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第31話 後悔

「森下先生、ご無沙汰しております。」


「おおっ栄斗!久しぶりだな!」


女子5000m競走予選が行われるこの日、オリンピックスタジアムの前で待ち合わせた相手は、森下小夜先生。

僕が高校時代に所属していた陸上部の顧問の先生で、その後、夏奈が所属していた大西文化大学女子陸上部の監督に転身した。


相変わらずというか、夏奈らしいというか、夏奈は、オリンピックに恩師である森下先生を招待することなど、思いもしなかったらしい。


だから、僕から森下先生に一緒に夏奈の雄姿を見るため現地へ行きましょうと声を掛けて、今日の予選と明後日の決勝を一緒に観戦することになったのだ。


「チケットも取ってくれてありがとうな。苦労しただろう!それにしても、夏奈!チケットくらい手配してくれてもいいのに・・・。それくらいの面倒は見たつもりだけど。」


「ハハッ・・・。」

夏奈の不義理さを憤る森下先生に対し、僕は笑ってごまかすしかできない。

実は僕が持っているチケットは、夏奈に手配してもらったものだ。

だけど、後ろにいる冬香の視線が怖くて、そんなこと言えない。

冬香には、ここ何年も夏奈に会っていないと説明してるし、夏奈にチケットを手配してもらったなんて聞かれたら疑惑が再燃してしまう。


ごめん!夏奈。後で誤解を解いておくから。


「そういえば・・・そちらの方を紹介してもらえる?その方も夏奈の関係者?」


森下先生は、僕の後方で少し離れて立っている冬香に視線を向けた。


「ああ、はい。彼女は、鬼怒川冬香さん、僕の婚約者です。」


僕がそう言った瞬間、森下先生は目を見開き、「えっ?」と小さくつぶやいた後、僕の腕を引いて顔を近づけ、声を潜めた。


「ちょっと待て・・・。お前、ずっと夏奈と付き合ってたんじゃないのか?いつ別れたんだ?」


「いえ・・・。ずっと誤解されてたみたいですけど、僕は夏奈と付き合ってたことは一度もありませんよ。子どもの頃からずっと、仲の良い友達です。」


「うそつけっ!あの距離感で付き合ってないってことないだろ!しかも付き合ってないのに、あんなに夏奈に献身してたのか?」


「ええ、まあそう言われても事実として付き合っていたことはなくて・・・。」


僕の言葉に森下先生は絶句してしまった。


「まあ、その話はいいじゃないですか。まずは、スタジアムに入りましょうよ。」


「私がおかしいのか?恋愛経験がないからわからんけど・・・。それとも私が時代の変化についていけていないだけなのか・・・?」


納得できないのか首をかしげる森下先生と、憮然とした表情のまま佇む冬香を引っ張るようにしてスタジアムの入口に向かった。



「すごいな・・・。こんな大観衆の前で走るんだな・・・。」


スタジアムに入ると、森下先生は頬を紅潮させ、感極まったような表情でフィールドや観客席を見回している。


森下先生は、選手としてオリンピックを目指していたが、この舞台に辿り着くことはできなかった。


高校や大学で選手を育成するようになってから20年以上になるけど、オリンピックに出場した教え子は夏奈が初めてだ。


陸上指導者としての集大成と言ってもいい今日という日を迎えられて、感無量になる気持ちはとてもよく理解できた。本当に森下先生に声を掛けてよかった。


ふと冬香の方に目を向けると、冬香は無表情に黙ったままじっとフィールドを見つめている。

その横顔からは冬香が何を思っているのかわからない。このオリンピックという世界が注目するスポーツの祭典の場にいるのに、まったく興奮を見せず、むしろ気持ちが沈んでいる。何かあったんだろうか?


