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婚約破棄、承りましたわ

婚約破棄、承りましたわ

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/08/10

8/10 王妃教育→王族妃教育へ修正。

ご指摘ありがとうございます

 王立ヴェルジェ学園の卒業夜会。

 シャンデリアの下、第二王子ジークヴァルト・レイ・アルデシアは、グラスを掲げるでもなく、ただ声だけを高く張り上げた。


「セレスティア・ヴァレンハイト。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」


 弦楽の四重奏が途切れた。

 三百を超える貴族の子弟の視線が、一斉にひとりの令嬢へと集まる。

 セレスティア・ヴァレンハイト。

 建国以来の四公爵家のひとつ、ヴァレンハイト公爵家の長女。七歳のときからジークヴァルトの婚約者であり、王族妃教育をただの一度も欠かしたことのない少女だった。


 余談であるが、ヴァレンハイト公爵家は国内に強い権力を持つ家柄であり、古来より王族一家と仲が良かった。

 そのため、本来は第二王子妃としてはある程度しか必要とならない、王妃教育を『王族妃教育』として、従来通りの教育を施すよう、王族一家に対し要求していた。

 王もこれに快く応じ、晴れてセレスティアは王族妃教育を受けることとなっていた。


 淡い銀の髪をひとつに結い、濃紫のドレスをまとったセレスティアは、ゆっくりと顔を上げた。

 いつも通り、表情はほとんど動かない。


「……承知いたしましたわ」

「そうだ、承知――は?」

「承知いたしました、と申し上げましたの」


 ジークヴァルトの言葉が止まる。

 彼の腕には、ふわりとした桃色の髪の少女がぶら下がっていた。

 ミルフィ・ポワレ。ポワレ男爵家の三女で、二年前に編入してきた娘だ。

 いつも小首を傾げ、語尾を伸ばして笑う。


「ジーク様ぁ、セレスティア様、怒ってらっしゃらないみたいですよぉ?」

「そんなはずがあるか」


 ジークヴァルトは苛立ったように前髪をかき上げた。


「いいだろう、はっきり言ってやる。私は今日、ここでミルフィを新たな婚約者とする。そして――いずれ、この娘を我が妃に迎える」


 広間が、ざわりと鳴った。

 男爵家。

 王族妃。

 その二つの単語が同じ文の中に並んだことに、大人たちが息を呑む。


「ジーク様ぁ、そんな、いきなり……嬉しいですけどぉ」

「気にするな。ミルフィは身分こそ低いが、心が温かい。誰よりも人の痛みが分かる娘だ」


 ジークヴァルトはセレスティアを睨みつけた。


「そこにいる氷の令嬢とは違ってな」

「……はい」

「聞いているのか」

「聞いておりますわ」

「その顔だ! いつもその顔だ! 何を言っても、何を贈っても、貴様は眉ひとつ動かさん!」


 セレスティアは、少しだけまばたきをした。

 眉ひとつ動かさない、と言われたのは、これで四十七回目だ。

 数えている。

 彼女は、すべて数えている。


「殿下」

「なんだ」

「婚約の破棄については、確かに承りました。書面はのちほど、公爵家の名で正式に整えてお送りいたしますわ」

「……ずいぶんと素直だな」

「ええ。ただ」


 セレスティアは、腰に下げた小さな革張りの手帳を外した。

 飾り気のない、事務用の手帳だ。


「破棄の前に、清算だけはさせていただきたいのです」

「清算?」

「わたくしが婚約者として殿下から賜ったものを、順に読み上げます。長くなりますので、どうぞお掛けになって」

「なっ……」

「一つ」


 セレスティアは、王子の返事を待たなかった。


「第七十三期より本日までの二年間、王家主催の茶会は三十二回。殿下がご出席なさったのは二回。うち一回は十五分でご退席、もう一回は……ポワレ嬢を伴われて、わたくしの隣にはお座りになりませんでした」

「そ、そんな昔のことを」

「二つ。わたくしの十六の誕生日に賜ったはずの紅玉の首飾りは、当日の夜、ポワレ嬢が身につけて夜会に出席しておられました。首飾りには王家の紋がございます。あれは王家の財産で、婚約者以外が身につけてよい品ではございません」

