1. 「地味な君より」と、売り切れの最前列
「地味な君より、歌姫ナハティガルに魅せられた。婚約は破棄する」
楽の音がぷつりと途切れ、踊っていた足も止まる。靴底が床をこする音だけが、いやに大きい。
舞踏会の真ん中で、侯爵令息ファビアン様はそう言った。手には今夜の公演の、最前列の券が三枚。
ファビアン様が額の一房を払い、券を扇のように広げた。燭台の明かりの下、隣ではヴァレリエ様の黒い縦ロールが、勝ち誇って揺れる。
広間じゅうの目が、私の灰色のドレスに集まっている。頬が熱い。はい、ここで二拍休み。
私、ウルリカは笑いをこらえた。だってその歌姫、私なのだもの。
淑女らしく目を伏せ、丸い眼鏡を押し上げた。指だけ、ちょっと震えている。いけない、笑ったら全部台無し。
亜麻色の髪は、うなじできっちり結ってある。喉の奥には、鳴らさずに待っている〈ラ〉。そこへ、甘い声が割り込む。
「まあ、お気の毒。地味な方は、舞台のことなど、ご存じないのも無理ありませんわ」
「君は知らないだろうが、ナハティガルの声は天から降る光だ。音痴の君には、一生分からんだろうがな」
十四の春、人前で歌うのが嫌で、発表会の音をわざと外した。帰った客は三人。それ以来、私の歌を確かめる人はいない。あの外した音ばかり、律儀に覚えているのね。
私は背筋を伸ばした。返す声は、細く小さく。
「ええと……では、ご忠告を一つ。明日の公演の最前列は、もう売り切れでございます」
「は? 君が、歌劇場の何を知っている?」
「新聞に、そのように書いてございました」
縦ロールが、くるりと私のほうへ向く。
「新聞を読むお暇がおありなら、鏡をご覧になればよろしいのに」
明日の朝の新聞に、ね。私はファビアン様の手の券を確かめた。今から売り切らせるんだもの。
「今夜は僕が最前列だ。三枚ある。……君も来るか? 本物の歌を、聴いておくといい」
「わたくしは、殿方が他の女に薔薇を投げるのを、見に行く趣味はございませんわ」
「ヴァレリエ嬢まで!」
ヴァレリエ様が縦ロールを指に巻く。券を差し出した手は、行き先をなくして宙に残った。お誘いの拍子が、早くも崩れている。
「今夜は、先約がございますので」
「先約だと! 僕の誘いより大事なものがあるというのか?」
「お待ちくださっている方々を、遅刻でお迎えするわけにはまいりません」
客の扇が口もとへ上がる。絹のこすれる音を聞きながら、私は裾をつまみ、いつもどおりの深さでお辞儀をした。
「は、はは。君を客に迎える者までいるとは、驚いたよ!」
「ふふっ。私にも、大切なお客様がございますのよ?」
「君を拾う物好きの顔を、ぜひ一度拝んでみたいよ」
「鏡……ではなく、コホン。お目にかかるのは、また別の晩に。今夜は、もう間に合いませんので」
「ふん。せいぜい急ぎたまえ」
柱のそばに、低く結んだ黒髪の背の高い人がいる。扇の陰に笑いがこぼれる中、その人だけ、笑っていない。琥珀色の目が、私の喉のあたりを見ていた。
広間を出ると、ひやりとした廊下の空気に、止めていた息がほどける。開演まで、着替えも声出しも間に合う。靴音を弾ませ、アレグロで帰ろう。
◇
王都歌劇場の楽屋は、白粉と羽の匂いがする。馴染んだ匂いを吸う間に、アポロニアが私の眼鏡を外した。待ち針をくわえたまま、銀の半仮面の紐を結ぶ。
黒いレースで目もとを、黒い羽飾りで髪を隠した。夜鶯は、夜に歌う鳥の名だ。ここでは、私の名前でもある。
「お嬢、今夜はやけに足が速いじゃないか。広間で何があったんだい?」
「歌姫に負けて、婚約を破棄されましたの」
アポロニアの手がぴたりと止まる。私は喉を緩め、胸で響く舞台の声に戻す。もう、小さく話さなくていい。
「は? 自分に負けたのかい!? こりゃ、着替えより忙しい話だよ!」
「ええ。負けた方の分まで、今夜は歌いませんと」
「そりゃ、二人分の声が要るね。ははっ!」
「ええ。ですから今夜は、楽屋のお喋りはここまでにいたしますわ」
