千年夜市と夢喰らいの恋
千年の夜が始まってから、世界は一度も朝を迎えたことがなかった。
空は常に群青に沈み、太陽の気配などとっくに忘れ去られていた。空を照らすのはただ一つ――青白く光る“魔月”。それはまるで死者の目のように冷たく、優しげで、どこまでも遠かった。
夜しかない世界において、人々の“昼”を代わりに担ってきたのが「夢」だった。
夢は眠りの中だけでなく、取引され、加工され、演出されるものとなっていた。ナイトバザール――それは千年の夜において、唯一“灯りのある”市場であり、夢という名の商品が集う幻想の街。香の煙が白く立ち昇る。空気には蜜柑の皮と雨に濡れた木の香りが交じる。人々は仮面をつけて歩き、言葉ではなく香りと視線で交渉し、夢の価値を決める。
その一角、ひどく静かな屋台の前に、一人の青年が立っていた。
彼の名は――ネリオ。
黒く柔らかな外套に身を包み、右目だけを見せる仮面をしている。髪は漆黒で、切りそろえられた前髪の奥には、鋭く冷たい灰色の瞳が潜んでいた。彼の肩からは、夢採師の証である金の留め具つきの皮ポーチがぶら下がっている。
屋台の奥に座っていた老人が、ネリオに声をかける。
「君に合う夢がある。これは特別だ。返品は――できないよ。」
老人の顔は墨で塗り潰したかのように陰に包まれていた。だが、その声には奇妙な湿度と熱があった。まるで森の奥で眠る古樹のような、時間を含んだ音だった。
ネリオは無言で指を動かした。屋台の棚の最奥から、老人がひとつの小瓶を取り出す。瓶の中には、光のようなものが渦巻いていた。けれど、それはただの光ではなかった。炎のように揺らめき、煙のように形を変え、どこかで見た笑顔の輪郭を描いた――気がした。
「“恋人の夢”。未開封。価格は――記憶の重みで決まる。」
老人の言葉に、ネリオは眉ひとつ動かさず金貨を差し出す。それはこの街で“記憶の重さに換算された”唯一の通貨。重さは測られ、愛と後悔と痛みの量が査定される。老人は頷き、瓶を滑らせるように渡した。
ネリオはそれを外套の中へしまい、夜市の闇に紛れて歩き出す。彼の背後で、風鈴がひとつだけ鳴った。音はなぜか、心の奥の遠い場所に響いた。
夢は、あまりに甘かった。
瓶を開けた瞬間、ネリオの視界は白で満たされた。雪のような、しかしどこか温かい白だった。
そして気づけば、彼は花畑の中に立っていた。
辺り一面、無数の白い花が咲き誇っている。細く長い茎に、ガラス細工のように透き通った花弁。風が吹けばそれらはやさしく揺れ、ひそやかに擦れる音を立てた。その音がどこか懐かしく、胸を締めつける。
空は魔月が浮かぶ夜のままなのに、不思議と光に満ちていた。魔月はここでも高く、静かに、どこまでも冷たく輝いていた。その時、花々の間に一つの影が現れた。
少女だった。銀の髪が風に舞い、細い指先が白い花に触れている。柔らかく微笑んだその顔には、哀しみの影があった。けれどそれ以上に、安らぎがあった。
「――久しぶり、ネリオ。」
声が届いた瞬間、ネリオの胸の奥に何かが砕けた。
初めて聞いた声のはずだった。それなのに、懐かしさに体が震える。ネリオは声を出そうとしたが、喉が固く結ばれていた。彼女は微笑んだまま近づいてきて、手を伸ばしてきた。その手は、暖かかった。
「ずっと、ここで待ってたの。」
まるで夢の中の少女のように――いや、ここは実際、夢なのだ。ネリオは言葉にならないまま、そっと頷いた。
少女――ユゥリは、まるで彼の記憶の中から抜け出してきたかのような存在だった。髪の色、目の奥の輝き、指の形、頬の陰――そのすべてが「知っている」と告げていた。けれど、彼はその“記憶”がどこから来たのか、思い出せなかった。
