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第30話 五輪

この夏、僕は生まれて初めてベルギーのブリュッセル空港に降り立った。


仕事が忙しいにもかかわらず、白い眼で見られながら夏休みを5日も取って、日本からはるか離れたこの地に来たのは理由がある。

この地で開かれる夏季オリンピック。女子陸上5000m競走に幼馴染みの夏奈が出場するのだ。


しかしまさか、あの夏奈が、オリンピックに出場するという子供の頃からの夢を本当に叶えるとは思わなかった。


僕の脳裏に、これまでの夏奈とともに苦労してきた日々が走馬灯のように流れ、思わず空港のロビーで感極まってしまった。


「ちょっと~。栄斗、ぼんやりしないでよ~。早くタクシー乗り場探してよ~。」


「ああ、ごめんごめん。」


冬香の不満げな声で、すぐに我に返り、一人で歩き出してしまった冬香を追いかける。


このオリンピックにはもともとは一人で来るつもりで準備していた。


だけど数ヶ月前、冬香が絶対に一緒に行くと言い出したので、急遽二人で旅行することになったのだ。


そもそも、冬香が一緒にオリンピックを観に行きたいと言った時は驚いた。

冬香は大相撲やプロレスの大ファンだけど陸上にはあまり関心がない。


むしろ最近では陸上を嫌っていて、僕が陸上の中継をテレビで見ている時には、不機嫌になってさっと席を立ってしまうくらいだ。


しかも冬香は飛行機が大の苦手で、北海道の実家に帰る時も新幹線と電車を乗り継いでいるくらい。

それなのに直行便で14時間もかかるブリュッセルに付いて来てくれるなんて思わなかった。

思わず、黙って夏奈と入れ替わっているんじゃないかと疑ってしまったくらいだ。


でも、正直言えば冬香が来てくれたことはありがたい。これで夏奈が、いつ冬香と入れ替わっても大丈夫だ。


実はずっと気になっていることがある。


ここ数か月、夏奈が冬香と入れ替わらず、僕は夏奈と一切話せていないのだ。


いったい何があったんだろう?

もしかしたらもう僕は必要なくなったのだろうか?


一抹の寂しさを感じながらも、オリンピック本番の前には必ず入れ替わるはずだと確信していた。


だって、オリンピックに一緒に行くっていうのは、子どもの頃からの二人の約束だから・・・。



「わぁ~っ!おっきいね~!!」


「すご~い!!」


市街地のホテルに向かうタクシーの中から、新しく建設されたオリンピックスタジアムの雄姿が見えた。


「明日の夜にあそこで観戦するんだよね。すごいな~。」


無邪気に驚きの表情を見せる姿を見ると、これは間違いなく冬香だと確信できる。


いつもの夏奈の競技前のルーティーンに従えば、競技の前日には夏奈が冬香と入れ替わるはず。


しかし、まだ冬香のままということは、オリンピック本番でも入れ替わらないつもりなのだろうか。


「夏奈・・・。」


「えっ?なんて?」


ぼんやりとしながらつぶやくと、冬香が目を見開いて険しい視線を僕に向けてきた。


「あっ、いや、夏奈さんがあそこで走るんだ~って言おうとして、途中で喉が詰まっちゃって…。」


「ふ~ん・・・。」


冬香は不機嫌そうな表情のまま、車窓の外に視線を移した。


何とかごまかせただろうか?

僕はまだドキドキしている。


冬香が、僕の口から出る夏奈の話題に過剰に反応するには理由がある。


あれは数か月前のことだ・・・。



1年前の夏、夏奈は、メルボルンで行われた世界陸上女子5000m競争で銀メダルを獲得した。


夏奈は、もとより美貌の陸上選手として、知る人ぞ知る存在だったけど、この銀メダルで一躍、オリンピックの金メダル候補となり、一気に注目を集めた。しかも、テレビのバラエティー番組に呼ばれた時、その奔放な発言が大いに受けて人気が爆発した。今や手が届かないスターと言っても過言ではない。


ただ、それはいいことばかりじゃない。


夏奈は、世界選手権の時、レース前に解説の水野明美さんに『小さい頃からずっと支えてくれている彼氏がいる』と話し、ノンデリの水野さんが、何の配慮もせずにそれをテレビで紹介した。


夏奈が有名になるとこの発言が再注目された。


今をときめく美しすぎる陸上スター選手の彼氏は、いったいどんな人なのか?


