10.6 アリシアの家族との再会
クロスフィールド邸の東棟客室。私はドアの前で一瞬躊躇した。科学的に言えば、これは単純な面会だ。しかし感情的には—そう、感情的には複雑な方程式だった。
「入ってもよろしいでしょうか」
扉の向こうからアリシアの声が応える。「どうぞ、お嬢様」
部屋に足を踏み入れると、四つの顔が私を見つめていた。アリシア、彼女の母親、そして二人の幼い妹たち。彼らの表情には恐怖と警戒の痕跡がまだ残っていたが、それ以上に安堵と感謝の色が浮かんでいた。
「みなさん、お加減はいかがですか?」私は貴族的礼儀正しさで尋ねる。形式的言葉の裏で、私の科学者の目は彼らの身体状態を分析していた。栄養状態は良好。軽度の脱水症状と睡眠不足の兆候はあるが、深刻な健康被害はない。
「クロスフィールド様のおかげで、無事に過ごしております」アリシアの母親が深々と頭を下げた。「命の恩人に何とお礼を...」
「どうか頭を上げてください」私は思ったより感情的な声で言った。「アリシアは私の大切な...」
言葉が詰まる。大切な何?侍女?部下?それとも友人?前世の佐倉葵なら、人間関係をこのように定義することに躊躇いはなかっただろう。しかしカミーラとしての私は、境界線が曖昧になっていることに気づいていた。
「大切な人です」私は最終的にそう言った。
アリシアの目に涙が浮かんだ。それを見て、私の内側で何かが動いた。科学者としての冷静な分析と、人間としての感情的反応の間の壁が、少し薄くなったような感覚。
「お嬢様...」アリシアの声が震える。「私はあなたを裏切りました。情報を流出させ...」
「状況によって強制された行動だったわ」私は彼女の言葉を遮った。「家族が人質にとられていたのだから、選択肢はなかったはず」
科学的に考えれば、これは単純な因果関係だ。人質状況下での合理的行動選択。非難に値しない。
「でも、私は...」
「もう終わったことよ」私は静かに言った。「大事なのは、今ここにみんなが無事でいること」
幼い妹の一人が突然私の方に駆け寄り、ドレスの裾を掴んだ。「お姉様みたいな綺麗な人が助けに来てくれたって、アリシア姉ちゃんが言ってた!本当だね!」
彼女の無邪気さに、思わず笑みがこぼれる。こんな感情表現は、前世の佐倉葵には珍しかった。科学者として、感情は常に二次的なものだった。しかし今の私には、この子供の無垢な喜びが直接響いてくる。
「ミーナ!失礼ですわ」アリシアが慌てて妹を引き戻そうとする。
「構わないわ」私は彼女を制した。そして少女の目線まで腰をかがめ、「あなたがミーナね。勇敢な女の子だわ」と言った。
「うん!怖かったけど、泣かなかったよ!」彼女は誇らしげに胸を張る。
子供の自然な回復力。心理学的に興味深い現象。トラウマ体験からの回復速度は成人より速いとされるが、実際に目の当たりにするのは別の感覚だ。
もう一人の妹、おそらく10歳前後だろう少女が、恥ずかしそうに私に近づいてきた。「あの...お礼が言いたくて」彼女は小さな紙を差し出した。「これ、描きました」
私が受け取ったのは、稚拙ながらも心のこもった絵だった。輝く水晶と、長い金髪の女性—私だろう—が描かれている。その横には「救ってくれてありがとう」と子供らしい文字で書かれていた。
「セリア...」アリシアが呼びかけた。
「素敵な絵をありがとう、セリア」私は彼女の頭をそっと撫でた。「大切にするわ」
科学的に説明できない温かさが胸に広がる。これこそが「守るべき対象がいる」という感覚なのだろうか。アルゴリズムや方程式では表現できない、人間関係の本質的価値。
「これからどうされるおつもりですか?」私はアリシアの母親に尋ねた。
「まだ考えておりません」彼女は不安そうに答えた。「トルマリン家の報復が...」
