第3話.十番街での生活
広いソファの上で目を覚ます。
(そうだ、私……いきなり魔界に来てしまって……)
眠い目を開きながら身を起こすと、外の景色が寝る前と全く変わっていないことに驚く。
黒い空。極彩色のネオン街。
「まだ朝ではないの……? でも、たっぷり寝た実感があるし……もしかして、魔界の景色はずっとこうなの?」
フィノリカは、毛布をきっちりと畳んで立ち上がった。
「今は何時なのでしょう。バティンは……」
バティンは居住スペースの自室で休んでいるはずだ。ちなみにフィノリカは寝る間だけ事務所のソファを借りている。
「お、よく眠れた?」
ちょうど、階段を軽快に降りる足音がして、バティンが顔を出す。
昨日のスーツ姿ではなく、ラフなプルオーバーのパーカーを着ていた。
「はい。あの……今は夜ですか? 朝ですか?」
バティンは不思議そうな顔をした。
「ヨルとかアサって、なに?」
「えっ」
もしかして、悪魔の世界には昼夜の区別がないのでしょうか。
だとすれば……まずいです。こういう会話から、人間だってバレてしまう……?
「いえっ……変な夢を見て、自分でもよくわからないことを言っていたみたいです」
「そうなの? まあ魔界に堕ちたばっかで疲れたでしょ。ゆっくり休んでよ。何か飲み物でも持ってくる」
「ありがとうございます……バティンは親切ですね」
フィノリカはそわそわしていた。掃除の対価以上に、親切にされてはいないだろうか。
聖女見習いとして、元の世界では善行を施す立場でありながら、受け取ってばかりではないかと心配になる。
「そう? 一緒にいるメリットがある以上、仲良くしなきゃ損でしょ」
「メリット、ですか」
「悪魔って掃除嫌いが多いから、なかなかいないよ? こんなこと引き受けてくれる子」
掃除はフィノリカにとって大した負担ではないが、悪魔には重労働ということだろうか。
(よかったです。そのおかげで、未知の地でもご飯と寝る場所を確保できました)
フィノリカは悪魔の習性に、深く感謝を捧げた。
「はい、コーヒー」
「いただきます」
紙コップに注がれたコーヒーを両手で受け取って、一口飲む。
「ふふ……目が覚めます」
「それは何より」
「バティンは、今日は何をするんですか?」
問われて、バティンはポケットから端末を取り出す。
「んー、今日は依頼なさそうだしなあ……何するか」
そしてふと、画面をタップして、とある見出しに目を留めた。
「なんだこれ? 『十番街のセントラル地区で、擬態した天使の痕跡見つかる』……」
「て……っ」
天使様、と呼びそうになるのを慌てて喉の奥に押しとどめる。
「なんかヤバそうだな。なんで天使が魔界に?」
「ふつうは、いないものなんですか」
「まさか。いたら極刑ものだよ」
フィノリカの背筋が凍った。
天使。それはフィノリカたち教会関係者が仕えている、聖なるものの一角だ。
その天使が魔界では存在を許されない存在なら、天使たちの加護を受け、使える聖女見習いが正体を明かして何事もないはずがない。
(いま以上に、気をつけなきゃ……っ)
バティンはフィノリカの内心の冷や汗には気づいていない様子で、明るい調子で言う。
「そうだ、セントラルと言えば、いろいろ買い物もしたかったんだよな。フィノが疲れてなければ、一緒に行かない?」
「何を買うんですか?」
「もちろん、フィノの家具とか服だよ」
「ええっ!?」
悪魔にとってフィノのような存在が貴重ということはわかったが、さすがにそこまで受け取るための対価を渡せているとは思えない。
「いいのいいの、フィノの働きに期待して前払いってことで」
「え、ええと……バティンはやりたいことのために、資金を溜めているのでは……?」
「……まあ、俺のやりたいことに少し通じてるとこもあるし。だから、いいよ」
バティンのやりたいことと、フィノへの行為がどう繋がるというのだろう。
フィノの脳内に疑問符が大量に浮かんだ。
「前払いって……急に掃除以外のことも、要求されたりしませんか?」
「ううん、掃除だけ。すごい助かったから引き続きお願いしたい」
「そうですか……なら、私に出来ることの対価として、頂戴いたします」
なら決まりだね、とバティンは尖った犬歯を覗かせて笑った。
ショッピング通りを歩きながら、バティンはフィノリカに問う。
「フィノ、どういう系統の服が好き?」
「ええと……シンプルなもので」
フィノリカがいま身につけているものは、飾りのない厚い白のローブワンピース。
教会の行事でよく着る服で、生地の裏には魔力刺繡が仕込んである。
もっとも、魔界ではフィノリカの神術は使えないのだが。
それでも祈禱杖を手放すのは落ち着かず、ローブの内側、腰に下げている。
「シンプル……ああいう感じ?」
バティンが視線を向ける先には、真っ赤なワンピースを着たマネキンがあった。
「形は好きですが、色が派手です」
「派手かあ」
「それに、丈が短いような」
バティンの洗濯物を片付けた時に、色合いがほとんどビビットだったことを思い出す。
彼の服の好みのデフォルトがまず、絢爛なのだろう。
フィノリカとて、全く着たことのない服の系統に興味はあるが……。
「同じお店なら、こっちがいいです」
フィノリカは別のマネキンを指差す。
白のブラウスに、深いエメラルドブルーのハイウエストのジャンパースカート。シンプルなブーツ。
「おお、似合いそう」
バティンは店員を呼んで、試着室への案内をお願いする。
手際よく服を抱えた店員が、フィノリカを店の奥へ誘う。
(なんか、不思議です……)
本来ならば今頃、過酷な試練に挑んでいるはずが、のんびりと新しい服を選んでいる。
今日がこうなるなんて、誰が予想しただろうか。
(……あら?)
着替えのためにローブを脱いだ時、腰の祈禱杖がわずかに光っていることに気づく。
今まで光を失っていたのに、どうしたのでしょう。
フィノリカは杖を手にした。ゆるやかだが、加護の力が流れ込んでくる感覚がある。
「この力はいったい、どこから……」
なんとなく、フィノリカは杖を動かしてみる。
すると杖の宝玉が隣の試着室に向いた時、光が強くなる、ような気がした。
(もしかして)
――『十番街のセントラル地区で、擬態した天使の痕跡見つかる』
(魔界にいらっしゃるかもしれないという、天使様の加護……!?)




