第24話 恩師
5月14日土曜日、横浜女子体育大学グラウンド
今日、このグラウンドで実施される公認記録会では5000mに夏奈がエントリーしている。
ここで走ったタイムは陸連の公式記録として認められ、公認大会の参加資格である参加標準記録の判定に使用することができる。
ちなみに、今年の日本選手権女子5000mに出場するための参加標準記録は15分36秒である。
夏奈の自己ベストは高校2年の時の15分38秒。
しかも今日は晴天、風もないけど、気温が低めという好コンディション。
だから狙えないタイムじゃないけど、復帰したばかりだし今日は無理するところじゃない。
まずは16分を切ることを目標に置いている。
「さて・・・夏奈はどこに行ったか・・・?」
参加する組の招集時間が迫ってくると、夏奈が姿を消した。
それを僕が探して見つけるのが中学生以来のお約束である。
「な~つな~。」
呼びながら歩いていると、ふと、近くの植栽の茂みが動いた気がした。
その陰を覗き込んでみると、体育座りをしながら膝に顔をうずめている夏奈がいた。
「はい・・・。手を出して。」
夏奈の向かいにしゃがみ、夏奈の手を取りゆっくりさする。
これも中学の頃から続けているルーティーンだ。
今日の手はあまり冷たくない。コンディションは悪くないかもしれない。
続いて足もさすったけど、こっちもほどよくあったまっている。
「んっ!」
夏案が座ったまま、両手を広げて来たので、そのままハグする。これは高校以来のルーティーン。
少し汗ばんでいるし、アップ十分だな。
「じゃっ、行ってくる!」
夏奈は晴れやかな表情になって立ち上がり、腰のあたりで少し手を振ると、そのまま招集場所のテントに走って行った。
その後姿を見ながら気を引き締めた。
僕にも大仕事が控えている・・・。
公認記録会には各大学の陸上部員も参加しており、それぞれトラックの周りに陣地を作っている。
その一つ、大西文化大学の陣地で、その人は腕組みしながら険しい顔で仁王立ちしてトラックを見つめていた。
相変わらずすごい迫力。声をかけるだけで吐きそうなくらい緊張する。
「森下先生、ご無沙汰しております。高校時代にご指導いただいた加嶋栄斗です!」
高校時代の陸上部顧問で、現在は大西文化大学女子陸上部の監督、森下小夜先生の前で直立不動になり、僕は声を張り上げた。
「おう・・・栄斗か・・・。」
森下先生は少し驚いた表情をしながら、僕に視線を向けてくれた。どうやら僕のことを覚えてくれていたようだ。
「今日はどうした?」
「はいっ!夏奈の応援に来ました。次の組で夏奈が走るので、見てやっていただけませんでしょうか!!」
深々と頭を下げる。頭が膝にくっつくんじゃないかと思うくらい、深く・・・。
しかし、森下先生は黙ったまま何も言ってくれない。腰も痛くなってきた。
「・・・・・。夏奈から手紙をもらった。これまでの無礼を心からお詫びしたいと書いてあったな・・・。延岡体育大の石川先生のところにも手紙が届いたらしい。」
おそるおそる顔を上げて森下先生の顔を盗み見たが、表情は険しいままだ。
「はい・・・あの・・・夏奈も先生への無礼をお詫びしたいと言ってましたので、きっとそれで・・・。」
「うそつけっ!!」
威厳のある声でピシャリと言われて思わず背筋に電流が走った。
近くにいた大西文化大学の部員もビクッとしている。
「あの手紙、栄斗が書いたんだろ!わからないと思ったのか?字こそ夏奈に似せてあるけど、夏奈にあんなちゃんとした文章が書けるわけないだろ!!高校の時から栄斗がレポートとか課題を代筆してたのもわかってるんだからな!!」
僕は赤面して顔を伏せるしかない・・・。
高校時代の課題まで見抜かれていたとは・・・。
「す、すみませんでした・・・。」
僕が震える声で謝るのと同時に、スタートの号砲が鳴った。どうやら夏奈が参加している組がスタートしたみたいだ。
「・・・・メンタルは安定してるみたいだな。状態がいい。」
森下先生の視線の先を見ると、ペースメーカーの真後ろに付けて快調に飛ばす夏奈がいた。
僕の目から見ても呼吸も安定し、フォームも美しい。
「さっき茂みの陰で二人でごそごそやってただろ。またルーティーンとかいって二人で抱き合ってたのか?」
あっ、あれも見られてたのか・・・。僕は赤面してもう一度顔を伏せるしかない・・・。
「・・・はい・・・。すみません・・・。」
