婚約破棄、承りましたわ
8/10 王妃教育→王族妃教育へ修正。
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王立ヴェルジェ学園の卒業夜会。
シャンデリアの下、第二王子ジークヴァルト・レイ・アルデシアは、グラスを掲げるでもなく、ただ声だけを高く張り上げた。
「セレスティア・ヴァレンハイト。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」
弦楽の四重奏が途切れた。
三百を超える貴族の子弟の視線が、一斉にひとりの令嬢へと集まる。
セレスティア・ヴァレンハイト。
建国以来の四公爵家のひとつ、ヴァレンハイト公爵家の長女。七歳のときからジークヴァルトの婚約者であり、王族妃教育をただの一度も欠かしたことのない少女だった。
余談であるが、ヴァレンハイト公爵家は国内に強い権力を持つ家柄であり、古来より王族一家と仲が良かった。
そのため、本来は第二王子妃としてはある程度しか必要とならない、王妃教育を『王族妃教育』として、従来通りの教育を施すよう、王族一家に対し要求していた。
王もこれに快く応じ、晴れてセレスティアは王族妃教育を受けることとなっていた。
淡い銀の髪をひとつに結い、濃紫のドレスをまとったセレスティアは、ゆっくりと顔を上げた。
いつも通り、表情はほとんど動かない。
「……承知いたしましたわ」
「そうだ、承知――は?」
「承知いたしました、と申し上げましたの」
ジークヴァルトの言葉が止まる。
彼の腕には、ふわりとした桃色の髪の少女がぶら下がっていた。
ミルフィ・ポワレ。ポワレ男爵家の三女で、二年前に編入してきた娘だ。
いつも小首を傾げ、語尾を伸ばして笑う。
「ジーク様ぁ、セレスティア様、怒ってらっしゃらないみたいですよぉ?」
「そんなはずがあるか」
ジークヴァルトは苛立ったように前髪をかき上げた。
「いいだろう、はっきり言ってやる。私は今日、ここでミルフィを新たな婚約者とする。そして――いずれ、この娘を我が妃に迎える」
広間が、ざわりと鳴った。
男爵家。
王族妃。
その二つの単語が同じ文の中に並んだことに、大人たちが息を呑む。
「ジーク様ぁ、そんな、いきなり……嬉しいですけどぉ」
「気にするな。ミルフィは身分こそ低いが、心が温かい。誰よりも人の痛みが分かる娘だ」
ジークヴァルトはセレスティアを睨みつけた。
「そこにいる氷の令嬢とは違ってな」
「……はい」
「聞いているのか」
「聞いておりますわ」
「その顔だ! いつもその顔だ! 何を言っても、何を贈っても、貴様は眉ひとつ動かさん!」
セレスティアは、少しだけまばたきをした。
眉ひとつ動かさない、と言われたのは、これで四十七回目だ。
数えている。
彼女は、すべて数えている。
「殿下」
「なんだ」
「婚約の破棄については、確かに承りました。書面はのちほど、公爵家の名で正式に整えてお送りいたしますわ」
「……ずいぶんと素直だな」
「ええ。ただ」
セレスティアは、腰に下げた小さな革張りの手帳を外した。
飾り気のない、事務用の手帳だ。
「破棄の前に、清算だけはさせていただきたいのです」
「清算?」
「わたくしが婚約者として殿下から賜ったものを、順に読み上げます。長くなりますので、どうぞお掛けになって」
「なっ……」
「一つ」
セレスティアは、王子の返事を待たなかった。
「第七十三期より本日までの二年間、王家主催の茶会は三十二回。殿下がご出席なさったのは二回。うち一回は十五分でご退席、もう一回は……ポワレ嬢を伴われて、わたくしの隣にはお座りになりませんでした」
「そ、そんな昔のことを」
「二つ。わたくしの十六の誕生日に賜ったはずの紅玉の首飾りは、当日の夜、ポワレ嬢が身につけて夜会に出席しておられました。首飾りには王家の紋がございます。あれは王家の財産で、婚約者以外が身につけてよい品ではございません」
「わあ、これですかぁ?」
ミルフィが胸元をつまんで見せた。
見せてしまった。
広間の空気が、すっと冷えた。
「三つ」
セレスティアは頁をめくる。