「わあ、これですかぁ?」


 ミルフィが胸元をつまんで見せた。

 見せてしまった。

 広間の空気が、すっと冷えた。


「三つ」


 セレスティアは頁をめくる。


「昨年の秋、王都の水路改修に関する殿下名義の裁可書。十一通。すべて、わたくしの筆跡で作成されております。殿下が『面倒だから代わりに書け』と仰いましたので」

「ま、待て、それは」

「四つ。同じく殿下名義の、南部飢饉に対する救援配分の意見書。あれもわたくしが書きました。殿下は中身をご覧になっていないはずですわ。だって、あの意見書には、殿下ご自身の狩猟場の予算を削る案が入っておりますもの」


 どこかで、誰かが小さく笑った。

 笑って、慌てて口を押さえた。


「五つ。二年前の秋、わたくしが階段からポワレ嬢を突き落としたという噂について。噂が出た翌日、殿下はわたくしを呼びつけ、謝罪を命じられました。事実の確認を、一度もなさらずに」

「事実も何も、ミルフィは足を挫いていたんだぞ!」

「ええ。ですから、当日その場にいた者を、すべて調べさせていただきました」


 セレスティアは、初めて広間の奥へと視線を投げた。


「――エレノア」

「はい、セレスティア様」


 奥のテーブルから、深緑のドレスの令嬢が立ち上がった。

 フォンティーヌ侯爵家の長女、エレノア。学園の風紀委員長であり、セレスティアの唯一の友人と呼ばれる娘だ。

 エレノアは扇を閉じ、よく通る声で言った。


「当日、西階段の踊り場にいた生徒は七名。うち五名から証言を取っております。ポワレ嬢は、階段の三段目から、ご自分で座り込まれた。セレスティア様はその時刻、南棟の教室で王族妃教育の講義を受けておられました。講師は王宮からいらした礼法学のマルセル卿。記録は学園に残っております」

「え、えぇ? わたし、そんなつもりじゃ……」

「つもりの話はしておりませんわ、ポワレ嬢。事実の話をしております」


 エレノアは、扇の先をジークヴァルトへ向けた。


「殿下。あの日わたくしは、証言をまとめた書面を殿下の従者にお渡ししました。読まれましたか」

「……知らん」

「そうでしょうね。二日後に暖炉で焼かれておりましたから」


 広間が、はっきりとどよめいた。

 ジークヴァルトの顔から、血の気が引いていく。


「六つ」


 セレスティアの声は、まったく変わらない。


「昨年より、わたくしは殿下より、婚約者の証である王家の紋章を身につけることを禁じられました。

 理由は『ミルフィが萎縮するから』。以来、わたくしは公の場で、身元を示すものを何ひとつ持たずに立っております」

「そ、それは配慮というものだ」

「配慮」


 セレスティアは、その言葉をゆっくりと繰り返した。


「わたくしは、配慮という言葉を、殿下から教わりましたわ」

「……何が言いたい」

「七つ」


 彼女は頁をめくった。

 もう半分ほど、めくられている。


「三月の建国祭。殿下は、わたくしを迎えの馬車から降ろさせ、代わりにポワレ嬢を乗せてお発ちになりました。わたくしは王宮の門前で、二時間、雨の中で立っておりました。誰も、迎えを寄越されなかった」

「あ、あれはぁ、ジーク様が『あの女は勝手に帰るだろう』って……」

「ミルフィ、黙れ」

「え? あ、ごめんなさぁい」


 もう遅い。

 広間の貴族たちの視線が、完全に変わっていた。

 好奇から、侮蔑へ。

 そして、警戒へ。


「殿下」


 新たな声が上がった。

 会計簿を小脇に抱えた、細身の令息だった。

 ガルディア伯爵家の次男、ユリウス。学園生徒会の会計を三年務め、伯父は現財務卿である。


「わたくしからも、一つよろしいでしょうか」

「貴様には聞いていない」

「では、この場の皆様に申し上げます」


 ユリウスは、あっさりと王子を無視した。


「学園には『王立奨学基金』がございます。名の通り、王家より下賜される金子で、平民出身および下級貴族の子弟の学費を賄うためのもの。原資は国庫、すなわち民の税でございます」


