第29話 後日
僕は大学を卒業し大手金融機関に就職した。
仕事は思っていたよりも多忙でハード。
だから毎日、夜遅くまで働いている。
もうジョギングする余裕すらない。
だけど今日に限っては、何が何でも早く帰らなきゃいけない。
夏奈がオーストラリアのメルボルンで行われている陸上の世界選手権に出場し、しかも今夜行われる5000m決勝に進出したのだ。
日本人女子で5000m決勝に進出するのは10年ぶりの快挙である。
もし3位以内に入ったら史上初だ。
だから、いつも当たり前のように残業を強いてくる上司を強引に振り切って定時で帰宅したのだ。
「あ~、おかえり~。早いね~。」
家に着くと、冬香がダイニングテーブルでテレビを見ながら待っていた。
どうやら昨日泊まった後、そのまま家に帰らなかったらしい。
最近では珍しいことじゃない。
「始まった?」
「まだだよ。でも、なんか夏奈さんの過去のエピソードが紹介されてるみたい。」
スーツを着替えないまま、座ってテレビに見入ると、ちょうど夏奈のこれまでの軌跡が紹介されているところだった。
高校2年でインターハイ3位。
しかしその後の長期スランプ。思うような成績を残せず、日本陸連の強化選手からも外れてしまう。
しかし、大学で森下先生の指導を受けて復活。
その年に5000mでの自己記録を大幅に更新する15分21秒を記録すると、日本選手権でも決勝に進出。
翌年、日本選手権とインカレで優勝し、強化選手に復帰。
去年はアジア選手権でも優勝し、来年のオリンピックでの活躍も期待されている。
そんなアナウンサーの紹介を聞いていると、これまでの夏奈と僕の苦労が思い出されて目頭が熱くなってきた。
僕は夏奈の競技を応援に行ったことはない。だけどいつもテレビや配信を通じて応援している。
「八幡さんはもともとメンタル面が弱くて、それが一時の不振の原因だったんですけど、今では完全に克服して強い選手になりましたよね~。」
解説の元オリンピックマラソン代表である水野明美さんが、独特の早口で語り、アナウンサーが調子を合わせている。
「なるほど~。メンタル面の課題を克服できた理由はいったいなんだったんでしょうか?」
「ええ、八幡さんに聞いてみたところ、小さい頃からずっと一緒にいてくれる彼氏が心の支えになってるみたいですよ。」
「あっ、そうですか。八幡選手と言えば高校時代から指導されている森下先生ですので、そのおかげもあるかもしれません。」
解説の水野さんは、独自に取材した選手のプライバシーに踏み込んだエピソードを突然アドリブでぶっこんでくることで有名だ。
おそらく台本とは違ったのだろう。
一瞬だけ戸惑ったアナウンサーが強引に森下先生の話に戻す。
「へ~っ・・・夏奈さんって、ずっと彼氏いたんだ~。」
冬香がお茶を飲みながらつぶやいている。
冬香の表情も口調も、特に含むところはないみたいだけど、僕は冬香の方を見られない。
「でもすごいよね~。少しの間だけど一緒に練習してたんだし。こんな有名になるんだったら、もっと仲良くしておけばよかったかな~。」
「うん・・・。」
冬香は優しく微笑みながら僕の方に視線を移してきた。だけど僕は目を合わせることはできない。
「あっ、始まるみたいだよ。」
僕の言葉に冬香はまたテレビに視線を戻す。
「いよいよ選手が入場してきました。さあ、八幡夏奈。この世界選手権決勝の舞台でどんな活躍を見せてくれるのか!!」
アナウンサーの盛り上げるような口調に、解説の水野さんが独特の口調で被せる。
「そういえば、八幡選手。大舞台で力を発揮するためのルーティーンがあるそうですよ。」
「なるほど。どんなルーティーンなんでしょうか?」
「実は八幡選手は寝ることが大好きみたいで。ここ一番の前日には、たくさん睡眠時間を取るらしいんです。眠りながら夢を楽しむのが八幡選手のルーティーンになってるみたいですよ~。」
「なるほど~。睡眠が八幡選手の強さの秘密なんですね。」
これは台本通りなのか、今度はアナウンサーも落ち着いて解説の水野さんとやり取りを続けている。
「へ~っ・・・やっぱ睡眠って大切なんだね~。私たち昨日も夜更かししちゃったし、これからは気を付けないとね。」
冬香が軽くあくびをしながら、軽く僕に微笑みかけてきた。
確かに昨日、いや今朝の未明までずっと二人で起きていたから眠くて仕方ない・・・。
僕はあいまいに微笑み返すしかできない。
「そういえば、八幡選手に、昨日どんな夢を見たか聞いてみたんです。」