「・・・・夏奈がフィジカル面でずば抜けた才能を持っていることは間違いない。選手時代、指導者になってからも日本人であれだけの才能をもった選手を見たことがない・・・。」
恐縮する僕に構わず、森下先生はトラックを走る夏奈を見つめている。
「・・・だけど夏奈の課題はメンタルだ。高校2年生までは栄斗がいたから安定していた。だけど、栄斗がいなくなってからの夏奈はボロボロだった・・・。」
「はい・・・。」
「言っておくが、私は、3年前に、夏奈に栄斗と別れるように言ったことや、栄斗に部を辞めさせたことを後悔しているわけじゃない。恋人同士を引き裂くのは心苦しかったけど、もし栄斗が夏奈と結婚して、一生、夏奈を支え続ける覚悟があるならともかく、いつか別れて別の道を歩むことになるなら、そこで夏奈がボロボロになってしまう。それだったら、私の下にいるうちに夏奈を精神的に一本立ちさせた方がいい、そう思ったんだ・・・。」
「そうだったんですか・・・。」
森下先生は険しい表情のまま。森下先生の言葉には、色々と事実誤認があって引っかかったけど、それを指摘する勇気はない。
「九州の延岡体育大学を勧めたのもそうだ。親元を離れて、石川先生の下で指導を受ければ、甘えを捨てて一本立ちしてくれる。そう思っていたけど、逆効果だったようだ・・・。」
そのまま森下先生は唇を噛み、沈黙した。
グラウンドに目を移すと、残り1500m以上もあるはずなのに、早くも夏奈がペースメーカーを追い抜いていた。
ペースメーカーの設定タイムは15分50秒。
少しペースを上げ過ぎじゃないかと思ったけど、夏奈のスピードはまったく衰える様子はない。
「夏奈をうちの陸上部に受け入れなかったのは、勝手に大学を辞めた夏奈の無礼を私が怒ってるからだと思ってるだろ?」
「いえ・・・そんな・・・。」
口では否定したけど、森下先生の指摘は図星だった。そう思っているからこそ、代筆で詫び状を送ったのだ。
「別に怒ってるわけじゃない。夏奈はかわいい私の愛弟子だ。それに才能もある。あいつの態度に腹が立つことはあるが、そんな私情であいつの未来を閉ざすようなことはしない・・・。」
「じゃあ、なぜ・・・?」
思わずそう問いかけると、森下先生はまた口を閉ざした。
森下先生の視線の先には、スピードを緩めず、後続との距離をどんどん広げる夏奈の姿があった。
しかも、ラスト一周の鐘が鳴らされたところで、さらにスパートをかけ始めた。
「今日は絶好調だな。こうやってメンタルが安定している時はいい。だけど、栄斗は不安定な時の夏奈を見たことはないだろう?そんな時のあいつが、どれだけチームに迷惑をかけたのかも知らないんじゃないか?」
「・・・・・。」
僕は、お正月に聞いた陸上部の同級生の話を思い出していた。
陸上部の同級生や後輩にパワハラまがいの行為をしていたことも・・・。
「私は、夏奈に選手として成功して欲しい。だけど、それ以前にチームを預かる監督として責任がある。だから、夏奈が精神的に成長して、問題を起こさないと確信ができなければ、どんないいタイムを出しても、競技会で活躍してもチームに受け入れることはできない。」
「・・・・はい・・・。」
視線の先では夏奈がちょうどゴールするところだった。読み上げられたタイムによれば、15分40秒台前半でゴールしたようだ。
夏奈が復活したことをアピールすれば森下先生が考えを改めてくれると思っていた。
だけど、それは考え違いだったようだ。
夏奈を精神的に成長させて、問題を起こさないと森下先生に確信させるにはどうしたらいいのか・・・?
「ああ、そうだ。もし栄斗がうちの大学に移って、マネージャーとして夏奈を支えてくれるなら、夏奈を受け入れてもいいぞ。そうなれば夏奈のメンタルも安定するだろうし。でも、それは難しいだろ?」
森下先生に厳しい視線を向けられ、僕は何も答えられず、うなだれたままその場を離れるしかなかった。
とぼとぼと歩いていると、向こうから、いかにも快心の走りだったという得意げな表情をした夏奈が駆け寄って来た。
「あっ!栄斗、見てくれた?15分41秒だって!!よし!!次の記録会では絶対に15分36秒を突破して、日本選手権に出て、小夜ちゃんを見返してやるぜ~!!」
無理に笑顔を作り、夏奈とハイタッチをしながらも、僕の心には大きな重しが乗っていた。
夏奈を選手として復活させるのは、僕が思っていたよりも簡単じゃないかもしれない。




