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第28話 成長

6月5日土曜日。大西文化大学陸上部グラウンド。


今日、このグラウンドで、陸連公認となる記録会が開かれている。

夏奈が日本選手権に出場するためのラストチャンスとなる記録会だ。


しかし、鈍色の雲からはパラパラと断続的に雨が落ちて来て、走路が濡れている。

しかも雨なのに気温が高く蒸し暑い。

風こそないけど、陸上の長距離を走るコンディションとしては最悪だ。


僕が一人でグラウンドに来た頃には、もう既に記録会が始まっていた。


夏奈は来ているだろうか?来ていたとして調子はどうだろうか?


一昨日、多摩川のランニングコースで別れて以来、夏奈の姿を見ていない。

僕から連絡しなきゃと思っていたけど、電話やメールをすることはできなかった。夏奈からも連絡はなかった。

だけど、僕は確信している。夏奈はきっと来るはずだ。


だから、僕は僕の仕事を果たすだけ。

最後の仕事を・・・。


「こんにちは!!」


トラックから少し離れた場所で、険しい表情で一人佇むその人に声を掛けた。腹の底から声を出して。


「おうっ!久しぶり・・・でもないな。ここしばらく、ずっとうちに顔を出してたからな。」


その人、大西文化大学の陸上部監督の森下小夜先生は、トラックからまったく目を離さず、僕の方を一瞥もしなかったけど、ニヤリと笑いながら答えてくれた。


「今日は夏奈の世話をしなくていいのか?」


「もう彼女は一人で大丈夫ですから・・・」


「そうか・・・。」


ちょうどトラックでは大西文化大学の陸上部員が参加する組がスタートしたようだった。

森下先生は腕組みをしながら、「もっと前につけろ!」とか、「まだまだ粘れるぞ!」とか小さくつぶやいている。


そういえば森下先生は、高校陸上部の顧問だった時からずっとこうだった。

教え子が走る時は声を張り上げず、じっと静かに、冷静な目で見守ってくれていた。まるで思索する哲学者のように。


そんな森下先生の思索を邪魔するわけにはいかないので、僕も気配を消してじっと佇む。


「先生・・・。夏奈は成長しました。もう一人でも大丈夫です。」


ちょうど教え子が走り終わったところを見届け、森下先生が少しほっとした表情をしたので、僕はタイミングを見計らって話しかけた。


「ずっと言ってるだろ。それは私が判断する。夏奈の走りを見て、それから夏奈と話してみてからだ・・・。」


ここ2週間、僕は森下先生の下を何度も訪れて、夏奈がどれだけ成長したのか伝え、陸上部に受け入れてくれるようお願いし続けていた。

その結果、先生の態度は軟化し、夏奈と話して大丈夫そうなら仮入部を認めてもいいと言ってくれるようになった。


だから問題は夏奈だ・・・。

果たして、森下先生に精神的に成長した姿を見せて、納得させられるだろうか・・・。


「おい、夏奈は次の組じゃないか?行って、いつものルーティーンはやらなくていいのか?」


森下先生は唇の端を歪めて皮肉っぽく笑った。だけど、僕はその場を動かない。


「大丈夫です。もう夏奈は僕がいなくても実力を出し切れます。」


確信を持った表情で微笑み返すと、森下先生は少したじろいだ。


「じゃあ、夏奈の成長ぶりを一緒に見せてもらおうじゃないか。」


腕組みをした森下先生の横に並びながら、その時を待つと、やがて誘導に従って選手たちがトラックのスタート地点に集まってきた様子が見えた。

僕たちが立っている場所からはちょうどトラックを挟んで反対側にいるので、選手たちの姿は遠目にしか見えない。


でも、僕はすぐに見覚えのある茶色い寝癖が立った頭を見つけた。夏奈はあそこだ!


「おいおい、夏奈のやつ、落ち着きがないぞ。ずっと周りをキョロキョロ見回してる。あれは悪い時の夏奈の癖だ。無理してルーティーンをしなかった影響が出てるんじゃないか?」


森下先生が意地悪そうに横目で見て来る。


僕はそれに答えず、心の中できっと大丈夫だと繰り返した。


パンッ!


号砲が鳴って選手が一斉に走り出した。


夏奈はどこだ?

