第32話 終話
「落ち着いた?」
ホテルに戻り、温かいコーヒーを入れて、ソファに並んで座りながら一緒に飲んでいると、冬香は、ようやく落ち着いた表情になり小さくうなずいた。
僕はその横顔を見ながら、さっき冬香がつぶやいた一言が気になってしまった。
「さっき、夏奈さんが今日失敗したのは冬香のせいだって言ってたけど・・・。」
その瞬間、冬香の顔がまた引き攣った
「あっ、ごめん変なこと言って・・・。気にしないで。」
冬香は小さく首を振ったけど、その後は何も答えなかった。
僕がコーヒーのお替わりを入れようとソファから腰を浮かせると、冬香は僕のズボンのすそを掴んだので、僕はまた腰を下ろした。
じっと冬香を見つめていると、目を伏せたままポツリとつぶやいた。
「何か月か前、夏奈さんと話した・・・。」
「えっ?どういうこと?」
「ある日、朝起きたらテーブルの上にメモが置いてあった。ウェブ会議のIDと日時が書いてあって、お話したいことがあるってメッセージも添えられてた。夏奈さんの名前で。おかしいなとは思ったけど、指定された時間にウェブ会議にアクセスしたら、夏奈さんがいた・・・。そこで夏奈さんから教えられたの。もう何年も夏奈さんと私が入れ替わっているって話。」
唐突な告白に僕は固唾を飲むしかできない。
「私も薄々おかしいとは思ってたんだ。ラーメンの大盛を食べに行ったり、河川敷を走ったり、夜にあんなことしたり・・・。普段の私なら絶対にしないのにどうしてなのかなって・・・。夏奈さんの説明で全部腑に落ちた。栄斗も、夏奈さんと二人して私に隠してたんだ・・・。」
「ごめん・・・。こんな話信じてもらえないかもしれないと思って・・・。」
冬香はまた小さく首を振った。
「最初は頭にきたし、栄斗も夏奈さんも許せないって思った。だけど、よく考えたら全部私の体で、私がしたことなんだし、別に栄斗が夏奈さんと会って、浮気してたわけじゃないんだってわかって、少し安心した。」
「ごめん。」
冬香は僕の方を見て一瞬だけ微笑むと、しかしまたすぐに悲しそうな顔に戻った。
「それで、夏奈さんに頼まれたの。あと少しだけ。せめてオリンピックまで入れ替わりを許して欲しいって。栄斗とのルーティーンがないと力が出せない、栄斗がいないとダメなんだって言ってた。」
「それを冬香が断ったから、入れ替わりがなくなったんだ?」
それだったら理解できる。そう思ったけど、冬香は顔に両手を当てて、「違う、違う」と言いながら首を振った。
「私はその時、別にいいよって答えた。だってその時はそう思ったから。だけど、夏奈さんとの通話を終えると、急に栄斗のことを必要としている夏奈さんが憎らしくなってきて・・・。それで夏奈さんに黙って私の方から入れ替わりをブロックした。ブロックし続けた。」
「そんなことできるのっ?」
驚きの声を発した僕に冬香は涙を溜めた瞳を向けた。
「夏奈さんは絶望的な気分で眠る時に私と入れ替わったって言ってた。じゃあ、私はその時どんな気持ちだったか思い出してみたら、いつも浮かれてた。栄斗がずっと一緒にいてくれるって約束してくれたり、明日は栄斗と会えるって思って待ちきれなくなったり・・・。だから、私も悲しい気持ちで眠れば入れ替わらないんじゃないかって・・・。」
「そしたらブロックできたんだ。」
冬香はうなずくと、瞳から大粒の涙をこぼし始めた。
「私のせいだ、私が意地悪をしたせいで、夏奈さんはずっと夢だったオリンピックの舞台で力を出せなかった・・・。夏奈さんは戸惑ってるはずだ。どうして入れ替われないのか、もう栄斗に会えないのかって・・・。」
僕は、そんな冬香の姿を愛しく想い、ただ強く抱きしめた。
「今さらの言い訳に聞こえるかもしれないけど。僕は冬香のことだけを愛している。夏奈に力を発揮してもらいたい気持ちはあるけど、それで冬香に辛い思いをして欲しくない。」
「ありがとう・・・。やっぱり栄斗のことが大好き。最後に一回だけだったら入れ替わってもいいと思ってたけど、もう遅いよね・・・。」
僕はその後もずっと冬香を抱きしめ、冬香はようやく落ち着いたのか、穏やかな表情で眠りについた。
-翌朝-
ダブルベッドの中で目を覚ますと、僕を見つめる二つの瞳が見えた。見慣れた冬香の瞳だ。
「ああ、おはよう。冬香。」
「フフッ・・・。違うよ。」
いたずらっぽく笑う表情を見て、僕は一瞬で悟った。
「やっと・・・やっと入れ替われた。」
冬香・・・ではなく冬香と入れ替わった夏奈は、僕の顔を両手で掴むと、そのまま唇を激しく吸われた。
その日、お昼まではベッドで過ごし、ブランチと昼食をルームサービスで済ませた後、夕方近くに二人で外へ散歩に出ることになった。
「競技のために色んな街行ったけど、この街好きだな~。」
夏奈は、あちこち見ながら、跳ねるように石畳の上を歩き続けている。そんな姿を見て、僕は心が締め付けられた。
「ごめん・・・。この間は余計なこと言って、そのせいで入れ替わりをブロックされて・・・。」
「ああ、別にいいよ。っていうか入れ替わりをブロックされてたんだ。そんなことできるんだ・・・なるほどね~。だったら冬香さんに直接話したのは失敗だったかな~。」
