第一話:瑠璃色の観測者
深夜のオフィス街。吐き出す息が白く染まるアスファルトの上で、俺は最後の一歩を踏み出した。
「先輩、本当に助かりました!」
「気にするなって、明日美味いコーヒー一杯奢れよ?」
いつものお節介。それが、三十代のサラリーマンとして生きた俺の、人生の結びの言葉になるとは夢にも思わなかった。
突進してきたトラックの、網膜を焼き潰すような強烈なヘッドライト。 衝突の直前、俺の思考は極限まで加速し、死への恐怖を追い越して一つの「疑問」に辿り着いた。
(……あんな重いものが、あんな速度で。あの速さをどうにか出来ればなぁ……)
≪個体名:ネフィ。要望を受理しました――≫
「え……?」
脳内に直接響く、無機質な声。それが全ての始まりだった。
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「……ネフィ、聞こえるかい? 無理をしなくていい。ゆっくり、僕の方へおいで」
穏やかで、陽だまりのように温かな少年の声。 重い瞼を持ち上げた俺の視界に飛び込んできたのは、芸術的なまでに精緻な彫刻が施された天蓋付きのベッドと、心配そうにこちらを覗き込む、まるで黄金のような金髪に端正な顔立ちの少年だった。
「……え、あ……え…?」
口をついて出たのは、自分のものとは思えない、鈴を転がしたような少女の声。混乱する俺の脳内に、あの「声」が再び割り込んできた。
≪意識の覚醒を確認。マスター、現在貴方は異世界への転生を完了し、ソル・グランデ公爵家の長女『ネフィ』として再構成されました。私はマスターの思考に同期する内蔵型演算体『ラプラスの悪魔』です。そして、目の前にいる少年は貴方の兄・カシエル・ソル・グランデです。≫
(……マジか。異世界転生……。ラノベ的展開……。……本当にあるのか。しかもラプラスの悪魔って……)
「さぁ、ネフィ。こっちへおいで。」
混乱する間もなく、俺――ネフィは、兄、カシエル・ソル・グランデに連れられ、冷徹な視線が渦巻く大広間へと立たされた。 「大いなる太陽(ソル・グランデ」の名を冠し、王国でも名高いこの家において、魔力は生存資格そのもの。一段高い椅子に座る父、レグルス・ソル・グランデは、我が子を測る目ではなく、磨きそこねた石ころを見るような目で私を見下ろした。
「始めよ。ソル・グランデの血に泥を塗る不浄など、我らには不要である」
父レグルスの冷徹な声。促されるまま、私は魔力の総量を映し出すという水晶球に手を触れた。
(……っておい急展開すぎるだろ!これどういう状況だよ!)
≪マスター、これは魔力総量を測定する儀式のようなものです。≫
(おい『ラプラスの悪魔』…、いや『ラプラス』! 俺、魔法なんて知らねえぞ! 何とかできないのか!)
≪問題ありません。マスターの魂には主権能『ルシフェル・レコード』が宿っています。……警告。現在、マスターの保持エネルギーをそのまま投影すれば、半径50kmが物理的に崩壊します。出力を理論上の最小値『1』に『ルシフェル・レコード』を使用し、書き換えますか?≫
(もちろんだ! 崩壊って…危険すぎるだろ!)
水晶の奥底で、一瞬だけ全ての光を飲み込むような「黒」が爆ぜ、水晶はひび割れを起こした。 だが、表示されたのは――埃のように微かな、たった一点の光だった。
「…………『1』だと?」
老魔術師の絶望したような声。広間は瞬時に、冷ややかな嘲笑へと変わった。
「ソル・グランデの血を引きながら、スライム…いや、それ以下の輝きだとは……」
「我が家の恥だ」
「太陽の下を歩く資格すらない」
父レグルスは失望すら見せず、ただ無機質な壁を見るかのような目で私を一瞥した。
「……連れて行け」
父が冷淡に背を向けたその時、私の前に、眩いばかりの光が割り込んだ。
「……父上。そして皆さま。少々、言葉が過ぎるのではないでしょうか」
凛とした、だが静かな怒りを孕んだ声。 兄・カシエルだった。彼は俺の小さな肩を、大きな手でしっかりと抱き寄せる。
「カシエル、分をわきまえよ。魔力なき者に居場所などないのが、我ら一族の厳然たる掟だ」
親族の一人が冷淡に言い放つが、カシエルは一歩も引かなかった。むしろ、その全身からあふれ出した黄金の魔力が、威圧するように周囲を圧倒する。
「……ソル・グランデの誇りとは、ただ強大な力を誇示することにあるのでしょうか。たかだか、水晶の示した数値一つで、幼い身内を言葉の刃でなぶる。それが、王国の双璧たる我ら一族の真に掲げるべき正義だとは、私には到底思えません」
「カシエル、貴様……!」
「私は、ソル・グランデ家に連なる者として、そしていつかこの家を背負う立場として、確信しております。真に太陽の名を冠する者は、その光で万物を慈しみ、弱き者を照らして守るべきであると。……いつの日か、私の力がその証明となるよう、この生涯を懸けて精進する所存です」
その声は決して荒げられてはいなかったが、並み居る大人たちを沈黙させるだけの気高き意志が宿っていた。 カシエルはそのまま俺の小さな手を引き、冷たい視線が渦巻く広間を堂々と後にした。
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庭園の隅にある東屋で、カシエルは俺の小さな両手を包み込むように握りしめた。
「怖かったね、ネフィ。ごめんよ、僕が力不足なばかりに。魔法なんか使えなくたっていい。これからは、僕が君の魔法になろう。君の盾になろう」
真っ直ぐに注がれる無償の愛。前世で誰かのフォローばかりしていた俺にとって、この温かさは戸惑うほどに心地よかった。
(……参ったな。最高の兄貴じゃないか)
脳内では『ラプラスの悪魔』が、世界の非効率な物理法則を淡々と解説し続けている。だが、それすらも心地よいBGMに思えるほど、俺は兄の温もりに安堵していた。
「ありがとう、お兄様。私……ちっとも悲しくないよ。お兄様がいてくれれば、それだけでいいの」
白銀の長い髪が風に舞う。 魔力が『1』の少女(俺)は、どこまでも穏やかな、そして圧倒的な「観測者」をその瑠璃色の瞳に宿していた。
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その頃、ソル・グランデ邸の最奥。 太陽を模した豪奢な意匠とは対照的に、月光のような静寂に包まれた「離れ」の自室。
そこには、一人の美しい女性が佇んでいた。 聖女としてこの家に嫁ぎ、強大な聖なる力を宿しながらも、一族の血筋ではないゆえに公の場へ出ることを許されない母、セレーネ・ソル・グランデである。
彼女は、先ほど大広間で起きた「微かな、けれど決定的な異変」を感じ取っていた。 魔力「1」と宣告された娘、ネフィ。 だが、セレーネが感じ取ったのは、無能の悲鳴などではない。
「……目覚めたのですね。あの子の中に眠っていた……世界の、外側の力が」
セレーネは、慈愛に満ちた、そして全てを悟ったような複雑な笑みを浮かべ、遠くネフィのいる方角を見つめた。 カシエルとネフィへの愛を胸の奥に秘めたまま、彼女はただ、静かに祈りを捧げる。
太陽の家の「影」に、あり得べからざる「真理」が産声を上げたことを、彼女だけは知っていた。
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