ユゥリはネリオの袖をつまみながら歩き出す。花畑の中を二人で歩いていく。彼女の声は、まるで心の奥の風景をなぞるようだった。
「あなたが笑うと、空が揺れるの。昔からそうだった。」
「……昔?」
ネリオがようやく絞り出した言葉に、ユゥリはそっと頷く。
「うん。あなたは忘れてしまったけど……私は全部、覚えてるよ。」
彼女の言葉は、甘く、優しく、残酷だった。ネリオはそのまま、言葉を失った。
──目が覚めたのは、冷え切った石の床の上だった。
自室のランプは消えており、ほんのりと明るい魔月の光が窓から差し込んでいた。外套の中を探ると、瓶は消えていた。夢を使い切った証だ。そしてネリオは、ふと違和感に気づく。
本棚の一角が、ぽっかりと空白になっていたのだ。そこにはかつて、祖父がくれた詩集が並んでいたはずだった。だが、そこに何があったのかを思い出そうとすると、激しい頭痛が襲う。額を押さえ、ネリオは歯を食いしばった。
思い出せない。それが、怖い。夢に彼女がいたこと。それだけは、確かに覚えているのに。なぜだろう。まるで彼女が“そこにいた”ことだけが現実で、他のすべてが夢だったかのようだ。彼の心に、ひとつの問いが浮かんだ。
――彼女は、誰なのか。
そして、なぜ、あんなにも懐かしく、そして愛しいのか。
その夜、ネリオは再び夢を買った。
今度は、眠りに落ちるとすぐにユゥリが現れた。白い花の海ではなく、今度は水面の広がる湖だった。ユゥリは岸辺に座り、月を見上げていた。
「また、来てくれたんだね。」
その声に、ネリオの胸は締めつけられる。彼女は振り返り、そして小さく囁いた。
「……私を忘れないで。」
その言葉に、ネリオは何も言えなかった。ただ、ただそっと、彼女の隣に座った。
彼の現実から、静かに音が消えていく。次第に、人の名前を忘れる。顔が思い出せない。ナイトバザールのいつもの通り道を、どこか間違える。……だが、それでも、夢の中の彼女の笑顔だけは、鮮明だった。
彼は気づいていなかった。ユゥリは、彼の中に咲いた“夢の花”ではなく、“記憶を喰らう根”だったことに――
ナイトバザールの中心には、記憶の濃度が高い区域がある。夢と現実の境が曖昧になりやすく、気づけば“夢の方”に引きずられる。そこには色彩が濃く、香りも強く、音が妙に湿って聞こえる。ネリオは、その奥の一角に立っていた。
黒いテント布の屋根の下、香の煙が濃く漂う小さな屋台。そこには“夢を手放した女”がいると噂されていた。
ミリィ――かつて、夢を売りすぎて、もう夢すら見られなくなった娼婦。赤褐色の髪に、真珠のような肌。左目には金属の義眼をはめ、右目だけで人を見つめる。座る姿はどこか猫のようで、艶やかで、飄々としていた。
「……また夢を買いに来たの?」
ネリオが言葉を出すより早く、ミリィがそう言った。
「それとも……忘れたくない何かが、消えそうなの?」
彼女の声は、眠る前の酒のように柔らかく、どこか苦い。ネリオは何も言わずに、金貨の袋を差し出した。ミリィは目を細め、受け取らずに彼を見つめたまま言った。
「あなた、最近夢に“誰か”が出るでしょう?……その誰かを、現実でも探そうとしてる。」
ネリオの胸が僅かに揺れた。ミリィは立ち上がり、ゆっくりと彼のそばに歩み寄る。そして囁いた。
「夢の中に現れる“誰か”は、ね。大抵、あなたの中にあるもの。過去、罪、後悔……それが形になって、優しい顔をして現れるのよ。」
ネリオは唇を開きかけて、何も言えなかった。ミリィは首をかしげて、義眼の光を彼に向けた。
「ねえ、あなたのその“ユゥリ”って子、本当に誰?」
その名前が出た瞬間、ネリオの脳裏に風が吹いた。白い花々が揺れる夢の中、笑う彼女の姿。だが、その名を――“ユゥリ”を、彼はミリィに教えた覚えがなかった。