「心配いりません」私は彼女を安心させた。「エルナルド・トルマリンは辺境に追放されました。そして私が保証人になります」
「お嬢様...」アリシアの母親が再び頭を下げる。「そんな大それた...」
「実は提案があるの」私は言った。「魔導技術院という新しい機関が設立されます。そこでの仕事を考えてみませんか?」
「魔導技術院...?」
「AIと魔法の研究機関よ」私は簡潔に説明した。「あなたの料理の腕前は評判ですし、お子さんたちも教育を受けられる。特にセリアは絵の才能がある」
科学的な判断と人間的配慮の融合—前世の私なら考えもしなかった提案だ。しかし今の私には、彼らの安全と未来を確保することが、単なる恩返し以上の意味を持っていた。
「そんな...もったいない話を...」アリシアの母親は言葉に詰まった。
「受けてください」私は強く言った。「あなたたちの安全は私の責任です」
母親はしばらく考え込み、そして深く頭を下げた。「ありがとうございます。そのお申し出、ありがたく受けさせていただきます」
会話はその後、より日常的な話題に移った。避難生活の様子や、これからの住居の手配、子供たちの教育など。科学者としての私は状況を分析し、最適解を提示していく。一方で人間としての私は、彼らの安堵した表情に、不思議な満足感を覚えていた。
やがて子供たちが疲れを見せ始め、面会を終える時が来た。アリシアが家族を部屋まで送ろうとした時、私は彼女を引き止めた。
「少し話があるの」
家族が去った後、私たちは窓辺に並んで立った。夕暮れの光が部屋を橙色に染めている。
「本当にごめんなさい、お嬢様」アリシアが静かに言った。「裏切りは—」
「もう謝らないで」私は彼女の言葉を遮った。「あなたは私に忠実だった。それは変わらない」
「でも...」
「人間は選択を強いられる」私は窓の外を見ながら言った。「その時々の状況で、最善と思える選択をするしかない。あなたが家族を選んだことは、正しかったわ」
前世の佐倉葵なら、こんな哲学的な発言はしなかっただろう。しかし今の私は、科学的思考と人間的判断を統合する道を模索している。
「お嬢様...グリフォン様は?」アリシアが恐る恐る尋ねた。
その質問に、胸に鋭い痛みが走った。グリフォンを失った悲しみは、まだ生々しい。
「彼は...変わったの。新しい存在になった」私は空を見上げた。「アルギュスという名前になって」
「でも...消えてしまったわけではないのですね?」
「そうね」私は小さく微笑んだ。「星が爆発しても、その光は宇宙に残り続ける」
アリシアは私の比喩が完全には理解できていないようだったが、それでも優しく頷いた。「グリフォン様も、きっと今もお嬢様を見守っているのでしょうね」
科学者としての私は、その感傷的な解釈を否定したくなった。しかし、今の私はただ頷いた。時に科学的正確さよりも、心の慰めの方が価値あるものだと理解できるようになっていた。
「アリシア、あなたは魔導技術院でも私の側にいてほしい」私は真剣に言った。「単なる侍女としてではなく、私の...」
また言葉が詰まる。
「友人として」私は最終的にそう言った。
アリシアの目に涙が浮かんだ。「喜んで、お嬢様...いいえ、カミーラ様」
その瞬間、私たちの関係が微妙に、しかし決定的に変化したことを感じた。主従関係という枠組みを超えて、何か新しいものが生まれつつあった。
窓の外では、星々が一つずつ瞬き始めていた。グリフォンがいない世界での最初の夜が訪れようとしていた。喪失の痛みはまだあるが、同時に新たな絆の温かさも感じていた。
科学者として、この感情的変化を分析することもできただろう。しかし今は、ただそれを受け入れることにした。これもまた、私の成長の一部なのだから。