夏奈は、まったく気にしてないという風に軽く手を振った。
「ごめんなさい。そのせいで昨日は力を出し切れなくて・・・。」
僕がそう言いかけると、夏奈は「ハハッ」と声を上げて笑った。
「いいって。昨日は予選だしさ。それよりも私たちの夢は一緒にオリンピックに行くことだったでしょ。それが冬香さんと入れ替われなかったから、栄斗が来てくれているのかもわからなくて。でも、こうしてちゃんと決勝の前に一緒に過ごせているわけだし、それで十分だよ。」
ニコニコ笑っている夏奈の姿を見ていると、僕も自然と笑顔になった。
そのまま歩いていると、遠くにオリンピックスタジアムが見えて来た。
「すごいね~。昨日まではゆっくり見る余裕がなかったけど、あんな大きかったんだ~。」
「うん・・・。すごいね。夏奈すごい・・・。夢を叶えたんだ・・・。オリンピックに出るって夢を・・・。」
僕が少し涙ぐみながらポツリと漏らすと、夏奈は足を止めて、僕の方を真っすぐ見つめた。
さっきまではにこやかに微笑んでいた表情が一変し、真顔になっている。その瞳からは真剣な想いが伝わってくる。
「違うよ・・・。私の、私たちの夢は一緒にオリンピックに行くこと。そして、一緒に叶えたんだよ。だって栄斗がいなかったらこの場にはたどり着けなかったんだから。」
夏奈はそのまま僕に近づいて、僕の胸に額を付けた。
「ありがとう、栄斗。ずっと付いて来てくれて。私がひどい態度を取った後も、苦しくて仕方ない時も、プレッシャーに押しつぶされそうになった時もずっと支えてくれてありがとう。」
「ううん、僕こそありがとう。夏奈に付いて来てよかった・・・。」
ブリュッセルの旧市街地の広場、グラン・プラスの端。僕と夏奈は子供の頃からの夢を叶えた幸せを噛みしめ、静かに抱き締めあった。
◇
翌日の女子5000m競争決勝。夏奈は予選での不調が嘘だったかのような力強い走りを見せた。
終始集団をリードし、いつものように早いスパートを仕掛けて自分のペースでレースを進め、強豪のアフリカ勢との競り合いも制して、女子トラック競技で初めての金メダルを獲得した。
トラックの中央、表彰台の中央で金メダルの授与を受けている時、喜びを隠せず大興奮しながら抱き合っている森下先生と冬香を横目に見ながら、僕は寂しげな気持ちになった。
「これで僕たちの夢はゴール。あの夢のようなだった夏奈との関係も終わりか・・・。」
ふと表彰台を見ると、金メダルを首に掛けた夏奈は、意外にも冷静な表情で、少し寂しそうにも見えた。
もしかしたら夏奈も同じように考えているかもしれない。
それから10か月後、冬香は男女の双子を出産した。
授かり婚は少し恥ずかしかったけど婚約していたわけだし、幸せであることに変わりはない。
春香と秋治と名前を付けた。
夏奈はオリンピックでの金メダルを花道に引退した。今ではアメリカのコロラド州を拠点にして、子供たちを指導しているらしい。
◇
あのブリュッセルでのオリンピックからもう10年。
少し汗ばむ陽気の土曜日、僕は妻子ともに近所の公園に遊びに来ていた。近所の公園とは言っても、広大な敷地に野球場があったり、緑の芝生が広がっていたりする。郊外とはいえ、街のど真ん中にこんな公園があるんだから、やっぱり東京ってすごい。
少しくたびれたのでベンチに座って休むことにした。
視線の向こうでは、春香と秋治が勢いよく走り回っている。春香と秋治ももう小学2年生。
来週の土曜日に開催される運動会では徒競走を走ると聞いている。
そのため、どうやらママに走り方を教えてもらっているようだ。
両腕を強く振って、前傾姿勢で背筋を伸ばし、歩幅を大きくするように言われているのかな?
でも、春香も秋治もその走り方がしっくりこないようだ。
すぐに元の子供らしいちょこまかした走り方に戻ってしまい、腰に手を当てたママに厳しく指導されている。
「パパ~ッ、やっぱりパパが教えてよ。陸上部だったんでしょ~?」
「ママの教え方、全然わかんないよ~。」
春香と秋治が僕の方へ走って来た。二人とも口を尖らせて不満そうだ。
その後ろからママも走って追いかけて来た。
「こら~っ!言っとくけど、パパよりもママの方がずっと速く走る方法知ってるんだからね!」
「うそだ~っ!ママ走るの遅いじゃん。」
「パパのが絶対速いよ~!」
彼女は子供たちの非難の声に少しひるんだけど、すぐにニヤリと笑った。
「なに言ってんの!ママはオリンピックで金メダル取ったんだからね!この体じゃなかったらパパよりずっと速いよ!」
自信たっぷりな態度だけど、春香と秋治には不審そうな視線を向けられている。
「ねえ、本当なの?」
春香が僕の方を振り向いた。その目は「ママが嘘ついた」と僕に言いつけようとしているように見える。
「本当だよ。ママは、子供の頃から僕よりもずっと足が速くて、世界選手権で銀メダルを取って、オリンピックでは金メダルを取ったんだよ。」
僕の言葉に目を丸くして驚く春香と秋治を横目に、冬香・・・いや夏奈は、満足そうににっこりと笑った。
「じゃあ、栄斗も一緒に走ろうぜ!」
ランニングクラブで出会った頃から見慣れた、いたずらっぽいその笑顔にニッコリと笑い返し、僕はベンチから腰を上げた。