「……どうして、その名を」
「言ったでしょ。私は夢を見ない代わりに、人の夢が見えるの。」
ミリィは微笑みながら、ネリオの胸に指先を当てた。
「あなたの心、今、白い霧でいっぱいよ。その中にあるのは――嘘か、罪か、あるいは愛。」
ネリオは身じろぎし、言葉を探した。だが、その全てが、胸の奥で音を失っていた。
「夢は美しい。でも、それが“記憶を喰う”と知っても、あなたはまだ、彼女に会いたい?」
その問いに、ネリオは答えられなかった。
ただ、小さく頷いた。
その夜もまた、彼は夢に堕ちた。ユゥリは、変わらずそこにいた。湖の水面に月が揺れ、ユゥリはその中に花を浮かべている。
「ねえ、ネリオ。あなたは現実に戻りたい?」
その問いに、ネリオはしばらく沈黙し、それから静かに首を横に振った。
ユゥリは微笑む。
「じゃあ、このままずっと、一緒にいよう。」
彼女の手が伸びてきて、彼の頬に触れる。温かい――それは確かに、現実の体温だった。
けれどその時、ネリオは気づいた。彼女の手は、わずかに透けている。皮膚の奥に、言葉のような影が揺れている。それは断片的な記憶――愛した誰か、失った誰か、許されなかった何か。
それがユゥリの“本体”だった。
目が覚めた時、ネリオは鏡の前に立った。彼は、自分の名前を口に出して言った。だが、その声は他人のもののように聞こえた。
鏡の中の自分が、誰かに似ている――それが、誰だったか思い出せない。
彼はまだ、夢に堕ちようとしていた。狂気は静かに進行していた。
ナイトバザールの深部――その奥には、常夜の霧が満ちた区画がある。
“無夢街”。
夢を見すぎて正気を失った者たちが棲むという、バザールの影の領域。夢と現実の記憶が混じり、誰もが仮面の下で“誰かの役”を演じている。ネリオはその霧の中を歩いていた。
目指すは、夢に干渉する異能を持つ者――“夢探偵”を名乗る少女のもと。夢喰いの正体を知るには、彼女の力が必要だった。
霧の中、ひときわ鮮やかな紅の提灯が灯る一角があった。そこには子供の背丈ほどの背をした、異形の仮面をかぶった人物が待っていた。
「……夢採師さん。ようこそ、“境界”へ。」
仮面が外される。
そこにいたのは、まるで少年のような細い身体に、月白色の長髪をたばねた少女だった。
「私の名前はソラ。“夢の構造”を見る力を持ってる。」
その瞳は澄みきっていて、けれど底知れなかった。ネリオが言葉を選んでいる間に、彼女はすでに続けた。
「あなたの夢……すでに“喰われ始めてる”。」
「……ユゥリのことか?」
ソラは頷かない。ただ、足元の霧を指先でなぞった。霧の中から浮かび上がる映像。湖、白い花畑、銀の髪、笑う少女。ネリオの夢だ。
「これは……記憶から生まれた夢。とても強い感情が核になってる。」
ソラはそこで言葉を切る。
「でもね……彼女はもう、“夢”じゃない。」
ネリオの胸が凍る。
「……どういうことだ?」
「彼女は夢の構造の“外”にいる。つまり――夢喰い。あなたの夢の奥から、“現実に干渉し始めてる”。」
ネリオの目が細まる。
「それがどういう意味か、教えてくれ。」
ソラは小さく息をつき、ネリオの目を真っ直ぐに見た。
「夢喰いは、人の最も強い記憶――愛、罪、後悔――そういったものから生まれる“存在”。」
「……まるで、悪霊みたいだな。」
「そう。けど違うのは、彼女たちは“愛されることで存在を強める”ってこと。」
「……愛が、糧になる?」
「うん。だからね、ユゥリは“あなたが愛し続ける限り”消えない。むしろ、どんどん強くなる。」
ネリオの喉が詰まった。
「……でも、俺は彼女を……」
「愛してる。忘れられない。だって、彼女は“あなたの中にある本物の感情”だから。」