「ほうほう・・・。」
テレビの中では、アナウンサーと解説の水野さんがやり取りを続けているようだ。
「そしたら大好きな彼氏とイチャイチャする夢を見たんですって。しかも昨日だけじゃなくて大事なレースの前は、いつも同じ夢を見るみたいで。それが八幡選手の強さの秘訣かもしれませんね。」
「・・・・なるほど、それでは選手の様子を見てみましょう。」
テレビの中でアナウンサーが慌てて話を逸らそうとしている。
最近では、水野さんがテレビで選手のプライバシーに踏み込んだ話をぶっちゃけることについて、テレビ局にクレームが殺到しているとも聞いている。
僕は、テレビ越しに目を伏せて顔を赤らめるしかない。まさかテレビで話すなんて・・・。
僕の頭の中では、4年前、夏奈が驚異的な記録を出したあの大西文化大学グラウンドで行われた記録会の前日を思い出していた。
――
「もしかしたら夏奈は明日来ないかもしれない。もう一度連絡して説得しないと・・・。」
僕は自宅のベッドに寝ころびながら、ずっとスマホを操作してるけど、なぜか夏奈には電話がつながらない。
何通もメールを送ってるけど、いっこうに既読にならない。
またブロックされてしまったんだろうか・・・。
こうなったら直接家に行った方がいいんだろうか。
そう思ってベッドから身体を起こすと、インターフォンが鳴った。
玄関の扉を開けると、そこには・・・冬香がいた。
「あれっ?どうしたの?今日は別に約束は・・・。」
彼女は、戸惑う僕に構わず、僕をぐいぐいと押し込むように玄関の中に入って来て、そのまま僕の腰に手を回しギュッと締め付けてきた。
その後ろでは玄関の扉がバタンと閉まる。
「もう・・・これでいい。一緒にいられるならこれでいい。」
ハッとして見下ろすと、ちょうど上目遣いに見上げた彼女の瞳が目に入った。その瞳には力強い決意の色が見える。
「・・・夏奈?」
僕の言葉に答えず、そのまま僕の胸に顔をうずめてくる。
「栄斗がずっと一緒でなくてもいい。だけど絶望した時、辛い時、こうやって入れ替わるから、夏奈として会ってくれればいい。そうすれば一人でも走れる気がする・・・。」
「えっ・・・それは・・・。」
僕が言葉を濁すと、また夏奈が僕を見上げてきた。今度は僕を睨みつけている。
「約束だよね。夏奈と入れ替わってる時は、夏奈として愛してくれるって。ずっと私の練習をサポートして欲しいとか、一緒に大西文化大に行って欲しいとか、そんなわがまま言わない。だから、これだけはお願い。それで一緒にオリンピック行って欲しい・・・。」
この時、毅然と断れるほど僕が強ければよかったかもしれない。
だけど僕は弱かった。
そうすれば、また力強く走る夏奈を見ることができるかもしれない。
ここで断れば、また夏奈と絶交することになるかもしれない。
・・・これに応じても冬香は気が付かない。だから誰も傷つかない・・・。
気づけば、そのまま入れ替わった彼女と唇を重ね、それから交わり、夏奈として愛していた。
これが、その後、何年も僕が苦しめられる苦悩の始まりであると知らないまま。
それから夏奈は、大事な競技や記録の前日に、決まって冬香と入れ替わり、僕と会い、僕が愛を行動で示すのが新しいルーティーンになった。
日本選手権の前も、全日本学生女子駅伝の前も、インカレの前も。
そのうち、調整用の小さな競技会の前や、ちょっと憂鬱なポイント練習の前日ですら冬香と入れ替わるようになった。
下手したら週に2、3回くらいのペースで入れ替わっていたと思う。
昨日もそうだ。
仕事で遅くなったのに、夏奈と入れ替わった冬香が部屋で待っていて、そのまま明け方近くまで一緒にベッドで過ごすことになった。
「あっ、夏奈さん映るよ!」
ちょうどテレビでは、選手を一人ずつアップで映した選手紹介が行われている。
夏奈が映ると、カメラに向かって笑顔で手を振りながら、口を大きく動かして何かを言っていた。
選手の声はカメラ越しには聞こえない。だけど、夏奈の口の動きで、僕には何を言っているのかはっきりわかった。
「栄斗、これからもずっと一緒だよ。オリンピックも、その後もずっと!!」
僕は背中におぞけを感じ、思わず戦慄した。
これからもずっと一緒・・・。
僕は一生背負わなければならない重荷を背負ってしまったのかもしれない。
スタートの号砲が鳴り、走り出した夏奈を冬香と一緒に応援しながら、胸にはずしりとした何かを感じていた。




