農業大国として、国民はもちろん周辺国家の人々の食卓をも支えている。このように恵まれたこの国では厳格な教義をもつ宗教が必要とされなかったのだろう。
また、母の勤める教会は単なる病院に留まらず、この村の行政庁としての役割をも果たしている。その仕事は多岐にわたるが、主な仕事は住民の戸籍の管理と税の賦課徴収だ。
というよりも宗教国家であるこの国での教会の役割としてはこちらが本分だ。母はわが国の首都である聖都ベルンにあるウンディアナ教の総本山、中央教会からこの村を統治することを任じられた行政官ということになる。
こうして母を呼びに行くだけの簡単なお仕事を終えた俺は、我が家のある方へと足を伸ばす。時刻はすでに夕暮れどき。家への歩を進める道すがら、畑では夕日を受けた黄金色の麦の穂が風に揺られているのが見える。村の近くを流れる大河から水を引き込んで行われる農業がこの村の主力産業だ。というよりも、農業大国であるこの国の町や村では大体どこもこんな感じの風景が広がっているらしい。
この世界にも四季が存在し、風の月、火の月、土の月、水の月がそれぞれが春夏秋冬に対応している。1年は各月が90日なので360日。現在は前世で言うところの秋にあたる土の月の42日目だ。
最初は突然の事態に混乱もしたが、今では現在の生活を楽しんでいる。前世では諦めかけた人生も、この世界では新しく始めることができる。残してきた家族や友人達には心残りもあるが、前世はどうせゆっくり死んでいくだけの人生だった。
ふと、いつだって前向きだった彼女の笑顔が脳裏をよぎる。
(どうせ生きるなら笑って生きなきゃ損だよな?)
それにこの世の中は俺の興味を引くものに溢れていた。そして、何よりも健康な体であること。それだけで俺の胸は躍る。不意に思い立った俺は、周囲に人がいないことを確認すると家へと続く道を俺は走り出した。
(気持ちいい…)
秋の涼しい風が頬を撫でる。その感覚だけで俺の心は満ち足りていた。ますます速度を上げ、俺は家への道を風のように走り続けた。
しばらく走るとすぐに我が家へとたどり着いた。この村の司祭、要は村長である母の家の外観はなかなかに立派だ。とはいえ、下品に豪華というわけではない。司祭としてその威光を示すためにはみすぼらしい家に住むことは許されないが、逆に豪華すぎる家に住むわけにもいかないのだ。
特に息が乱れていたわけでもないので、俺はそのまま玄関から家に入る。そんな戸の音とただいまという声に気がついた父が一室の扉から顔を覗かせた。
「おお、フランおかえり。もうすぐ夕飯ができるよ」
「ただいま、父さん。いい匂いだね?」
父は人好きのする笑顔で俺を出迎える。父の名前はアルフォンス。一見すると優男の父の髪の毛は赤みを帯びている。赤い髪は、このウンディネス皇国内では非常に珍しい。というよりも、父はもともとこの国の人間ではない。隣国サラマンディア帝国の出身だ。
優男に見える父だが、かつてはサラマンディアの帝都守備隊の隊長を務めたバリバリの武闘派である。とはいえ、現在はこの村を魔獣や野盗の被害から守るための自警団の団長を務めている。ただ、平和なこの村では非番の日が多く、政務や医療活動で忙しい母を支えるべくこうして家事を精力的におこなっている。平たく言えば、主夫だ。
父の家事の手伝いをしていると、しばらくして母が帰ってきた。
「ただいま、アル、フラン。ふむ、いい香りだな」
母はきれいな顔にわずかながらの笑みを浮かべながら家へと帰ってきた。母はあまり感情を表に出さないので分かりにくいが、長年彼女の息子をしている俺には母の機嫌がいいのが良く分かる。それもそうだろう。
「今日はミネルヴァの好きな猪肉のシチューだよ。今日は新鮮な猪の肉が手に入ったからね。さぁ、今から準備するからテーブルについてくれないかな?」
「ふふ、いつもありがとう」
テーブルには大きな肉の浮いた美味しそうなシチュー、刈りたての小麦で作られたパン、新鮮な野菜で彩られたサラダが並んでいく。母はそんな食卓の様子を見て、楽しそうに微笑んだ。そして、俺たちはみんなで手を合わせながら、主神ウンディアナに食前のお祈り捧げる。
「そういえば、フラン。ミスティもようやく『来た』そうだよ?」
父が食事中にそうやって切り出した。
「本当に?」
「うん、今日フランが出かけているときにミスティが来てね。フランにそう伝えるように頼まれたんだ」
「ミスティもまだフランと同じ7歳だろうに。なかなか将来有望のようだな」
母は少し驚いたようだった。それもそのはずだろう。この世界の人間はある程度の年齢になるとみな魔法に目覚める。その年齢は個人差があるもののだいたい10歳前後が普通である。7歳で魔法に目覚めるのはかなり早いと言ってよい。
実は生まれてすぐの赤ん坊はみんな魔力を持っていない。しかし、この世界の大気中には魔素が満ちている。体がこれを少しずつ魔力として体内の魔力を蓄える器官、『魔臓』へと取り込んでいくのだ。そして、ある程度の魔力が魔臓に溜まると、ある日突然に魔臓の表面にある『魔孔』を押し開け、魔力が外に噴き出す感覚に襲われる。これを一般に『来る』と言うのだ。
魔孔が開くことにより魔臓から魔力を外に出して使うことが出来るようになる。これが魔法に目覚める最初の段階だ。
これが早く来る者ほど大気中の魔素との相性がいいとされる。そのため、魔孔の開く時期の早さがその者の魔法の資質を図るバロメーターの一つとされているのだ。ちなみに、俺は生後3ヶ月で来た。異常と言っていい。そのため両親には5歳で来たということにしてある。それでも両親は本当に驚いていたのだが…。
「まぁ、ミスティは『色髪』の持ち主だからね」
母の言葉を受けた父はそんな言葉を返していた。
色髪とは文字通り、属性色を持った髪のことをいう。魔法は色と関係が深く、水は青、火は赤、風は緑、土は黄色の属性色を持っている。色髪を持つ者はその属性色に対応する魔力との相性がいいと言われていて、これもまた魔法の資質を図るバロメーターの一つとされている。
そして、髪の色が濃ければ濃いほどその資質は高いとされる。そのため、青い髪の母さんは水の魔導士として、赤い髪の父さんは火の魔導士として卓越した技量を誇っているのだ。
ちなみに、俺の髪の色は白。この世界では極めて珍しい色をしている。何の属性色も帯びていないが、こればかりはどうしようもない。あまりないものねだりしても仕方がないだろう。
「でも、父さん。これでようやく魔法を教えてもらえるんだよね?」
「少し早い気もするが、約束だしね。仕方がない。明日から始めようか?」
「うん。今から楽しみだよ」
5歳で俺が『来た』と両親に話したとき、父さんに魔法を教えてもらえるように頼んだのだ。しかし、さすがに体の出来ていない子供が魔法を練習するのは良くないだろうということで、そのときは父さんから魔法を教えてもらうことは叶わなかった。必死に頼んだがさすがの父も譲らなかった。
そこで、俺と同い年で幼なじみのミスティが『来た』ら二人でそろって魔法を教えると言われたので俺は納得したのだった。俺は生まれてすぐに『来た』から実際には7年間待ったことになる。
(本当に長かった…)
俺は魔法という名の異世界の奇跡に胸を高鳴らせていた。そんな俺の様子を、二人は楽しそうに笑って見ながら、楽しい食卓を囲んだのだった。