episode 7
ハルジがパブ「アクアリオ」で磯崎に出会ったのは、そこそこ確率の高い偶然と言えた。
ピアノの調べで満たされたゆったりとしたその空間は、つい何日か前にサンドラから教えられた場所なのだから。
店の中央には黒光りする年代物とおぼしきグランドピアノが置かれ、ピアノの傍らでは積層分子盤による立体映像の熱帯魚たちが水の無い空間を泳いでいる。
その魚たちの群れの向こうにハルジは磯崎を見た。
カウンターに肘をついていた磯崎は、夜の冷気を伴に店内に入ってきたハルジの姿を認めると、手招きした。
さしあたって拒否する理由も思いつかないハルジは、腕時計に視線を走らせて時間に余裕があるのを確かめると、招かれるまま磯崎の隣に腰を落ち着けた。
聞けば、磯崎はサンドラとの待ち合わせをしていると言う。
ハルジもカレリアと約束をしていたので、お互いに相手が姿を現すまで談笑という形に自然となった。
二人の前にタンブラーにつがれたウイスキーが出てくる。磯崎が気を利かせてくれたのだろう。
が、空腹だったハルジは悪酔いを避けるため、一口だけいただくことに決めた。
磯崎も事情は同じらしく一口含んだ後は、タンブラーに手を伸ばそうとしない。
ふと、ハルジの目が磯崎のタンブラーに添うように置かれた小箱に留まった。
サンドラからのフォンが脳裏を過ぎっていく。質素に飾られたその小さな箱は、リングケースに違いないだろうと推測できたが、ハルジは知らぬ素振りで磯崎に訊いた。
「彼女にプロポーズでもなさるんですか」
ハルジと磯崎の間で彼女と言えば、サンドラのことだった。
ハルジが磯崎に敬語を使うのは、磯崎が同い年とは言えラボでは先輩だったからだ。
「サンディが何か言ってたか?」
磯崎は、ハルジが敢えて口にしない愛称で平気にサンドラを呼ぶ。
ハルジは質問に答えなかった。
プロポーズの相手が、自分に答えを告げる前に他の男に相談していたとあっては気分が良くなかろうという配慮があったからだった。
かと言って嘘をつくのも躊躇われたので、代わりにハルジは小箱に露骨な視線をそそいだ。
「それ、中身は指環でしょう」
「当たりだ」
照れるような、はにかむような、笑っているのだと辛うじて判る顔を磯崎はした。
既視感がハルジを襲う。
この表情の作り方はサンドラがよくするものだった。
「時期的にずいぶん区切りが悪いと思いますが、どうして今、プロポーズなんですか?」
その疑問はフォンでサンドラに話を聞いてから、ハルジがずっと抱いていたものだった。
例えば3ヶ月前、サンドラが研究生としての期間を終えた頃ならうなずける。
実際、卒業と同時に結婚する例は多い。
「別に“予定外の出来事”に見舞われたから責任を取る、ということではないんだよ」
磯崎の顔が紅潮して見えるのは、アルコールのせいだけではないだろう。
彼のタンブラーの中身はほとんど減っていなかった。
ハルジは磯崎に勘違いをさせてしまったことに気づいた。
「いえ、そういう意味ではないんです、すみません」
気まずい沈黙が降りてくる。どうやって静寂を破ろうかとハルジが考えあぐねていると、タイミングがいいことに磯崎の方から口を開いてくれた。
「あるプロジェクトに誘われてね、しばらくグラウクスを離れなきゃならなくなりそうなんだ。そのプロジェクトにぜひ、彼女も連れて行きたくてね」
「そのプロジェクトはAFと呼ばれるものですか?」
ハルジはカマをかけてみた。すると、磯崎の顔が強張った。
「枚方も知っていたのか?」
驚いたのはハルジの方だったが、ともかく冷静さを保ちつつ、辻褄合わせのため幾つか嘘を重ねていく。
「一応、俺にも当局からの打診がありました。これでも技術者のはしくれ、ですから。俺は断りましたが」
打診などハルジにはなかった。真実を言わなかったのは、それが機密であり、関係者以外への口外が禁じられているからだ。
エンジェル・フィールドに居住を認められているのは技術者か提供者のみ。提供者にとってはエンジェル・フィールド行きはほぼ強制だが、技術者にとっては名誉である。
磯崎もその例外ではなく、熱っぽい口調で語り出した。
「あそこは一度行ったらなかなか帰って来られる場所じゃない。だから、彼女も連れて行きたくて。配偶者なら技術者としての能力にかかわらず連れて行ける。最も、彼女も優秀な技術者だけどね」
ここに至ってハルジの良心は痛んだ。
サンドラに偽りを告げたのを思い出したからだ。
ハルジはサンドラに誘われた時、技術者でも提供者でもなくシンガー志望のカレリアと離れるというのを理由に断った。
しかし、ハルジがやろうと思えばカレリアとエンジェル・フィールドに戻るのは名目上、可能なのだ。
ハルジとカレリアが婚姻関係を結べばよいのだから。
ただしカレリアはあの場所を心底嫌っていた。
カレリアもハルジと同じく提供者の両親を持ち、エンジェル・フィールドで育ちながらも提供者ではないためにそこを追われたという経歴を持つ。
しかも、しこりを残すような良くない追われ方だ。
ハルジはカレリアがエンジェル・フィールドを嫌う理由も承知していたので、今までは戻ることを考えなかった。
単に、故郷に戻れれば戻りたいという程度の気持ちしかなかったハルジは、カレリアに出会ってからは自分よりカレリアの都合を優先したのだった。
「AFプロジェクトは機密だから、プロポーズを受けてもらうまで彼女には言えない。受けてもらえなかったら、別れるまでさ」
言いながらも磯崎は拒否される可能性を考えていないようだった。さばけた口調と用意した指環を見れば一目瞭然だ。
しかし、ハルジは磯崎が間違いを犯しているのを知っている。
「そこまで厳密に機密を守らなくても……プロポーズを受けてもらえるという自信があるのなら、機密を話せばいいじゃないですか」
ハルジは焦っていた。
話せばなんとかなる。だが話さなければサンドラは――。
「機密を明かすのは彼女を縛ることにもなりかねない。そういうことなしに決めて欲しいんだ。……試練なんだよ、これは」
取りつく島もない磯崎にハルジは口をつぐんだ。
ハルジは知っていた。
彼女自身が言っていた。
サンドラは磯崎との生活より、エンジェル・フィールド行きを選んだ。
しかも技術者としてではなく提供者として。
それはサンドラと磯崎の永遠の別れを示していた筈だった。が、こうなると事情は違ってくる。
二人はそれぞれ別のルートで同時期にエンジェル・フィールド行きを選んだ。
何という偶然だろう。
二人の縁の強さに脱帽すると共に嫉妬すらしてしまいそうになる。
自分とカレリアの間にもそんな偶然が働いてくれるのだろうか。
そもそもハルジが嫉妬しているのは、本当にそこなのだろうか。
この嫉妬心としか形容できない胸の疼きは、本当にそこから生まれてきているのだろうか……。
全11回完結の予定。
次回更新予定は1週間後の1月15日です。
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