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8/11

episode 8

 背後から突如ピアノの音色がして、ハルジと磯崎は振り向いた。

 細身の17、8歳の少女が鍵盤に向かっていた。未来のピアニストに違いない。外見からは思いもつかない程の力強い音を少女は奏でている。

 内面を音に表せるのは、才能を持つ者だけだ。

「よく聞く曲だよな。確か<フィギュア>のだろ?」

 磯崎が挙げたのはデビューしてから10年程経つ、息の長いアーティストのグループ名だった。

 ハルジもこの曲については多少知っていることがあった。

「映画のテーマソングでしたよね。タイトルは思い出せませんが」

「あいにく俺もタイトルは忘れてしまったけど、この曲を聞くと俺はいつもサンディのことを考える。映画のラストシーンとだぶるんだ」

 磯崎はぴたりと口を閉じた。くだんのシーンを思い描いているのだろう。ハルジもそれに倣うことにした。

 澄んだ空気。

 まっさらな朝日。もちろん人工のものではなく、それは今も地球が享受しているであろう、衛星都市では絶対にお目にかかれない風景。

 ヒロインの新たな旅立ちを祝うように舞い降りてくる、白いもの。

 それは雪だったか花びらだったか、それとも羽根だったのか。

 ヒールの折れた靴を指にひっかけ、煤けた顔ともつれた髪の房を風にさらしながらも、立ち上がったヒロインは美しい。

 彼女のわずかに明るい未来を暗示して映画は幕を閉じる。

 そんなシーンにかかっていた曲を聞いて、磯崎はサンドラを思い浮かべるという。

 ハルジはサンドラに違うイメージを抱いていた。

 一言で表すなら、泥の中の仔猫。

 いつかは独りで立ち上がるだろう。

 瞳に宿る光はしなやかな身にひそむ、その力の表れ。

 しかし今、誰も手をさしのべなければ、そこで仔猫は泥まみれのまま飢えと寒さで力尽きてしまう――そんなイメージ。

 同一の女性に対してのイメージの違いは、その人と彼女の付き合い方の違いを示しているのだろう。

 そんなことをハルジは考えたが、口にはしなかった。

 いつしかピアニストの卵である少女の紡ぐ旋律は穏やかなものに変わっていた。我に返ったハルジは隣の磯崎に目をやる。

 彼はウイスキーの入ったタンブラーを見つめていた。

 ハルジが声をかけようとした瞬間、ふいに磯崎が立ち上がった。座ったままハルジは顔をわずかに店の入り口に向ける。

 そこにはサンドラが立っていた。

 コートを腕にかけたサンドラは、ノースリーブの明るい紫色のワンピースを着ていた。

 よく見ると、ワンピースの上にジャケットも羽織っているのが判る。

 ごくごく薄い布で作られているらしく、ほっそりした腕が透けて見えるので注意しないとジャケットの存在に気づけない。唇はパールピンクの口紅で彩られている。

 付き合いが長い割に、ドレスアップした姿を見るのはこれが初めてだということにハルジは気づいた。

 フルメイクを見るのも初めてだったが、サンドラを見間違えることはなかった。

 彼女が放つ輝きの色が変わっていなかったからだ。

 ドレスやメイクはサンドラの輝きを歪めず、重ね合うように強めていた。

 ハルジはサンドラを形容する言葉を思いつけなかった。

 ただ素直に、彼女を綺麗だと思った。

 それ以外の単語は思いつけない。

 サンドラは、磯崎を見つけられないらしく、辺りを不安そうに見回している。もちろん、ハルジに気づく筈もない。

「先に失礼するよ」

 嬉しさを抑えているのがありありと判る磯崎の声が上から降ってくる。

 何も言わずにハルジはうなずき、独りウイスキーのつがれたタンブラーに向き直った。

 磯崎の気配が遠くなっていく。

 傍らには磯崎が残していったタンブラーがある。

 ──口はまだつけられていない、ウイスキーで満たされたタンブラー。

 心に罪悪感が沸き上がってくるのをハルジは感じていた。

 ハルジは磯崎に、サンドラもエンジェル・フィールドに行くと言えなかった。このままでは、二人は互いの事情を知らないまま、辛い別れをしてしまう。

 恐らくその後、エンジェル・フィールドで会うだろうし、二人さえ望めばそこからやり直すこともできる。

 しかし、ここでハルジが磯崎に経緯を話していれば、サンドラも磯崎も辛い決断を下さずに済むだろう。

 何故、自分は言えなかったのか。

 10分前かそこらのことをハルジは溯っていく。

 着飾ったサンドラ。

 彼女に対する、自分と磯崎のイメージの違い。

 映画のラストシーン。

 ピアノ。

 そして、嫉妬。

 目を背けてはいけなかった。向き合わなければならなかったのだ。誤魔化そうとしても騙そうとしても無駄なのだ。

 自分は、欺けない。

 ましてや自分の心の歪みから派生した、ちぐはぐな言動で大切な人を傷つけてしまうなんて……。

 気づくとハルジは空のタンブラーを握っていた。

 頬が火照っているのが判る。顔は耳の先から首まで真っ赤だろう。動機が早くなってくる。

 ハルジはゆっくりと息を吐く。

 胃が焼けるようだ。頭も痛みの悲鳴を上げ始める。何もかもが今のハルジには心地良かった。

 傍らの、磯崎が残したタンブラーに伸ばしたハルジの手が、つかまれた。

 その手の薬指にはめられた指環のデザインも、投げかけられた声も、ハルジはよく知っていた。

全11回完結の予定。

次回更新予定は1週間後の1月22日です。



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