「昨年の秋、王都の水路改修に関する殿下名義の裁可書。十一通。すべて、わたくしの筆跡で作成されております。殿下が『面倒だから代わりに書け』と仰いましたので」
「ま、待て、それは」
「四つ。同じく殿下名義の、南部飢饉に対する救援配分の意見書。あれもわたくしが書きました。殿下は中身をご覧になっていないはずですわ。だって、あの意見書には、殿下ご自身の狩猟場の予算を削る案が入っておりますもの」
どこかで、誰かが小さく笑った。
笑って、慌てて口を押さえた。
「五つ。二年前の秋、わたくしが階段からポワレ嬢を突き落としたという噂について。噂が出た翌日、殿下はわたくしを呼びつけ、謝罪を命じられました。事実の確認を、一度もなさらずに」
「事実も何も、ミルフィは足を挫いていたんだぞ!」
「ええ。ですから、当日その場にいた者を、すべて調べさせていただきました」
セレスティアは、初めて広間の奥へと視線を投げた。
「――エレノア」
「はい、セレスティア様」
奥のテーブルから、深緑のドレスの令嬢が立ち上がった。
フォンティーヌ侯爵家の長女、エレノア。学園の風紀委員長であり、セレスティアの唯一の友人と呼ばれる娘だ。
エレノアは扇を閉じ、よく通る声で言った。
「当日、西階段の踊り場にいた生徒は七名。うち五名から証言を取っております。ポワレ嬢は、階段の三段目から、ご自分で座り込まれた。セレスティア様はその時刻、南棟の教室で王族妃教育の講義を受けておられました。講師は王宮からいらした礼法学のマルセル卿。記録は学園に残っております」
「え、えぇ? わたし、そんなつもりじゃ……」
「つもりの話はしておりませんわ、ポワレ嬢。事実の話をしております」
エレノアは、扇の先をジークヴァルトへ向けた。
「殿下。あの日わたくしは、証言をまとめた書面を殿下の従者にお渡ししました。読まれましたか」
「……知らん」
「そうでしょうね。二日後に暖炉で焼かれておりましたから」
広間が、はっきりとどよめいた。
ジークヴァルトの顔から、血の気が引いていく。
「六つ」
セレスティアの声は、まったく変わらない。
「昨年より、わたくしは殿下より、婚約者の証である王家の紋章を身につけることを禁じられました。
理由は『ミルフィが萎縮するから』。以来、わたくしは公の場で、身元を示すものを何ひとつ持たずに立っております」
「そ、それは配慮というものだ」
「配慮」
セレスティアは、その言葉をゆっくりと繰り返した。
「わたくしは、配慮という言葉を、殿下から教わりましたわ」
「……何が言いたい」
「七つ」
彼女は頁をめくった。
もう半分ほど、めくられている。
「三月の建国祭。殿下は、わたくしを迎えの馬車から降ろさせ、代わりにポワレ嬢を乗せてお発ちになりました。わたくしは王宮の門前で、二時間、雨の中で立っておりました。誰も、迎えを寄越されなかった」
「あ、あれはぁ、ジーク様が『あの女は勝手に帰るだろう』って……」
「ミルフィ、黙れ」
「え? あ、ごめんなさぁい」
もう遅い。
広間の貴族たちの視線が、完全に変わっていた。
好奇から、侮蔑へ。
そして、警戒へ。
「殿下」
新たな声が上がった。
会計簿を小脇に抱えた、細身の令息だった。
ガルディア伯爵家の次男、ユリウス。学園生徒会の会計を三年務め、伯父は現財務卿である。
「わたくしからも、一つよろしいでしょうか」
「貴様には聞いていない」
「では、この場の皆様に申し上げます」
ユリウスは、あっさりと王子を無視した。
「学園には『王立奨学基金』がございます。名の通り、王家より下賜される金子で、平民出身および下級貴族の子弟の学費を賄うためのもの。原資は国庫、すなわち民の税でございます」
彼は帳簿を開いた。
「昨年度の支出のうち、三千二百グルド分の使途が『特別交際費』として一括計上されております。生徒会には、その名目の科目はございません」
「ゆ、ユリウス、貴様――」
「内訳を照会いたしましたところ、支払先は王都の宝飾店ラウザン、仕立屋メルヴィエ、そして――北区の別邸の賃料でございました」
しん、とした。
「別邸の名義は、ポワレ男爵家の遠縁。ですが、鍵の受け取りに署名なさっているのは、ジークヴァルト殿下ご自身でございます」
「わあ、あのお家、ジーク様が『二人の秘密の場所だよ』って……」
