第27話 決別
記録会の前々日の夜、僕は夏奈と多摩川の河川敷を走っていた。
記録会に備えて軽めのジョグなので、僕でも夏奈の練習に付いて行ける。
もう完全に陽が沈んでしまったけど、沿道の灯りにランニングコースが照らされて、いつか二人で歩いた時にみたいに幻想的な雰囲気だ。
「・・・・あれ?」
景色に見惚れながらしばらく僕が前に出て走っていたら、夏奈が付いてくる気配がしない。
振り返ると、夏奈が少し後ろで立ち尽くしている。
「どうしたの?どこか故障?」
慌てて駆け寄ると、夏奈は左右に首を振った。
だけどそのままうつむいて何も言わない。
「どうしたの?」
もう一度尋ねたけど、何も応えてくれない。顔もうつむいたまま。
長い付き合いだからわかる・・・。
これは何か言いたいことがある時の夏奈の態度だ・・・。
「あの・・・もし言いたいことがあるなら早めに言ってもらえると・・・。」
「言いたいことがあるのは栄斗の方じゃないの?最近、練習にあまり来てくれないし・・・。」
顔を伏せたまま食い気味に言って来た。何か思いつめている雰囲気もある。
ちょうどいい機会かもしれない。
言おうと思っていたけど、ずっと言えなかったことを伝えるために・・・。
「実は・・・ずっと準備してたんだ。記録会の後の夏奈の所属先について・・・。」
「記録会が終わっても、ずっと栄斗がサポートしてくれるんでしょ。ずっと栄斗と二人のクラブに所属したまま走り続けて好記録を連発して、それで日本選手権に出て、国際大会に出て、オリンピックに出て・・・。その方が絶対かっこいいじゃん!きっとマスコミにも注目されちゃうよ。雑草魂とか、二人三脚でつかんだオリンピックへの切符とかなんとか言われてさ!」
また夏奈が食い気味に、すごい早口で僕の話を遮ってきた。
だけど、ちゃんと伝えなきゃいけない。僕は首を横に振った。
「夏奈は・・・。早くちゃんとした陸上部とか実業団に所属した方がいいと思う。」
「大丈夫だって!ほら、この間だって好記録が出たし、きっと明後日は自己ベストを更新して、日本選手権にも出場できるよ!こんなに好調なんだから環境を変えるべきじゃないよ!それぐらいわかるでしょっ!」
顔を上げた夏奈は、すがるような目をしている。
そんな表情を見ていると、少しほだされそうになってしまう。
だけど、心を鬼にして首を横に振る。
「夏奈こそわかるでしょ。夏奈の才能のおかげで、いまこそ好記録が出てるけど。このままだったらすぐに限界が来ちゃう。ろくに練習相手もいないし、遠征費も捻出できない。ちゃんと大学の陸上部に所属して、高いレベルで競技のサポートを受けた方がいいと思う。」
「ハハッ・・・それは無理だって栄斗もわかってるでしょ。私が大西文化大学の陸上部に入るのを小夜ちゃんが許さないって言ってるじゃん。ハハッ・・・。」
夏奈は笑い飛ばそうとしたけど、その笑いに力がない。
僕が真剣な表情のままで黙っていると、やがて夏奈も笑うのを止めた。
「・・・実は、森下先生と話したんだ。前回の記録会の時。その後も連絡を取って何回か話を聞いてもらった・・・。」
「なんでそんな勝手なことを!」
夏奈は少し眉を吊り上げたけど、僕が真面目な表情で目を見つめたらすぐに黙ってくれた。
「森下先生は夏奈のことを心配してた。夏奈が精神的に成長できなくて、選手として壁に当たっていることを。それで条件を示されたんだ。この条件を充たせば陸上部に入部を認めるって。」
「条件って?」
夏奈が息を飲んで僕を見つめてくる。
「条件は2つあって、そのどちらかでいいらしい。1つは僕も陸上部に入って夏奈を支えること・・・。」
「なんだ!それだったら私も異存ないよ!そっか~、栄斗も付いてきてくれるんだ!」
夏奈の顔がパッと明るくなった。
体を小刻みに揺らしながら「なに言い出すかと思ったよ~」とか言いながら手で胸を押さえている。
そんな様子を見て、次の言葉を言うのが心苦しくなった。だけど、伝えるしかない。