 彼は帳簿を開いた。


「昨年度の支出のうち、三千二百グルド分の使途が『特別交際費』として一括計上されております。生徒会には、その名目の科目はございません」

「ゆ、ユリウス、貴様――」

「内訳を照会いたしましたところ、支払先は王都の宝飾店ラウザン、仕立屋メルヴィエ、そして――北区の別邸の賃料でございました」


 しん、とした。


「別邸の名義は、ポワレ男爵家の遠縁。ですが、鍵の受け取りに署名なさっているのは、ジークヴァルト殿下ご自身でございます」

「わあ、あのお家、ジーク様が『二人の秘密の場所だよ』って……」

「ミルフィ!」

「だってぇ、みんな知ってると思ってましたぁ」


 今度は、笑い声は起きなかった。

 三千二百グルドは、南部の村ひとつが一年を越すのに足る額だった。

 その南部が飢饉に見舞われたのは、去年の秋である。


「……あの」


 広間の後方で、ひとりの令息が立ち上がった。

 礼服の仕立ては古く、袖口が少しだけ擦れている。奨学基金で学んでいる生徒だった。


「南部のドラン領から参りました、トマ・ヴェルクと申します。……去年の冬、うちの村では、十九人が亡くなりました」


 誰も、言葉を挟まなかった。


「支援の穀物が届くのが、二月遅れました。理由は『予算の都合』だと聞かされました。うちの母は、その二月を越せませんでした」


 彼は、震える手で拳を握った。


「殿下。三千二百グルドというのは、うちの村の女たちが、布を三年分織って返しても届かない額です。……その金で、あの、宝石を、お買いになったのですか」


 ジークヴァルトは何も答えなかった。

 答えられなかった、というほうが正しい。


「わたし、そんな、知らなくてぇ……」


 ミルフィが小さく言った。


「知らないなら」


 トマは、はっきりと言った。


「返してください。それだけです」


 セレスティアは、彼のほうへ深く頭を下げた。

 公爵令嬢が、男爵位すら持たぬ家の子弟に、頭を下げた。

 広間の誰もが、それを見た。


「……殿下」


 会場の隅から、また声が上がった。

 礼服の胸に、騎士見習いの徽章。

 シュタイン男爵家の三男、レオンハルト。二年前まで、ジークヴァルトの従者を務めていた青年だ。


「わたくしは、殿下に暇を出された身です。ですから、もう申し上げても構わないでしょう」

「レオン、貴様、恩を――」

「恩ならば返しました。三年分の口止め料として、わたくしは何も言わずに王都を離れました」


 レオンハルトは、深く息を吸った。


「殿下が北区の別邸に通われるようになったのは、ポワレ嬢と出会う前でございます。当時お連れに

 なっていたのは、王宮の侍女が二名。それから、下町の劇場の踊り子が一名。……最後の方は、身籠っておられました」


 広間が、悲鳴のような音を立てた。


「その始末を命じられたのが、わたくしです。あの方は今、南の港町におります。生きております。それだけは、申し上げておきます」


 ジークヴァルトの唇が震えた。


「証拠が、証拠があるのか」

「支払いの記録は、先ほどガルディア卿が読み上げた帳簿の三年前の頁に。同じ仕立屋、同じ宝飾店。名前だけが違います」


 ユリウスが、静かに帳簿をめくった。


「ございますね。三年前、二年前、そして昨年。宛名は三人とも別の女性でございます」

「……あら」


 初めて、ミルフィの声から語尾の伸びが消えた。


「ジーク様、その、三年前って、なんですかぁ?」

「ミルフィ、違う、これは」

「わたし、聞いてないんですけどぉ」

「黙れと言っている!」

「あらあら」


 エレノアが扇を開いた。


「ポワレ嬢。あなたも、そう大きな声を出せる立場ではございませんでしょう」

「……え?」

「学園には風紀の記録がございます。あなたが夜間に寮を抜け出した回数は、二年間で三十一回。同伴していた令息の名は、四名。うち二名は既に婚約者のある方々でしたわ」

「そ、それはぁ、お勉強を教えていただいて……」

「深夜二時に、東屋で?」


 ミルフィの顔から、ふわふわとしたものが、すっと剥がれ落ちた。


「オルコット子爵令息、ベルナン子爵令息、それから――ラウ侯爵家のご次男。皆様、本日この場においでですわね。どなたか、否定なさいます?」


 誰も、立ち上がらなかった。

 誰も、否定しなかった。

 それが答えだった。


「セレスティア様」


 ずっと壁際に控えていた小柄な令嬢が、そこで初めて口を開いた。

 ベルナール子爵家のクロエ。学園の図書委員であり、記録という記録を三年間まとめ続けてきた娘だ。


「わたくし、写しを取っておきました。帳簿も、風紀の記録も、証言も。すべて三部ずつ」

「……クロエ」