「ミルフィ!」
「だってぇ、みんな知ってると思ってましたぁ」
今度は、笑い声は起きなかった。
三千二百グルドは、南部の村ひとつが一年を越すのに足る額だった。
その南部が飢饉に見舞われたのは、去年の秋である。
「……あの」
広間の後方で、ひとりの令息が立ち上がった。
礼服の仕立ては古く、袖口が少しだけ擦れている。奨学基金で学んでいる生徒だった。
「南部のドラン領から参りました、トマ・ヴェルクと申します。……去年の冬、うちの村では、十九人が亡くなりました」
誰も、言葉を挟まなかった。
「支援の穀物が届くのが、二月遅れました。理由は『予算の都合』だと聞かされました。うちの母は、その二月を越せませんでした」
彼は、震える手で拳を握った。
「殿下。三千二百グルドというのは、うちの村の女たちが、布を三年分織って返しても届かない額です。……その金で、あの、宝石を、お買いになったのですか」
ジークヴァルトは何も答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しい。
「わたし、そんな、知らなくてぇ……」
ミルフィが小さく言った。
「知らないなら」
トマは、はっきりと言った。
「返してください。それだけです」
セレスティアは、彼のほうへ深く頭を下げた。
公爵令嬢が、男爵位すら持たぬ家の子弟に、頭を下げた。
広間の誰もが、それを見た。
「……殿下」
会場の隅から、また声が上がった。
礼服の胸に、騎士見習いの徽章。
シュタイン男爵家の三男、レオンハルト。二年前まで、ジークヴァルトの従者を務めていた青年だ。
「わたくしは、殿下に暇を出された身です。ですから、もう申し上げても構わないでしょう」
「レオン、貴様、恩を――」
「恩ならば返しました。三年分の口止め料として、わたくしは何も言わずに王都を離れました」
レオンハルトは、深く息を吸った。
「殿下が北区の別邸に通われるようになったのは、ポワレ嬢と出会う前でございます。当時お連れに
なっていたのは、王宮の侍女が二名。それから、下町の劇場の踊り子が一名。……最後の方は、身籠っておられました」
広間が、悲鳴のような音を立てた。
「その始末を命じられたのが、わたくしです。あの方は今、南の港町におります。生きております。それだけは、申し上げておきます」
ジークヴァルトの唇が震えた。
「証拠が、証拠があるのか」
「支払いの記録は、先ほどガルディア卿が読み上げた帳簿の三年前の頁に。同じ仕立屋、同じ宝飾店。名前だけが違います」
ユリウスが、静かに帳簿をめくった。
「ございますね。三年前、二年前、そして昨年。宛名は三人とも別の女性でございます」
「……あら」
初めて、ミルフィの声から語尾の伸びが消えた。
「ジーク様、その、三年前って、なんですかぁ?」
「ミルフィ、違う、これは」
「わたし、聞いてないんですけどぉ」
「黙れと言っている!」
「あらあら」
エレノアが扇を開いた。
「ポワレ嬢。あなたも、そう大きな声を出せる立場ではございませんでしょう」
「……え?」
「学園には風紀の記録がございます。あなたが夜間に寮を抜け出した回数は、二年間で三十一回。同伴していた令息の名は、四名。うち二名は既に婚約者のある方々でしたわ」
「そ、それはぁ、お勉強を教えていただいて……」
「深夜二時に、東屋で?」
ミルフィの顔から、ふわふわとしたものが、すっと剥がれ落ちた。
「オルコット子爵令息、ベルナン子爵令息、それから――ラウ侯爵家のご次男。皆様、本日この場においでですわね。どなたか、否定なさいます?」
誰も、立ち上がらなかった。
誰も、否定しなかった。
それが答えだった。
「セレスティア様」
ずっと壁際に控えていた小柄な令嬢が、そこで初めて口を開いた。
ベルナール子爵家のクロエ。学園の図書委員であり、記録という記録を三年間まとめ続けてきた娘だ。
「わたくし、写しを取っておきました。帳簿も、風紀の記録も、証言も。すべて三部ずつ」
「……クロエ」
「一部は公爵家へ。一部は財務卿へ。そして一部は――今朝、王宮へ届けております」
「な」
ジークヴァルトが、一歩よろめいた。
その時、広間の大扉が、両側から開かれた。
