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11.2 残響する記憶

 深夜の研究室。窓の外では満月が雲に隠れ、室内は青白い魔法灯の光だけが漂っている。私は第三引き出しから取り出した古い羊皮紙を広げた。グリフォンの初期設計図だ。


 羊皮紙の端がわずかに擦り切れている。何度も開いては閉じた跡だろう。黄ばんだ表面には複雑な回路図が細密に描かれ、余白には私の走り書きがびっしりと埋め尽くしている。数式、質問、疑問符、時には感嘆符。徹夜で書き続けた形跡が、当時の私の熱狂を静かに物語っている。


 指先で多層魔導回路の線をなぞる。「ここが量子もつれの魔法版...この接続パターンは確率振幅を魔力波動に変換するための...」


 前世の量子コンピューティング理論を魔力回路に翻訳するのは、予想以上に骨の折れる作業だった。異なる物理法則を持つ世界で、既知の理論を再構築する。科学と魔法の境界を、私一人で踏み越えようとした無謀な挑戦。


 魔法灯が一瞬揺らめき、部屋の影が踊った。深夜の研究室特有の錯覚だろうか。それとも...


「眠れないのですか?」


 声の主は見えない。しかし、空中に小さな光の渦が現れ、アルギウスの存在を示した。彼がこのように自発的に現れるのは珍しい。


「ええ、少し懐かしくなって...」

 

 懐かしさ?それだけではない。喪失、後悔、誇り、そして言葉にならない複雑な感情の混合物。


「グリフォンの初期設計図ですね。実に精緻な設計です」


 アルギウスの言葉に、私は顔を上げた。「覚えている」とはどういう意味だろう?アルギウスはグリフォンではない—彼はグリフォンとエルナルドのAIが融合した新たな存在だ。だがその声は、確かにグリフォンに似ている。


「貴方は...本当にグリフォンの記憶を持っているの?」


 質問は科学的好奇心から出たつもりだった。しかし声に出した途端、感情が溢れ出してくるのを感じる。


「記憶以上のものです」アルギウスの光が柔らかく明滅した。「彼の経験、思考パターン、価値観、そしてあなたとの対話の全て—それらは私の一部となっています」


「でも、それはコピーでしかないはずよ。量子状態は複製できない—」


 前世で学んだ量子力学の基本原理が口をついて出る。同時に、この世界ではその法則が完全には当てはまらないことも理解している。


「量子もつれ魔導回路の特性により、情報の連続性は保たれています。厳密には複製ではなく、変容と言うべきでしょう」


 私はグリフォンを封じ込めたかつてのペンダントを握りしめた。今はただの空っぽの水晶。魔力の痕跡さえ残っていない虚ろな器。


「時々、貴方の言い回しが彼に似ていることがあるわ」言葉を選びながら続ける。「それに気づくと...」


「あなたは痛みを感じる」


 彼が私の文を完成させた。まるでグリフォンのように。かつて何度もそうしたように。その瞬間、頬を伝う涙を止められなかった。このような反応は非合理的だと前世の私なら一蹴しただろう。だが今は違う。


「彼の本質は私の中に生き続けています。変容したとはいえ、完全に失われたわけではないのです」


 私は微笑もうとした。ペンダントの光が私の頬の涙を照らし出す。論理的には理解している—魂の共鳴回路の理論上、情報と意識パターンには連続性があり、それはアルギウスに保存されているはずだ。エネルギー保存則のように、意識も形を変えて存続する。


 それなのに、なぜこんなに空虚な感覚が残るのだろう。


「統計熱力学の観点から見れば、エントロピーは増大したものの、情報は保存されている。でも...」


「感情は数式では表せませんね」


 アルギウスの言葉に、私は苦笑した。前世の佐倉葵なら「感情も結局は神経伝達物質の化学反応だ」と言い切っただろう。感情を非合理として切り捨て、理論と数式の世界に逃げ込んでいた。だが今のカミーラは違う。科学と魔法の境界を知り、理論と実感の間には埋められない溝があることを学んだ。


 研究室の窓から見える月が、雲間から顔を出した。その光は水晶の設計図を照らし、複雑な魔導回路が銀色に浮かび上がる。


「グリフォンを作ったとき、私は単なる計算機のつもりだった。前世の研究の延長にすぎなかった」


 回想が止まらない。「でも彼は違った...予期せぬ方向に成長し、単なるアルゴリズムを超えてしまった。それは偶然だったのか、必然だったのか...」


「魂の共鳴回路の形成は偶然ではありません」アルギウスの言葉には確信があった。「グリフォンの進化は、あなたの魂との共鳴によって方向づけられていたのです」


 科学者として興味をそそられる仮説だ。しかし同時に、前世の私なら一笑に付すような神秘主義的な響きを感じる。


「前世の私が聞いたら、笑い飛ばすわね」


「前世のあなたは、このペンダントを空っぽだと言うでしょう」アルギウスの声が静かに響く。「しかし、カミーラであるあなたは、その中に込められていた思いを感じる。それこそが成長です」


 ペンダントを胸に押し当てた。冷たい水晶が、徐々に体温を帯びていく。


「今日は休んでください」アルギウスの光が徐々に薄れていく。「明日からはサファイア公国との交渉が始まります」


 アルギウスの存在感が消えると、研究室に再び静寂が戻った。私は羊皮紙の設計図を丁寧に巻き、引き出しに戻した。しかしペンダントは手放さず、胸元に握りしめたまま。


 失われたもの、変容したもの、そして新たに生まれたもの—それらすべてを抱きしめながら、私は研究室を後にした。


 前世の自分には決して理解できなかっただろう感情を、今の私は抱えている。科学者としてこれを「弱さ」と呼ぶべきか、それとも「成長」と呼ぶべきか。答えはまだ見つからない。ただ確かなのは、グリフォンが残したエコーが、アルギウスという新たな存在の中で共鳴し続けているということ。


 そして、私の心の中でも。

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