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第2話.悪魔バティン

 幾多のネオン看板が輝く、だだっ広いビル街を歩く。

 排水溝に反射するライトのきらめき。

 向かいを通り過ぎるバイクのエンジン音。


 神殿都市とはまるで異なる景色に、フィノリカの視線が釘付けになる。


「そういえば、君の名前は?」


 バティンの声が、彼女の意識を目の前へと戻した。


「フィノ……」


 言いかけてから、ふと焦る。この名は神殿から授けられたものだ。

 正直に告げてしまって大丈夫だろうか?


「そう、フィノ」


 バティンは『フィノ』という名前に納得したように、微笑む。


 それにしても美しく、奇抜な姿だ。きらきらと輝く金髪はよく見たら内側に薔薇色が混ざっていて、肩の辺りで跳ねている。

 切れ長の赤い瞳は、これまでに見たどんな葡萄酒の赤よりも深い色に思えた。

 笑うくちびるの間からは、尖った犬歯がちらりと覗く。


 教会どころか、神殿都市じゅうを探しても、彼のような雰囲気の男性はいないだろうと思った。

 彼はフィノリカと視線を合わせ、問う。


「それで、どう? 何か思い出せそう?」

「いや、そんなにすぐには……」

「でも、やりたいこととかはあるんでしょ?」


 首を振ると、バティンは驚いて目を丸くした。


「ないの!? それって欲すらも覚えてないってこと? ここにいる連中は、欲望のおかげで堕ちたような奴らばっかりなのに」

「そ、そうみたいで……本当に困っています」

「だいぶ深刻だね」


 欲、というものはフィノリカには無縁のものだった。

 だから、悪魔の世界では不自然な回答だったと気づいても、じゃあ何がしたいとか、何が欲しいとかは咄嗟に出てこない。


「ちなみに……バティンのやりたいことは?」

「それはヒミツ」


 そう言ってバティンは、悪戯っぽく笑った。


「それを実現するために、依頼をこなして金を貯めてるんだ」

「依頼……先ほどみたいに、ゴロツキの方を追い払うことですか」

「さっきのはたまたま。頼まれれば何だってやるさ。出来ることなら」


 どうやら彼の仕事は、人助けに限ったことではないらしい。


(一体どんなことを……それにやりたいことが秘密って、何を企んでいるのでしょう。悪魔の方の倫理観がわかりません)


 フィノリカは震えるが、今のところは彼についていく以外の選択肢がない。


「あの……駒って、私はどんなことをしたらいいのでしょう」

「ん? あー、どうしよっかな……とりあえず部屋の掃除、とか? 最近ちゃんと片付けられてないし……」

「そのようなことでいいのですか?」


 掃除は教会で日課にしていることだ。思いのほか簡単な要求に、フィノリカは拍子抜けする。


「頼もしい。じゃあお願いしようかな。部屋まで案内するね」

「はい」


 バティンと並んで、未知の都市を歩く。

 神殿都市では、聖女見習いが男性と並んで歩くことは決してあり得ないことだから、フィノリカは不思議な気分になる。


(私が教会育ちじゃなければ、こんな風に、異性と並んで歩くこともあったのでしょうか)


 フィノリカは、今は遠く離れた都市のことを考えた。

 目の前のギラギラした街並みとはまったく違う、白の世界。

 不満はない、けどどこか空虚で、毎日与えられたものをこなすだけの都市。


 通りを曲がった先で、何人かの悪魔とすれ違う。


「おっ、バティンじゃーん」

「おつかれー」


 みんな彼の知り合いなのだろうか、バティンはにこやかに手を振って返す。 

 ふと、そのうちの一人がフィノリカに目を留めた。


「その子は?」

「ついさっきから、俺の助手」

「えー可愛い。黒髪サラサラ」


 急に自分の話題になって、フィノリカは戸惑う。

 質素を美徳とする教会では、容姿を必要以上に整えることはなかったから、褒められると慣れなくてくすぐったい気持ちになる。


「服も、変わってるけどカワイイね。どこに売ってるか聞いてもいい?」

「それが、フィノはここに来たばかりで記憶がハッキリしてないんだ」

「そうなんだ? じゃあこれからが一番楽しい時だね」


 睫毛の長いその悪魔はにっこり笑って言う。


(これからが一番楽しい時……)