ソラはネリオの胸元にそっと手を置いた。
「このままだと、あなたは彼女のために、全てを手放すことになる。名前も、過去も、現実も。」
「……それでもいい。」
ネリオの声は低かった。だが、迷いはなかった。ソラはしばらく沈黙してから、言った。
「……ならば、“夢の奥”に潜って。」
「夢の奥?」
「うん。“記憶の深層”。彼女の正体を明かしたいなら、あなたの中の、最も古い記憶に触れるしかない。」
ネリオは一歩、彼女に近づいた。
「方法を教えてくれ。」
ソラは笑った。無邪気で、どこか寂しい笑みだった。
「“記憶の扉”を開けるには――まず、自分の最も痛い記憶を“言葉”にすること。」
「……言葉に?」
「そう。声にして、名前をつける。そうすれば扉は開く。だけど……」
ソラの瞳が暗くなる。
「その痛みで、正気を保てる人は少ない。」
ネリオは黙っていた。やがて、低く、言った。
「その扉の先に、ユゥリの真実があるんだな。」
ソラは頷く。
「……なら、やる。」
その目には、決意と――微かな恐怖が宿っていた。
その夜、ネリオは初めて“記憶の深層”へと降りていく。
夢の中で、彼は古い家の前に立っていた。枯れた木。歪んだドア。錆びついた表札。そこには確かに、彼の“過去”が眠っていた。彼の指が、ドアノブに触れたとき、扉の向こうから、ユゥリの声が響いた。
「ネリオ……どうして、私を忘れようとするの?」
その声は、哀しみに満ちていた。だが、ネリオは震える指を止めなかった。扉が、開かれようとしていた――。
扉を開いた瞬間、世界の色が反転した。
暗いはずの夢の中が、昼のような眩しさに包まれた。ネリオは目を細め、歩み出る。そこは、彼がかつて暮らしていた屋敷の庭だった。あの頃の記憶。光の射す日々。夏草の匂いと、風鈴の音。彼はそこに“彼女”の姿を見る。
リゼル――ユゥリに似た、だが明らかに異なる少女。髪は栗色で、目元には小さな泣きぼくろ。よく笑い、よく怒り、そして――彼を救おうとした少女。
「ネリオ、お願い、行かないで!」
遠い記憶の中で、リゼルは手を伸ばしていた。けれど、ネリオは振り返らなかった。彼女が“夢を喰う実験”の被検体にされた時、自分は逃げた。怖くて、彼女を助けられなかった。そしてリゼルは、彼の前から消えた。現実には、“事故”とされた。
だが彼は今、知っている。彼女は、“夢”の中で、なおも叫びを上げていたのだと。そしてその声が、記憶の底で形を得て――ユゥリになった。
ネリオが目覚めたのは、バザールの外れ、ある少年の屋台だった。そこにいたのは、アシェル。小さな体と、氷のように青い瞳。彼は夢と現実をすべて記録する異能を持っていた。
「君は“記録者”か?」
ネリオの問いに、アシェルは頷いた。
「記録は、嘘をつかない。君の夢も、ちゃんとあるよ。」
彼は一冊のノートを差し出した。ネリオがページをめくると、そこには“リゼル”の名が記されていた。
「どうしてこの名前を知ってる?」
「君が、何度も夢の中で呼んでた。何度も、泣きながら。」
その言葉に、ネリオの喉が詰まった。記憶が戻ってくる。夏の日、リゼルが「あなたは夢を追うけど、私は“今”を生きたい」と言って泣いたこと。
「……俺が、彼女を……」
アシェルは静かに首を振った。
「君が“忘れた”だけ。忘れることで、生き延びた。けど、夢は覚えてた。だから、ユゥリは生まれた。」
ネリオは、ノートの中の記録を震える指でなぞった。そこには確かに、愛していた言葉、交わした約束、そして逃げた自分がいた。
「……俺は、彼女を殺した。」
「違うよ。君は“彼女を愛した”んだ。」
アシェルの言葉に、ネリオは顔を上げる。