「・・・ごめん。それは僕ができない。僕は僕で進みたい道があるから・・・。」
「はっ?」
夏奈の表情が一瞬で凍り付いた。
僕は構わず一息も入れずに続ける。
「もう1つの条件は、僕がいなくても、夏奈が一人でも、選手として他の部員とうまくやっていけること。森下先生がそれができると信じられるほど、夏奈が精神的に成長すること・・・。」
「えっ・・・、えっ?」
「次の記録会の後、森下先生と二人で話して欲しい。そこで、夏奈が一人でもやっていけるって、森下先生にちゃんと伝えて欲しい。そうすれば大丈夫だと思う・・・。」
「嫌だ!」
間髪入れずに夏奈が叫んだ。ブルブルと小刻みに震えている。
「森下先生に頭を下げるのは気が進まないかもしれないけど、ここは大人になって・・・。」
「そうじゃないっ!」
夏奈が向けて来た視線には強い情念がこもっていた。まるで僕を恨んでいるみたいに。
「約束忘れちゃったの?一緒にオリンピックに行くって・・・。」
「もちろん覚えてるよ。でも、このまま二人で練習していてもオリンピックになんか行けない。夏奈の夢をかなえられない。だから・・・。」
「全然わかってない!!」
夏奈が真っ赤な目をしながら金切声で叫んだ。
「私が大事にしている約束はオリンピックに行くことじゃない。『一緒に行く』ってとこだよ。オリンピックなんかどうでもいい。栄斗と一緒に行けるなら、日本選手権でも、国体でも、地域の競技会でも・・・どれでもいい・・・。」
「夏奈・・・。」
暗くてよく見えないけど、今、彼女の頬を伝ってるのは汗じゃない。きっとあれは涙だ・・・。
「栄斗と絶交しちゃったあの日からずっと後悔してた。栄斗が陸上部を退部した後、周りにわがまま言ったのは、私は栄斗がいなきゃだめだって分かれば、小夜ちゃんも栄斗を陸上部に戻してくれるって思ってたから。だけど栄斗は戻って来てくれなくて、私が九州の大学に行くことになってますます距離が離れて・・・。でも、大学辞めて、東京の大学に入り直して・・・やっと栄斗が戻って来てくれた。それなのにまた離れるのは嫌だ。絶対に嫌だ!!」
両こぶしを握って太ももを叩き、まるでに地面に叩きつけるように、うつむいて叫ぶ夏奈の姿を見ながら、僕はただ絶句するしかなかった。
「・・・これからも栄斗と一緒に練習して、時々手ごろな大会に出て・・・。私はそれでいいよ。あっ、冬になったら一緒にマラソンとかハーフマラソンに出るのもいいよね。一緒に、観光がてら、世界のマラソン大会を巡って大会荒らしをするっていうのもあるかな。大会はいっぱいあるし、全制覇するころにはおじいちゃん、おばあちゃんになっちゃうかな・・・。」
力なく微笑み、すがるような夏奈の顔を見ながら思った。確かにそれは楽しそうだ。だけど僕はそれに応じることはできない。
「・・・・僕には冬香がいる。冬香と、ずっと一緒に生きていくと約束したんだ。だから、夏奈と一緒に行くことはできない・・・。」
夏奈の目を見ながら、きっぱりとそう伝えると、彼女の真っ赤になった瞳が激しく揺れた。
「・・・・いつ、冬香さんと約束したの?」
「・・・9月・・・ちょうど夏奈が最初に冬香と入れ替わった日の前の日・・・。」
「そっか・・・。1日遅かったんだ・・・。」
夏奈は佇んだまま、ずっと自分の足元を見ている。僕も掛けられる言葉はなく、目を伏せるしかない。
「・・・・もう走るのを止めるよ。栄斗が一緒にいてくれないなら走っても仕方ないし・・・。」
「夏奈・・・。」
一人でも夏奈には走って欲しい。
そう伝えたかったけど、僕にそんなわがままを言う資格はない。そのまま何も言えなかった。
夏奈は一瞬だけ僕を見つめた後、「じゃっ」と涙交じりの声を残して、まるで短距離走のようなもの凄いスピードで駆け去って行った。
夏奈の背中を見ながら、あの絶交された高2の夏を思い出した。
だけど、あの時とは違って、僕は、見えなくなるまでずっと、小さくなる夏奈の背中を見つめていた。




