episode 1
情報端末のキーを叩いていたハルジは、モニター右上の時刻表示に目をやると、TVフォンの通話ユニットを手元に引き寄せた。それをきっかけにモニターから視線を外し、軽く右肩を回す。
やりかけの仕事は目処がついた。話を早めに切り上げれば、睡眠時間も朝食も削らなくて済むだろう。
左肩もマッサージしようとすると、TVフォンの呼び出し音が鳴った。
ハルジは間髪入れずに通話ユニットを取り上げた。
通常、フォンに切り替わって相手を映し出すはずのモニターには変化が起こらない。迷惑フォンの可能性をちらりと思い浮かべながら、ハルジはユニットに慎重に呼びかけた。
「……もしもし」
「あ、ハル? ごめん、こんな夜遅くに。時間の割にはフォンに出るの、早いね。仕事でもしてた?」
「……まあね」
聞き覚えのある声に安堵する反面、その声が予定より高めの声だったので、ハルジは軽い失望を隠してそう応えるのがやっとだった。
彼女がハルジにフォンをかけてくる時は、厄介事を抱えている時としても過言ではない。厄介事の込み入り具合に比例して、通話ユニットを持っている時間も長くなる。その面倒が嫌ではなかったが、他にフォンを待っている時ぐらいは避けたい相手だった。
とは言え、相手は若くて美しい女性だしその上、自分にとってかけがえのない人でもある。嬉しさが湧いてこない筈はない。
一面に無機質な文字の連なりを映すモニターに、ハルジは彼女の華やいだ笑顔を思いの中で投影する。挨拶の言葉が口をついて出た。
「サンドラは元気? 研究所勤務って結構ハードだって、聞いたけど」
聞きたい事はあったが、一ヶ月ぶりのフォンだったのでハルジはまず近況を訊ねる。サンドラは、先程のハルジを真似して答えを返してきた。
「まあね。でもほら、自分で選んだ道だし。後悔はしてないよー」
サンドラが語尾を伸ばすのは、甘えではなく機嫌が良い証拠だ。
「よかった、よかった」
「ハルは? カレリアさんとはうまくいってる?」
カレリアとは、ハルジがフォンを待っている相手の名である。
「それなりに。サンドラは?」
ハルジはさりげなく訊いたつもりだったのだが、何処かに緊張した響きがあったのだろう。それを耳聡く感じ取ったサンドラは、意味深ながらも明るい含み笑いをして続ける。
「私の事なんか心配しないでよ。磯崎さんはあの通り、素敵な人ですから」
「……はいはい」
昔はこんなちょっとしたおのろけもうらやましくて少し辛かったが、今は苦笑と共に受け流せる余裕があった。
しばらくは当たり障りのない世間話が続くだろう。が、今までの経験からハルジは知っていた。サンドラがこんな映像オフのフォンをしてくる時には、特に重い悩みがある。きっと、悩んで泣き腫らしたか何かした後で、努めて明るい声で話しているのだ。
世間話が途切れ、通話ユニットの向こうでサンドラが息を飲むのがハルジに感じられた。次の瞬間、彼女は絞り出すような声で苦しそうに言った。
「あたし、磯崎さんとは一緒になれない……」
枚方ハルジとサンドラ・フィオルが研究生として分子遺伝学ラボに配属になったのは、4年前の秋だった。
ハルジはごく普通にスクールで学んだので20歳だったが、サンドラは飛び級制をフル活用していたので15歳だった。
そんな努力家が(天才、ではない。もし天才ならば論文によって、6歳以上であればラボ入りできる特別処置が適応される)分子遺伝学ラボに配属されるのは5年ぶりだったので、サンドラはちょっとした有名人になっていた。
それも女性(というよりは少女だったが)ということで、ラボの研究生や研究員はこぞって事前にデータを取り寄せており、サンドラの顔は知られていた。
そんな理由から、サンドラはラボ配属の顔合わせの時から15歳の少女として周りから扱われたのである。が、それは彼女が望まないことだった。彼女を同列の大人として扱ったのはハルジだけでサンドラはそこに、いたく感銘を受けた。
しかしながら、それはハルジがサンドラの真意を読み取っていたからではない。ハルジはあまり他人に興味を持たない質で、下調べを怠ったのである。
サンドラは上背があり、まとっている雰囲気が大人びていたので、下調べなどしなければ20歳の女性として充分通じる。普通ならば大変な失礼に当たっただろうことがこの場合は功を奏したのだ。
ハルジがサンドラの年齢を知ったのは、出会ってから一週間ほど後だった。最初はハルジも接し方を変えようかと考えたが、今さら態度を変えるのに不誠実さを覚えたのと、何よりもサンドラがそれを望んでいなかったので実行しなかった。
そして、その事情をサンドラに話しても彼女の感銘は色褪せなかったのである。
ハルジは、サンドラ・フィオルをサンドラと呼んだ。同姓が多いなど仕方ない状況以外では、ごく親しい人しかファースト・ネームを口にしない傾向が強い東洋人のハルジにとって、これは珍しいことだった。
しかし、サンドラの愛称の“サンディ”は口にしなかった。
愛称を呼ぶのは本来は親しみを表す方法であるが、サンドラにとっては彼女のプライドを傷つけることだと、ハルジは直感したのだ。
サンドラは太洋州人の常として彼の姓でなく名を呼び、友人として愛称の“ハル”を呼ぶ。
が、サンドラが愛称を呼ぶのはこのラボではハルジしかいなかった。
わざわざ東洋人、太洋州人という単語を持ち出したのには訳がある。最近ではだいぶ混じり合ってきたが、ここの文化はこの二つに大別されるからだ。
極東の島国、日本に端を発する東洋人。
太平洋の南半球に浮かぶ大陸オーストラリアを起源とする太洋州人。
おおよそ東洋人6に対し太洋州人1の割合で人々が暮らすここは、月と地球の間にある重力均衡宙域に浮かぶ5つの衛星都市の一つ、グラウクス。
30年前、日本とオーストラリアを同時に襲った「隕石の災厄」、隕石が撒き散らしたウイルス、メテオリック・カラミティ(=MC)は多くの人命を奪った。だが、致死率98%のMCの洗礼を免れることができた人々が約400万人いた。彼らはMCをそれ以上広げないようにするため、衛星都市という名の牢獄に入る運命を自ら受け入れた。その彼らがハルジやサンドラたちの親以上の世代に当たる。
第2世代が台頭し始め二つの民族は融合してきたが、この区別はまだ無意味ではない。
全11回完結の予定。
次回更新予定は2週間後の10月16日です。