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Last episode

 期待はしていなかった。偶然もそんなに続く筈はないと思っていた。

 それでもジャケットの内ポケットの中には小さな包みを忍ばせていた。

 夜も明けやらぬ薄い朝もやの中、白い息が体感以上に寒さを感じさせる。

 ハルジの足は彼の古巣へ――分子遺伝学ラボのある複合施設コンプへ向かう。

 根拠は予感だけ。

 旅立つその日、夜型の人々が眠りに就き始め、朝方の人がそろそろ目を覚まそうとする頃、ここにサンドラはやって来る、という予感。

 白んでくる夜を名残惜しむかのように、はかなく光る街灯の下で、ハルジは彼女の姿を見つけた。

「おはよう」

 ハルジが声をかけるとサンドラが振り向く。

「おはよう」

 そう言って、サンドラは足許から何かを取り上げた。

 二、三の動作を施し、近づいてくるハルジにそれを差し出した。

「はい、甘めの特製スパイスミルクティー。懐かしいでしょ」

「懐かしいね」

 ハルジは、コップ代わりのドリンクパックの蓋から立ち上る香りを胸に吸い込んだ。

 徹夜をしていると、朝方に必ずこれが出てきた。ラボ備え付けのささやかな調理ユニットでサンドラが作ってくれたのだった。

 これを飲むと実験でどんなに疲れ果てている時でも、部屋まで帰る気力が湧いた。

 秘訣は二種類のスパイスにあって、シナモンとあと一つ、カル……何だっただろうか。

 ハルジの回想の沈黙をサンドラは誤解したようだった。

「ごめん、コップそれしかなくて。あたしも口つけちゃってるけど、口紅ついてるから判るでしょ。それ以外の所から飲んで」

「あ、そうじゃないんだ。ちょっと考え事していただけだから」

 証明する為、ハルジはコップを確かめずに中身を飲み乾した。空になってから改めてコップを見ると、自分が口をつけた所には口紅がついていた。

「美味しかったよ、ごちそうさま」

 何事もなかったかのようにハルジはサンドラにコップを返す。

 サンドラがドリンクパックに蓋を戻している間に、ハルジはポケットから入れていた包みを取り出した。

「これ、お礼だから」

「え?」

 驚きの声を上げながら、サンドラはそれを受け取った。リボンを解いて包みを開け、中身を取り出す。

「きれいなピアス。雪の結晶の形してる」

 包みを自分のポケットに押し込むとサンドラは馴れた手つきでピアスをつける。

「身につけていられるものが良いかなと思って。指環はサイズがあるし、ペンダントなんかも目立つから。ピアスなら小さくて目立たないデザインもあるし」

「そうだね。ありがとう。私、ピアスの穴もう一個開けようっと。このピアス専用にするんだ」

 ハルジに向かって無邪気にすますサンドラの耳たぶで、ピアスが光る。

「気に入ってもらえたようで良かったよ」

 どちらともなく、複合施設に視線をやる。

 そこは彼らが出会った、かつて多くの時を過ごしたラボがある辺りだ。サンドラが口を開く。

「思い出したくないくらい嫌なことも、胸にずっとしまっておきたいような良いこともあったわ、ここでは……数え切れないくらい。その一つ一つの出来事に込められた想いが大きすぎて、今、どんな気持ちも起こらないの。ただ、ここに来ることは二度とないんだなって。自分がそれを選んだんだって、そう思う」

「後悔してる?」

 それだけがハルジの心配事だった。後悔しているのなら今から戻ることも出来るだろう。

 が、サンドラは迷いのない確かな口調で言うのだった。

「してるかもしれないし、してないのかもしれない。ただ、ここで精一杯やったから自分の中に悔いは残ってない。でも、もしもう一度ここに来られるなら、少し違う方法を選ぶかもしれない」

「そう」

 ハルジには判った。サンドラは、自分の中でここでのことを完全に過去として吹っ切っている。戻る気はないのだ。

「よくここにいるのが判ったわね」

 視線を感じてハルジはサンドラの方を見る。

 彼女の懐かしい、かすかな笑みがハルジに向けられていた。

「付き合いもそこそこ長いしね」

 ハルジも破顔した。

 止めるのも追うのも叶わないなら、せめて、そうするしかない。心に泣き顔を残すより、笑った顔を残していて欲しいと思う。

 サンドラは足許に置いていた荷物を手に持った。

「そろそろ行かなくちゃ。それじゃ、元気で」

「気をつけて」

 二度と会うことはないとは思えないほど、あっさりしたやり取りだった。

 朝モヤは去り、辺りは明るくなってきていた。

 晴れた空から何故か雪が舞い降りてくる。

 気象局が降雪機の試運転をしているに違いない。もうそんな季節なんだ、とハルジはぼんやりと思う。

 朝の清浄な大気に澄んだ歌声が響いているような錯覚に、ハルジは襲われた。その幻聴が天使の歌声だとまでは言わないが、そう思いたくなる気持ちはあった。

 衛星都市の疑似重力にわずかに引かれて、羽毛のような大きな雪が落ちてくる。

 ――優しく、祝福を与えるかのように。

 サンドラの後ろ姿はそんな風景にまぎれて、やがてハルジの視界から見えなくなっていった。


――Fin

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