探そうとしたら、すぐに見つかった。

夏奈は集団の先頭。ペースメーカーのすぐ後ろに付けていた。


「ちょっと前に出過ぎじゃないか?夏奈の持ちタイムからしたら、少し速すぎるだろ。」


この組のペースメーカーは15分30秒に設定されている。

夏奈の自己ベストは15分38秒だから、確かに少しペースが速いかもしれない。

僕は思わず汗で濡れた手を握り締める。


「夏奈が不安定になった時はいつもこうだ。入れ込み過ぎて、自分のペース設定を忘れてスタートから飛ばしてしまう。途中から速すぎると焦り出して、さらにペースが乱れて、最後はグダグダになる。何度見たことか・・・。」


腕組みをしたままの森下先生は呆れたような口調だ。だけど、僕の目はトラックを走る夏奈に釘付けで、森下先生の表情を見る余裕はない。


徐々に集団が縦長に伸びて来た。

ペースメーカーのすぐ後ろには夏奈。

その外側には、夏奈と並走するように実業団の選手が走っている。

夏奈の後ろにも3名の選手が付けているがいずれも実業団の選手のようだ。

この5名で先頭集団を形成し、後続を引き離している。


頑張れ・・・頑張れ・・・。


心の中で祈っているとちょうど5周目、2000mを過ぎたあたりだろうか。

徐々に夏奈が後ろに下がり始めた。


「・・・ほら、焦り出したころかな・・・。」


森下先生はそうつぶやいたけど、僕はそうは思わなかった。

夏奈の目はまだ生きている。その表情にも余裕を感じられる。


夏奈は半周ほどペースを落として、順位を下げたけど、先頭集団の一番後ろまで来ると、走りが安定し、その位置をキープした。


おそらくこれは夏奈の作戦なのだろう。

ずっとペースメーカーのすぐ後ろで周囲からプレッシャーを受け続けるよりも、先頭集団の後ろに付けて力をためる方がいいという。


「驚いたな・・・。夏奈らしくないクレバーなレース運びだ。」


森下先生がそうつぶやくころには、もう3000mを通過していた。

夏奈はずっと先頭集団の最後尾をキープしている。


そのまま、そのまま・・・。


僕は胸の前で手を組みひたすら祈った。このペースを維持できれば、最後にちょっとペースが落ちても、15分36秒を切れる。そしたら日本選手権に出られる。


そんな僕の祈りが届いたのか、夏奈は我慢して先頭集団の最後尾を維持し、周回を重ねた。

そして、そのまま残り2周半、残り900m弱となったところだった。


「おい・・・おいおい・・・おいおいおい・・・!」


隣の森下先生のつぶやきに驚きの色が混じっている。

夏奈が外側のコースに移り、前を走る選手を追い抜き始めたのだ。

1人、2人、3人、4人・・・。

ついにはペースメーカーも追い抜いてしまった。


「スパートかけるにしても早すぎるだろ!あんなんで最後まで持つのか?」


森下先生が僕の肩を掴んで揺さぶってきた。

僕は何とも答えられない。

さすがに早すぎる。僕だって夏奈が何を考えているのかわからない。

僕にできるのは、ただ声援を送ることだけだ。


残り1周半、夏奈の表情はさすがに苦しそうだ。だけどスピードは緩めない。


最終周回の鐘が鳴らされた。

夏奈は苦しそうだし、後ろから実業団の選手も迫ってくる。


「粘れ~、粘れ夏奈~!!根性見せるところだぞ~!」


隣の森下先生が手でメガホンを作って大声を出している。

こんな大声を出した姿は初めて見た。僕も負けじと声を張り上げる。


残り100m。夏奈の顔は明らかに苦しそうで真っ赤だ。

酸欠になっているかもしれない。

だけど必死で手足を動かしている。


「あと少し!あと少しだ~!」


夏奈がスパートをかけてから、ずっと大声を出し続け、すっかり枯れてしまった喉を振り絞り、最後にしゃがれた声を出したところで、夏奈がゴールに飛び込んだ。


しかし、ゴールラインを超えた直後、足をもつれさせ、前につんのめり、そのまま倒れ込んでしまった。


「夏奈!」


無意識に一歩踏み出したところで、隣を風が吹き抜けていくのを感じた。

森下先生が往年の名選手らしい物凄いスピードで夏奈に駆け寄り、そして倒れた夏奈を抱き起こす様子が見えた。


「よくやった・・・。よくやったぞ・・・。さすが私の愛弟子だ・・・。」


「先生・・・。」


二人の声は聞こえないけど、きっとこんなやり取りをしているんだろう。

もう心配ないな。


僕は、無意識に自分の手の甲を見つめた。

そこには冬香につねられた傷痕がまだ消えずに残っている。

その傷跡に軽く触れると、踵を返し、振り返りたい気持ちを抑えながら、黙ってグラウンドを後にした・・・。


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