第1話.神の試練と堕ちた先
神殿都市イゼルナで、五年に一度、聖女候補たちに与えられる《神の試練》。
合格すれば正規の聖女となり、神託を授かる資格が得られる。
神の代弁者として、貴族にすら一目置かれる聖職者。誰もが憧れる生活と地位が約束される。
だがその試練は、長い歴史の中で、合格者わずか数十名という苛烈なものだった。
「……ここが、神殿の深部……」
フィノリカ・セシルは、薄暗い石の回廊を進みながら、手にした祈祷杖を握りしめた。
成人を迎えてから、しばらく経つ歳の頃。品行方正で物静か、生真面目な聖女見習い。
物心ついた頃から教会で修行を積み、満を持して試練に挑む彼女は、優秀な聖女候補として知られていた。
しかし今、その顔には不安の色が浮かんでいる。
《神の試練》とは何か、それを教えてくれる者はいない。試験の詳細は一切公開されていないのだ。
ただ、試練を受けた者の多くが涙して帰還した。
未熟な身で挑めば、命を落とすこともある。それは確かだった。
だとしても。
「やるしかない、ですね……」
与えられたレールに乗っかって、程々にこなして。
フィノリカ・セシルの生き方はそういうものだった。
聖女見習いとしての立場も人付き合いも「ほどほど」に出来ればいい。
真面目という評価も、そのような身上あってのものだった。
もっとも、本当に真面目に熱量をもって、物事に取り組んでいる者にとっては不本意であろうが。
フィノリカにとっては、今回の試練、絶対に合格しなければという気概はなかった。
死なない程度にそこそこ頑張ればいい。
それで充分、教会の人たちも納得してくれるだろう。
もとより、合格率が異次元の試練なのだ。生きて帰れただけでもまあまあの偉業だ。
それに見習いという立場も別に悪いものではない。
無理をして聖女にまで登り詰めたいとも、そこまで思わない。
「……さて。行きましょう」
祈りの間と呼ばれる部屋に辿り着いたとき、フィノリカの周囲の空気が一変した。
――音が消えた。
「……何が始まるの?」
突如、床に描かれた巨大な魔法陣が、淡い金色に輝き始めた。
それは神聖というより、異質な光だった。
まるで、未知なる何かが目を覚ますかのような。
「待っ……これは――!?」
フィノリカの足元がぐらりと揺れた。体が浮かび上がり、激しい目眩がする。
金色の光はやがて赤黒く変じ、魔法陣の縁が崩れ始める。
「この印……これは神さまのものじゃない……っ!」
フィノリカの絶叫を最後に、空間がねじれ、光が弾けた。
そして。
彼女が目を覚ましたのは、空が黒く塗りつぶされ、異様な匂いで噎せ返るような――異界の路地裏だった。
「……なんでしょう、ここ……」
黒い空。
無秩序に継ぎ足された歪なビルの群れ。
投げ捨てられたゴミ袋から漂う異臭。
静謐で神聖な、神の加護に護られた神殿都市とはまったく異なる世界だった。
「ええと……これが試練?」
混乱の中、地面に転がっていた祈祷杖を拾う。
しかしその杖の先端の宝玉は、光を失っていた。
「……どうして……もしかして加護が届いていないのでしょうか」
その瞬間、背後から気配が迫る。
「オイちょうどいいや、姉ちゃん酒代くれ」
「!?」
獅子の頭部を持ち、翼を生やした男が数人、こちらへ向かってくる。
その背に生えている翼は、
「あ、悪魔……?」
禁書指定された書物の表紙に描かれているような、異形であった。
「っ……!」
咄嗟に杖を向けて浄化の魔弾を放とうとするが、何も起こらない。
「なんだあ? その汚い棒が金になるのか? 値打ちはなさそうだが、くれるって言うなら、まあ」
「ち、違いますっ!」
大切な杖を差し出していると勘違いされ、思わず反論してしまう。
しかし、戦う力が失われてしまった以上、反抗したのは悪手だったかもしれない。