世間の関心を敏感に察知したパパラッチが夏奈の周囲を調べたけど、まったくそんな男の影は見つからなかった。


そこであきらめてくれればよかったのに、ネットでは夏奈の過去にまで遡って調べようとする奴が現れた。


そこに大学卒業後、あまり影響力のない美容系インフルエンサーとして活躍中の香織が乗っかり、インスタに僕と夏奈が映ってる中学時代、そして高校時代の写真を立て続けに投稿し、『大親友の夏奈とその夫くん』みたいなキャプションを付けた。


一応、投稿では僕の顔は隠されていた。だけど、それをきっかけに僕が特定されるまであっという間だった。


僕が競技前に夏奈と抱き合っていたという証言も掲示板に投稿された。


『神聖なインターハイの会場でキスしてたンゴ』というコメントも投稿された。


いつの間にか、ネットの世界では、僕こと加嶋栄斗が夏奈の昔からの彼氏であるということで確定してしまった。


そのせいで僕のインスタやXにもひっきりなしにコメントやDMが届くようになった。


僕は、SNSのアカウントをすべて削除しひたすら嵐が去るのを待つことにしたけど、この騒ぎを冬香が気づかないはずがなかった。


「どういうこと?二股かけてたの?」


普段はおっとりして優しい冬香が、眉に皺を寄せ険しい顔で詰問してきた。


「幼馴染みだから中学、高校と仲が良かったけど付き合ってたなんてことないし、大学の頃にちょっと練習に付き合ったことあるけど、大西文化大の陸上部に入ってからは連絡を取ったこともないくらいだよ。ほら・・・。」


僕はLINEも通話履歴も全部見せて、夏奈と一切連絡を取ってないことを証明しようとした。


しかし、この時、ネット上の風評被害のためにSNSのアカウントをすべて消していたことが裏目に出た。


SNSのアカウントを通じて連絡を取っていたから証拠を消したんじゃないか?


そう疑ったようで、冬香の中での二股疑惑は晴れなかった。


夏奈とずっと連絡を取ってないことは噓じゃない。ただ、ずっと前から夏奈と冬香が頻繁に入れ替わっているだけだ。


そんな荒唐無稽な説明をするわけにはいかない・・・。


――


「・・・ということがあったんだけど、何とかしてもらえないかな?」


思い余った僕は、入れ替わった時に夏奈に相談した。


「ああ、そうなんだ。私はネットとか全然見ないから知らんかった。」


夏奈は何でもないことのように平気な顔をしているけど、僕はとても平静ではいられない。


「僕が困るんだよ~。こんな噂が残ってたら冬香に捨てられちゃう・・・。」


「まあ、ある意味、二股かけてるのは事実だからね。」


しれっと他人事のように平然と言い放つ夏奈の姿にだんだんと怒りが湧いてきた。こいつ、もしかしてわざとやってるんじゃないか?僕と冬香を引き裂くために・・・。


「あのさっ!!もっとまじめに考えてよ!元はと言えば、夏奈のせいなんだからね!!」


突然厳しい口調で声を張り上げた僕に、夏奈はビクッと肩を震わせる。


「いや、そんな風に言わなくても・・・。私だってオリンピックに一緒に行くっていう栄斗との約束を守るために色々考えて・・・でも、冬香さんと栄斗の仲を引き裂かないために、こうやって入れ替わる方法がベストだって考えてやってるんだから・・・。」


「そうだとしてもテレビで言う必要ないじゃん!!」


「いや、それは・・・。水野さんに上手く誘導されちゃって・・・。」


夏奈はしょぼんと肩を落とす。だけどそれぐらいじゃ僕の怒りも収まらない。


「そもそも!もうオリンピックに出場決まったんだから入れ替わる必要もないじゃん!!」


「いや・・・栄斗と一緒にオリンピックに行くって約束・・・。」


「とにかく!冬香の疑念が晴らせないなら、もうこんな関係続けられないから!!」


「っ!!は~い・・・。」


夏奈は不満げな表情はしたけど、了解はしてくれたようだ。


ただ、その後、夏奈が何かをしてくれた気配はなかった。

夏奈の長年の恋人は僕であるというネット上の風評は健在だ。


冬香も疑念を持ったままで、僕と会う時はいつも不機嫌そう。だけど、あからさまに疑惑の目を向けたり、夏奈との噂について聞いて来ることはなくなった。


「いったいどうなっているんだ?早くネット上の噂を否定するとかしてよ!」と夏奈に催促したかったけど、それはできなかった。


それから後、夏奈と冬香が入れ替わることが一切なくなったからだ。


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