「一部は公爵家へ。一部は財務卿へ。そして一部は――今朝、王宮へ届けております」

「な」


 ジークヴァルトが、一歩よろめいた。

 その時、広間の大扉が、両側から開かれた。

 近衛の隊列が、音もなく左右に割れる。

 現れたのは、宰相バルドウィン公と、第一王子アルベルトだった。

 広間の全員が、一斉に膝を折る。

 アルベルトは、弟の顔を一度も見なかった。


「ジークヴァルト」

「兄上、これは、その、誤解が」

「誤解であるならば、王宮で申し開きをすればよい。国庫の下賜金に関わる件だ。学園の中で終わらせられる話ではない」

「わたしは、王子だぞ!」

「そうだ」


 アルベルトの声は、静かだった。


「王子だからこそ、民の金を女に着せた者を、この国は許してはならない」


 ジークヴァルトの膝が落ちた。

 ミルフィは、いつの間にか二歩離れていた。


「あの、わたし、何も知らなくてぇ……」

「ポワレ嬢」


 宰相が、老いた声で言った。


「鍵の受領証には、あなたの署名もございます。字が丸くて、読みやすい」


 彼女は、そのまま黙った。

 近衛が二人を挟む。

 引き立てられていく間際、ジークヴァルトは一度だけ振り返った。


「セレスティア……貴様、いつからだ」


 セレスティアは、手帳を胸に抱えたまま答えた。


「三年前でございます」

「三年」

「あの日、階段の証言書が焼かれたと伺ったときから、わたくしは、記録を取り始めました」

「なぜ……なぜ、その場で言わなかった」

「言えば、殿下は握りつぶされたでしょう。ですから、握りつぶせない場所まで、待ちました」

「三年もか」

「はい」


 セレスティアは、少しだけ首を傾げた。


「三年など、王妃教育に比べれば、短いものですわ」


 扉が閉まった。

 弦楽の四重奏は、二度と再開されなかった。

 大広間には、ざわめきだけが残った。

 セレスティアは、手帳をぱたんと閉じた。


「……ご歓談の途中に、失礼をいたしました」


 誰も、彼女を止めなかった。

 エレノアが隣に並ぶ。ユリウスが帳簿を抱えて続く。クロエが小走りに追いつき、レオンハルトが少し離れて後ろを歩いた。

 回廊に出ると、夜気が冷たかった。


「セレスティア様」


 エレノアが言った。


「わたくし、一つだけ伺ってもよろしくて?」

「なんでしょう」

「悔しくは、ありませんでしたの?」


 セレスティアは、少し考えた。

 考えている間も、表情は変わらない。


「……ありましたわ」

「そうなのですか」

「そうですわよ」

「まったくそのようには見えませんでしたけれど」

「よく言われます」


 エレノアは笑った。

 今日初めて、声を上げて笑った。


「では、悲しくは?」


 セレスティアは足を止めた。

 回廊の窓から、王都の灯りが見える。

 七歳のあの日、この国の王妃になるのだと言われた。

 以来、彼女の一日には、必ず何かが入っていた。

 礼法。外交史。三か国語。舞踏。財務。王妃殿下への報告。

 そして、婚約者の分の書類。


「悲しゅうございました」

「……はい」

「毎日、少しずつ」

「はい」

「でも、悲しいと申し上げても、あの方は『またその顔か』とお笑いになるだけでしたから」

「……ええ」

「ですので、書くことにいたしましたの」


 セレスティアは、手帳を軽く持ち上げた。

 角がすり切れ、背が二度も綴じ直された手帳だった。


「泣く代わりに、書きました。三年分ございます」

 エレノアは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、そっと訊いた。

「……明日のご予定は?」

 セレスティアは目を伏せ、それから、ゆっくりと顔を上げた。


「何もございませんわ」

「まあ」

「本当に、何も」


 その声が、ほんのわずかに、震えた。

 震えたことに、セレスティア自身が驚いた顔をした。

 エレノアは、それを見逃さなかった。


「セレスティア様」

「なんですの」

「今、笑いましたね」

「……別に」

「笑いました」

「帰りますわ」


 馬車が回された。

 乗り込む間際、セレスティアは手帳をもう一度だけ見た。

 最後の頁は、まだ白いままだった。

 彼女は少し迷って、鉛筆を取り出し、そこに一行だけ書き足した。


 ――記録、終わり。

 ぱたん、と閉じる。

 もう、開くことはないだろう。

 馬車が動き出す。

 窓の外を、卒業夜会の灯りが遠ざかっていった。

 その灯りが完全に見えなくなったとき、セレスティアはようやく、ひとつだけ息を吐いた。

 長い、長い息だった。

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