「ユゥリは、リゼルの残響。でも、“愛された記憶”だけでできてるから、優しい。」
「……でも、記憶を喰う。」
「それは、“忘れられる”ことが怖いからだよ。」
その瞬間、ネリオの胸に雷のような衝撃が走る。
“ユゥリは、忘れられることを恐れている”
それは、自分の中の“罪の意識”そのもの。忘れてはならない過去、でも思い出すにはあまりに痛い。だから、夢の中で優しくなった。
それがユゥリの正体だった。
「……ユゥリに会いに行く。」
ネリオの声に、アシェルは頷いた。
「彼女の記憶の根源は、“白の湖”の底にある。そこまで潜れれば、すべてが見える。」
「見て……どうすればいい?」
「それは、君が決めることだよ。“記憶を取り戻すか、夢に生きるか”。どちらも、正しい。」
ネリオは頷き、ノートを閉じた。ユゥリの微笑みが、胸の奥で揺れていた。
夜市の最奥、灯りも音も届かぬ区域に、ただ一つ、塔のようにそびえる建物がある。その名を「灰燼楼」。
夢を過剰に見続けた者たちの末路を封じた、禁夢学派の遺構。その最上層に、ただ一人の老人がいる。レオン――夢の理を解き明かし、正気を代償に未来を視た者。
ネリオは灰燼楼の扉を開いた。
中は静かだった。時間が流れていないような空間。灰が舞い、壁には誰かの記憶がこびりついている。悲鳴、囁き、祈り、絶叫――全てが沈殿している。
「来たか。」
その声は、砂を噛んだようにざらついていた。老人――レオンは、窓辺に座っていた。彼の目は潰れているのに、ネリオの姿を正確に“視て”いた。
「君の夢は、極めて純度が高い。“愛”が核になっているからだ。」
ネリオは黙ったまま、レオンに近づく。
「リゼルの記憶が生んだ存在、ユゥリ。君はその幻想に、自分の全てを預けようとしている。」
「……彼女は、幻想か?」
ネリオの問いに、レオンはわずかに笑った。
「“幻想”とはね、現実より強く、記憶より鮮やかなものだ。君がそれを“愛してしまった”なら、もう“現実”だよ。」
「でも、彼女は俺の記憶を喰う。」
「君が“忘れたがっている”からだ。」
レオンは立ち上がり、杖を突きながら歩く。
「愛には二つある。“覚えている愛”と、“忘れるための愛”だ。」
「君のユゥリは、後者。――罪を抱えた君が、自分を救うために作った“慰め”だ。」
ネリオは息を呑む。レオンの言葉は、胸の奥に突き刺さる。
「でもね……君は、もうその慰めでは生きていけない。」
「……どうすればいい?」
「君が“現実”に戻るなら、ユゥリは消える。だが、夢に残るなら、君自身が消える。」
レオンはネリオの手を握りしめた。
「どちらも、正解だ。そして――どちらも、喪失を伴う。」
「選ぶのは、君だ。」
その夜、ネリオは再び夢に堕ちた。
今度の夢は、かつてないほど美しかった。湖の水は金に光り、空は星で埋め尽くされていた。
ユゥリは笑っていた。白いドレスを着て、ネリオのもとへ駆けてくる。
「……来てくれた。」
「……お前は、俺の夢だ。」
ユゥリの笑顔が、わずかに曇る。
「そう。私は、あなたが忘れたくない誰か。……でも、それだけじゃない。」
ユゥリは彼の胸に触れる。
「私はあなたの“罪”の形。でも、同時に――“あなたが最後に愛せたもの”でもある。」
ネリオの視界が歪む。涙がこぼれた。
「ユゥリ……お前は、もういないはずの……」
「うん。私は、あなたが選ばなかった少女。」
「なら、どうして……まだここに?」
「あなたが、まだ私を忘れないから。」
ユゥリは微笑んで、そっと彼にキスをした。その接吻は、世界を歪めた。記憶の波が襲い、空が落ち、湖が渦を巻く。彼女の体が光となり、崩れていく。
「ありがとう、ネリオ。」
「愛してくれて。」
「でも、もう――」
「私を、許して。」