近衛の隊列が、音もなく左右に割れる。
現れたのは、宰相バルドウィン公と、第一王子アルベルトだった。
広間の全員が、一斉に膝を折る。
アルベルトは、弟の顔を一度も見なかった。
「ジークヴァルト」
「兄上、これは、その、誤解が」
「誤解であるならば、王宮で申し開きをすればよい。国庫の下賜金に関わる件だ。学園の中で終わらせられる話ではない」
「わたしは、王子だぞ!」
「そうだ」
アルベルトの声は、静かだった。
「王子だからこそ、民の金を女に着せた者を、この国は許してはならない」
ジークヴァルトの膝が落ちた。
ミルフィは、いつの間にか二歩離れていた。
「あの、わたし、何も知らなくてぇ……」
「ポワレ嬢」
宰相が、老いた声で言った。
「鍵の受領証には、あなたの署名もございます。字が丸くて、読みやすい」
彼女は、そのまま黙った。
近衛が二人を挟む。
引き立てられていく間際、ジークヴァルトは一度だけ振り返った。
「セレスティア……貴様、いつからだ」
セレスティアは、手帳を胸に抱えたまま答えた。
「三年前でございます」
「三年」
「あの日、階段の証言書が焼かれたと伺ったときから、わたくしは、記録を取り始めました」
「なぜ……なぜ、その場で言わなかった」
「言えば、殿下は握りつぶされたでしょう。ですから、握りつぶせない場所まで、待ちました」
「三年もか」
「はい」
セレスティアは、少しだけ首を傾げた。
「三年など、王妃教育に比べれば、短いものですわ」
扉が閉まった。
弦楽の四重奏は、二度と再開されなかった。
大広間には、ざわめきだけが残った。
セレスティアは、手帳をぱたんと閉じた。
「……ご歓談の途中に、失礼をいたしました」
誰も、彼女を止めなかった。
エレノアが隣に並ぶ。ユリウスが帳簿を抱えて続く。クロエが小走りに追いつき、レオンハルトが少し離れて後ろを歩いた。
回廊に出ると、夜気が冷たかった。
「セレスティア様」
エレノアが言った。
「わたくし、一つだけ伺ってもよろしくて?」
「なんでしょう」
「悔しくは、ありませんでしたの?」
セレスティアは、少し考えた。
考えている間も、表情は変わらない。
「……ありましたわ」
「そうなのですか」
「そうですわよ」
「まったくそのようには見えませんでしたけれど」
「よく言われます」
エレノアは笑った。
今日初めて、声を上げて笑った。
「では、悲しくは?」
セレスティアは足を止めた。
回廊の窓から、王都の灯りが見える。
七歳のあの日、この国の王妃になるのだと言われた。
以来、彼女の一日には、必ず何かが入っていた。
礼法。外交史。三か国語。舞踏。財務。王妃殿下への報告。
そして、婚約者の分の書類。
「悲しゅうございました」
「……はい」
「毎日、少しずつ」
「はい」
「でも、悲しいと申し上げても、あの方は『またその顔か』とお笑いになるだけでしたから」
「……ええ」
「ですので、書くことにいたしましたの」
セレスティアは、手帳を軽く持ち上げた。
角がすり切れ、背が二度も綴じ直された手帳だった。
「泣く代わりに、書きました。三年分ございます」
エレノアは、しばらく何も言わなかった。
やがて、そっと訊いた。
「……明日のご予定は?」
セレスティアは目を伏せ、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「何もございませんわ」
「まあ」
「本当に、何も」
その声が、ほんのわずかに、震えた。
震えたことに、セレスティア自身が驚いた顔をした。
エレノアは、それを見逃さなかった。
「セレスティア様」
「なんですの」
「今、笑いましたね」
「……別に」
「笑いました」
「帰りますわ」
馬車が回された。
乗り込む間際、セレスティアは手帳をもう一度だけ見た。
最後の頁は、まだ白いままだった。
彼女は少し迷って、鉛筆を取り出し、そこに一行だけ書き足した。
――記録、終わり。
ぱたん、と閉じる。
もう、開くことはないだろう。
馬車が動き出す。
窓の外を、卒業夜会の灯りが遠ざかっていった。
その灯りが完全に見えなくなったとき、セレスティアはようやく、ひとつだけ息を吐いた。
長い、長い息だった。