僕は冬香のことが少し心配にはなったけど、徐々にそんな余裕はなくなった。

夏奈が出場する女子5000m予選の時間が近づくにつれて胸が高鳴り、落ち着きを失ってしまったからだ。


「おい、栄斗、落ち着けよ。不調の時の夏奈みたいになってるぞ。」


落ち着きなく、キョロキョロと視線を惑わせたり、貧乏ゆすりしたり、立ったり座ったりを繰り返す僕が目に余ったのか、森下先生は僕の背中をトントンと叩き、落ち着いた声で僕を諭した。


「すみません・・・。」


「まあ、夏奈は最近ではめったにそんな感じになることはないけどな・・・。」


そうだ森下先生の言う通りだ。大丈夫。

僕は自分で自分に言い聞かせた。


今回はいつものルーティーンができていないことは不安要素ではある。

だけど、夏奈は、今や世界選手権でも銀メダルを獲得するような超一流選手。きっと僕とのルーティーンとは別の方法で競技に集中しているはずだ。


それに今日の予選は組で8位までに入れば決勝に進める。組メンバーの中では夏奈の持ちタイムが一番早いし、不安になる要素なんて何もない。


そんなことをグルグル思っているうちに、女子5000m競争の時間が来てしまった。


僕の胸の高鳴りも最高潮になり、吐き気まで催してきた。


「夏奈はどこかな・・・?あっ、あれか。ひときわ小さいからすぐわかるな・・・。」


僕とは対照的に落ち着いた口調の森下先生の言葉にトラックの方を見ると、そこには夏奈の姿があった。直接見るのは何年ぶりだろう・・・。


「うん?あれっ?夏奈、落ち着きを失ってないか?」


森下先生の声に少し心配そうな色が混じっている。確かに夏奈はせわしなくつま先でグラウンドを蹴ったり、視線を惑わせてスタジアムの観客席を見回したりしている。


「高校の時、栄斗がいなくなってからの夏奈はいつもあんな感じだった。大丈夫だろうか・・・?」


「大丈夫ですよ。あの頃とは違います。」


僕はそう答えながらも不安になった。


僕も夏奈との付き合いが長いから遠目でもわかる。今日の夏奈は相当ナーバスになっている。


せめて、僕がここにいることを知らせた方がいいかもしれない。

僕は大声で夏奈の声を呼んで大きく手を振ろうとしたけど、目の端に、能面のような表情で微動だにしない冬香の姿が見えた。


そんなことをすると冬香に疑われるかもしれない。

僕は上げかけた手を降ろし。

心の中で祈るしかなかった。


ただ、僕の祈りは届かなかった。


夏奈はスタートで出遅れ、集団の中でフィジカルの強い欧米選手やアフリカの選手にさんざん圧をかけられてバランスを崩し、集団に飲み込まれたまま得意のスパートを掛けることすらできず、夏奈よりも持ちタイムが悪いはずの選手たちの後塵を拝してゴールした。


ゴールした夏奈は、膝に手をついて息を切らせているけど、まだまだ余力がありそうな様子。

言い換えれば力を使い切らないままレースを終えてしまったことになる。


「9位か・・・。」


森下先生の言葉に電光掲示板を見ると、上から9番目に『Natsuna Yahata』と表示されている。組8位までが決勝に進出できる。9番目ということは・・・。


「タイムは悪くないから、タイム上位で拾われるかもしれない。だけどあの調子では決勝に進出できても・・・。」


決勝進出の条件は、予選の組で8位以内になること。それから各組9位以下の中でタイムが上位4位以内に入っていること。


夏奈は、凡走してしまったとはいえ、15分を切っているので決勝には進出できるだろう。

だけど、森下先生が言う通り、このままの調子で決勝を走っても入賞すらおぼつかない。


森下先生は、他に約束があるらしく「明後日の決勝もよろしくな」と言って先に席を立った。


「じゃあ、僕たちもホテルに帰ろうか?」


冬香の方に目を遣ると冬香は身を固くしながら体を震わせていた。顔も真っ青だ。


「どうしたの?体の具合が悪いの?」


慌てて冬香の顔を覗き込むと、冬香は小さく首を振った。


「ごめんなさい・・・。夏奈さんが失敗しちゃったの、私のせいだ・・・。」


冬香はそのまま顔に両手を当て嗚咽を漏らし始めた。僕は何が何だかわからず、ただ冬香の肩を抱くしかできなかった。


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