そしてユゥリは、彼の腕の中で消えた。ネリオの胸には、白い花びらが一枚だけ、残されていた。
目覚めた時、彼の部屋は静かだった。鏡の中の自分が、わずかに笑っていた。
記憶は戻った。
痛みも、喪失も、全てがそこにある。けれど――もう、逃げなくてもいいと思えた。夢と現実の境界に、ひとつの灯りがともった。
白い湖の岸辺に、ネリオは立っていた。
もう夢と現実の境界はなかった。そこにあるのは、彼の心の深層――記憶の源泉であり、罪の泉でもある。湖面にユゥリが立っていた。ドレスは揺れず、髪も風に流れなかった。まるで時間から解き放たれた像のように、ただそこにいた。
「来てくれたんだね。」
ネリオは頷いた。もう問いも疑いもなかった。
「お前は、リゼルじゃない。でも、俺が愛した存在だ。」
ユゥリは微笑んだ。その笑みは、いつか現実で見たような、彼の記憶の奥にこびりついていた少女の微笑みと重なっていた。
「ネリオ。私、嬉しかったんだよ。忘れられても、あなたの中に残ったことが。」
彼女は両手を広げた。光がその身から溢れ、彼の記憶を呼び寄せる。過去、笑い合った日々。裏切った夜。泣いていた少女。そして――夢の中で、何度も交わした接吻と約束。
「でも……もう、限界なの。これ以上は、あなたの記憶を奪うだけになってしまう。」
ネリオは黙って、彼女の手を取った。
「……俺は、全部失っても、お前といたいと思った。でも、今はわかる。」
「お前は、忘れてはならないものだったんだ。」
「愛とは……消せない記憶なんだよ。」
ユゥリの瞳が潤む。
「ねえ、ネリオ。じゃあ、どうするの?」
「お前を――俺の記憶の中に戻す。」
ネリオは白い花びらを取り出した。それは、彼女が最後に残してくれた“証”。
「この花を、湖に還す。それで、お前は記憶になる。忘れない。けど、夢でもない。」
ユゥリは静かに頷いた。
「それは……とても寂しい。でも、とても嬉しい。」
彼女の姿が淡くなっていく。
「ありがとう、ネリオ。」
「私を、ちゃんと愛してくれて。」
「私を……ちゃんと、終わらせてくれて。」
最後の瞬間、ユゥリはもう一度微笑んだ。
「私は、あなたの夢だった。でも、あなたの現実でもあった。」
「さようなら。私の大好きな人。」
そして、彼女は湖の光の中に還った。白い花びらが、水面に浮かんで揺れた。その波紋が、彼の記憶の深層に溶けていく。
ネリオは目を閉じた。もう夢は見ない。
けれど――記憶は、彼の中に咲き続けていた。
ナイトバザールの灯りは、今夜も静かに瞬いている。魔月は青白く、どこまでも遠く、そして相変わらず優しく冷たい。夢を売る声が響き、記憶を量る天秤が揺れ、仮面を被った者たちが夜を歩く。その一角。小さな屋台がある。
飾り気のない木製の台に、粗末な布を被せただけの簡素な店。けれど、その屋台には、不思議な温かさがあった。そこには、一人の青年がいた。黒い外套に仮面のない顔。灰色の瞳は穏やかで、静かな微笑みを湛えていた。
彼の名を知る者はいない。けれど、彼を見た者は皆、どこかで会ったような懐かしさを覚えるという。その隣には、一人の女性が寄り添っていた。銀の髪。月の光を映したような瞳。名前は、誰も知らない。
彼女は笑い、彼の手をそっと握る。その手は、確かにあたたかかった。彼らが何者なのか、どこから来たのか、誰も知らない。けれど、誰もが知っている。
――彼らは、「夢の端」に咲いた、ひとつの“完成された愛”なのだと。
■作者のコメント
夢に何を望みますか? 愛した記憶を慰めとするのか、それとも忘れて歩き直すのか――。本作は、夢の中にしか咲かなかった“もう一つの愛”を描きました。いつか夢の端で、あなたの記憶と交差することができたなら、それ以上の幸せはありません。