たちまち男たちが視線をギラつかせ、威嚇するかのように雄叫びを上げた。
その時、彼らの背後から小柄な影が飛び出し、高く空中に舞い上がる。
「見つけたーー!! おりゃあ!!」
その影は、最もたくましい体型をした男を、優雅な蹴りで吹き飛ばした。
「なんだこいつ!? うげっ!」
次いで、取り巻きたちにも拳と脚で格闘術を叩き込む。
あっという間に倒れ伏した男たち。謎の闖入者は、彼らの荷物へと手を掛けた。
「あったあった。あんたらが取ったっていう金、取り返させてもらうよ」
そう言ってこちらを振り向く。美しい顔の青年がそこに立っていた。
なびく豊かな金髪に、真っ赤な瞳。黒いスーツに、ヒールの高いブーツ。
胸元には可愛らしいリボンタイが揺れている。
「けっ……ヒーロー気取りかよ……」
獅子頭の男が負け惜しみを放つと、青年が綺麗な顔を歪めた。
「? 何か勘違いしてない?」
そして、男の傍に屈み込むと、額に拳銃を突き付けて告げる。
「依頼だから、に決まってるだろ? もしあんたの命まで依頼されてたら、ここで遠慮せず引き金引いてたし。依頼人が慈悲深くて良かったな」
獅子頭の男はダラダラと滝のような汗を流し、そして気絶したようだった。
そこでようやく、フィノリカは我に返った。
「あの……っ」
「?」
謎の青年を呼び止める。
「結果的に私まで助けていただいたみたいで……ありがとうございました」
「ふーん?」
青年はニヤリと唇の端を上げる。
「なら、君からも依頼料取るべきかな」
「え?」
「俺が助けなければ、こいつらに身ぐるみ剝がされてたってことでしょ? ってことで、結果的に俺が守った分、払ってくれたっていいんじゃない?」
(それって……私にとっては強請られる相手が変わっただけでは……)
よく見ると、青年の背後には何か黒いものが揺れている……あれは尻尾?
それこそ、書物で見た悪魔のような――、
悪魔。
教会の教義では、罪なる存在。堕落と破滅の象徴。
「悪魔!?」
「え……なに急に……そうだけど」
青年の肯定に、フィノリカの脳がフリーズする。
「そ、それって……ここは一体どういう場所なのですか?」
「どういう……って、十番街だけど」
「じゅうばんがい……?」
青年はぐるりと辺りを見渡して言った。
「ここは魔界の十番街。って君、ここの住人じゃないの? どうやって来たの? そもそも、何の種族?」
「え、は、え?」
魔界。
種族。
目の前の悪魔らしき青年は、知らない単語を次々と並べる。
やっぱりここは悪魔の世界なのだろうか。
教会の教えでは禁忌、罪とされる悪魔の存在。
(そんな相手に……私が人間で、しかも聖職者見習いってバレたら……)
「お、覚えてない……です」
「まじ? もしかして堕落したての魂とか?」
「そ、そうなのでしょうか……?」
正直には言えず、動揺しながらも誤魔化す。
「そっか、早く魔界に馴染むといいね」
「は、はい……」
「でも、それはそれで俺に払うもの、ちょうだい?」
あ。そこは覆らないのですね。フィノリカは祈祷杖を強く握り締めた。
「お金を持ってるかも……ちょっとわからなくて」
「そうなの? いま着てる服とかでもいいんだけど」
「よくないです! そ……そうだ! 労働で返します! 助手とか、雑用とか……」
――咄嗟に出た提案ですが、悪くないのではないでしょうか。
この強そうな方にくっついていたら、さっきみたいに恐喝される危険は減るだろうし、まずはこの世界のことや状況を知ることもできる――、
フィノリカは必死に考える。
「へえ……労働ねえ。じゃあ俺は自由に使える駒を手に入れたわけだ」
「え?」
「俺はバティン。これからよろしくね」
悪魔バティンは、眩いくらいの笑顔で微笑んだ。
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