 そうなのだろうか。何もかも未知だから、ということなのか。


「あ……ありがとうございます」

「新生活楽しんでね! そんでバティンは、あんまりこき使いすぎないように」

「しないわ」


 陽気に笑い合って、手を振る。そしてバティンは通りの奥を指差した。


「もうすぐ着くよ。あれが俺の住んでる場所」



 バティンの棲み処は、便利屋の事務所と居住スペースを兼ねた雑居ビルの一画だった。

 通された部屋に、フィノリカは小さく立ち止まる。


 床には散乱した服と空き缶。

 何かの液体がこぼれた痕跡がカーペットに染みついていて、テーブルの上は見えないほど物が積まれている。


「……ふふっ」


 フィノリカは思わず微笑んだ。


「なんだか、安心しました」

「えっ、安心するんだ……」


(神殿都市もここも、忙しい方の部屋はこうなりがちなのですね)


 故郷との思わぬ共通点を発見して、フィノリカは笑ったのだった。


「とにかく、取りかかりますね。掃除用具はどこですか?」


 そう言って、彼女はローブの袖をまくった。


 まず、大きく窓を開ける。


「バティンさん、本は本棚、書類はこちらのキャビネットでよろしいですか?」

「うん、ありがとう。それと、バティンでいいよ」

「バティン。服はクローゼット……ああ、お洗濯が必要そうなものもありますね」


 たくさんある作業量に流されて、言われるまま呼び捨てをして、散らばった服を拾い集める。


「それは全部、部屋着で……洗濯機は俺が回しておくよ」

「センタクキ……」


 聞き慣れない単語にフィノリカは一瞬、手を止める。


「洗濯機はここね。まとめて入れちゃって」


 バティンが洗濯機を回してみせると、フィノリカは目を丸くした。


「す……すごいです」

「え、初めて知った? どこから来た魂なんだろう……」


 呟くバティンに、フィノリカは不思議そうに視線を投げる。


「それにしても、こんなに便利なものがあって、お洗濯を溜めていたのですか……?」

「うっ……ほら、依頼が立て込むとどうしても……」


 その俗っぽさに、フィノリカはつい微笑む。


「私のやることが沢山あって、助かります。右も左もわからない場所ですから、私、もう少しバティンのサポートが必要です」

「掃除と等価交換ってわけだ? いいね。ぜひよろしくお願いしたいよ」

「任せてください」


 フィノリカは、箒と雑巾を駆使して部屋を掃除していく。

 その手際は”浄化”と言っても過言ではなかった。


「俺、ちょっと買い物に行ってくる。腹減ったでしょ」

「は……はい」

「食べれないものとかある?」


 フィノリカは返答に困った。食べ物を用意してくれるのはありがたいが、そもそも魔界の食事がどんなものか、わからない。


「ち、血生臭いもの……とか」

「わかった、食べれそうなものを買ってくるね」


 生肉とか、血を出されたらさすがに倒れてしまいそうだ。

 掃除を続けながら、魔界の食事が口に合うことを願った。





 しばらくして。

 部屋は、まるでモデルルームのように整っていた。


 買い物から帰ってきたバティンが、目を見開いて驚いている。


「おかえりなさい」


 フィノリカはそう言って、窓辺に綺麗に絞った雑巾を干した。


「……本当に、すごいな。俺の部屋じゃないみたいだ」

「片付け甲斐がありました」

「さっきのボディーガード料と、飯の分で足りるかな」

「お構いなく。あ、でも、もし出来るなら……一晩、この部屋で寝泊まりさせていただきたいんですが」


 今日の寝床確保において、彼女に取れる、唯一と言っていいほどの手段だった。

 バティンという悪魔はまだ未知だが、少なくとも対価を与えたと認められれば、見合うものを返してくれる。

 そういった契約が成立する相手として、彼に頼れるだけ頼ることは悪くないと思えた。


「もちろん。掃除も一回だけじゃ、すぐまた元に戻っちゃうもんね」

「それじゃあ」

「フィノに定期的に掃除してもらう。俺は飯と寝床を提供する、で一旦どう?」

「助かりますっ……!」


 神術さえ使えれば、もっと出来ることはあるかもしれないと歯痒いけれど、今のフィノにはそれで充分だった。


「ところで……私、ちゃんと食事を食べれますでしょうか」 

「とりあえずジャンクフード何種か、あと飲み物」

「じゃんく……?」


 フィノが初めてのハンバーガーとフライドポテトに大変感激するのは、この少し後の出来事。

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