扉が開き、支配人が手巾で汗を拭いた。侯爵家のご子息から、今月いっぱい最前列を、という申し入れだ。まあ、休符を置く暇もない。
「支配人。契約の第七条を、使います」
「……三年のあいだ、一度もお使いにならなかったのに」
「明日の分から、最前列の十席は歌姫の招待席。――売り切れです」
支配人の手巾が止まった。三年、歌で子爵家の暮らしを支えてきたけれど、この席だけは使わずにいたのだ。招く人が、いなかったから。今度は、私が招きたい人のために取っておこう。
「すでにお買い上げの今夜の券は、いかがいたしますか?」
「そのままに。今夜のお客様には、今夜の歌をお届けしますわ」
「……侯爵家には、何と申し上げれば?」
「売り切れ、と。本当のことでございますもの」
「……承りました」
支配人はうなずいて、明日の座席表に線を引く。紙を走る音が、やけに小気味よかった。アポロニアが最後の紐を結び、背中をぽんと押す。
幕の向こうは満席だ。明かりの熱を頬に受け、私は最初の一音を、息と一緒に客席へ送った。〈ラ〉が胸の底を震わせ、客席の暗がりまで、まっすぐ伸びていく。
二階の桟敷の暗がりに、拍手もせずに聴いている人がいた。
柱のそばの人と同じ、低く結んだ黒髪。最後の一音が消えると、琥珀色の目の下で、指が手すりを二度鳴らす。ただそれだけで、私の胸が、勝手にその拍を拾う。
最前列で、ファビアン様が勢いよく立ち上がった。隣の二席は空のまま。花嫁の席まで用意して、一人でお越しとは。
「ナハティガル! 僕の光!」
薔薇が舞台へ飛んだ。私は茎を受け取り、仮面の下で口もとを緩める。広間で聞いたばかりの声が、こんなにも弾んでいる。
婚約破棄から二時間後、私は、私を捨てた人に、仮面の下で微笑んでお辞儀をした。
観客の顔がいっせいにほころび、拍手が広がる。その響きが、舞台に立つ足の裏まで伝わる。券を断った地味な女に、ただいま薔薇が届いている。
楽屋へ戻り、仮面と羽飾りを外す。頬にこもった熱が逃げると、薔薇の茎に結ばれた紙が見えた。
楽屋に届いた恋文には、こう書いてある。『あなたに比べれば、前の婚約者は石ころでした』
「ぶふっ。……石ころだってさ、お嬢」
背中から読んだアポロニアの口から、待ち針が三本、きらりと飛ぶ。私は恋文を机へ置く。
「ちょっと、危ないわよ!」
「悪い悪い、あんたの薔薇を拾うより、あたしの針を拾うほうが忙しいよ!」
針を避けて、眼鏡をかけ直した。私の悪口まで配達するとは、ずいぶん働き者の薔薇だ。
「まあ、先ほどは天から降る光だそうですわ」
「同じ女を、光にしたり石にしたり! その目、何を見てるんだい?」
「仮面があれば光、眼鏡があれば石なのでしょうね。今度は、石のためにお越し願いましょう」
「お嬢、その石が歌うって、いつ教えてやるんだい? あたし、もう笑いをこらえられないよ!」
私は恋文の折り目を、指の腹で丁寧に伸ばした。よし、お返しのテンポは決まり。
「教える前に、聴いていただきましょう。光の歌を石が歌うところを、毎晩、一列ずつ遠くから」
「ぶふっ! あんたの声を、あんたの悪口つきで褒めるのかい! 明日は針を、くわえていられないよ!」
「悪口の分は、歌でお返ししますわ」
アポロニアが、机の薔薇を指した。
「花まで石に贈ってるんだから、たいしたご贔屓だね!」
「明日からの最前列は、私が選んだお客様の席ですわ。侯爵令息様のお席は、その後ろに空いておりますもの」
「後ろの列から、せいぜい首を伸ばすんだね!」
アポロニアは針をくわえ直し、肩を揺らす。私は亜麻色の髪をほどいて、うなじで結い直した。
遠ざかる席から投げられ、舞台の手前に落ちる薔薇を思い浮かべる。歌だけは、ちゃんと届かせてあげよう。
石ころ、ね。喉に指先を添えると、さっきの〈ラ〉の名残がかすかに震えた。眼鏡をかけても、この喉は私のものだ。
「ふんっ! 石ころで、悪かったわね!」




