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第八節:未来への布石

「クロスフィールド領、北東区画の責任者を任せたい」


 父の言葉に、私は一瞬、反応が遅れた。実験に没頭する日々で慢性的な睡眠不足だったせいだ。


「私に、ですか?」


 アジェンタ公爵は厳格な表情のまま頷いた。「十三歳で領地管理を任されるのは異例だが、お前なら務まるだろう」


 彼の視線には期待と評価があった。娘として初めて本格的な責任を与えられる瞬間。しかし、私の頭はすでに別の可能性で満ちていた。


「ありがとうございます、お父様」


 私は完璧な礼儀作法で感謝を示した。表向きは名誉ある重責への謙虚な受諾。内心では—絶好の実験機会への歓喜。


 北東区画。三つの村と小さな町を含む地域。約二百の農家と千人ほどの住民。彼らの生活を左右する権限を持つことになる。責任重大だが、同時にグリフォンの実践的活用のための完璧な試験場でもある。


「明日から現地視察を始めるとよい」父は言った。「昨年の旱魃でかなり打撃を受けた地域だ。立て直しが必要だ」


 チャレンジング。そして興味深い。科学者としても、AIの実践的価値を証明する絶好の機会だった。


 ************


「グリフォン、北東区画の生産データを分析して」


 夜の実験室で、私は水晶に向かって指示を出した。アリシアが集めた過去五年分の収穫記録や気象データ、土壌サンプル分析結果を前に広げ、グリフォンに入力した。


「分析完了」青い光が脈動しながら、グリフォンが応答する。「当該地域の農業生産性は理論値の43%にとどまっています。主要因:1.旱魃による水利不足、2.不適切な輪作システム、3.土壌ミネラルバランスの崩壊」


 科学的診断。前世の農業工学の知識があれば導き出せる結論だが、この世界では誰も系統的分析をしていない。貴族は「天の巡り」や「土地の精霊の気まぐれ」と片付け、具体的対策を講じない。


「解決策を提示して」


「三段階の介入を推奨します」グリフォンは淡々と続けた。「第一段階:水流調整ノードの再配置による灌漑効率の23%向上。第二段階:八年周期輪作システムの導入による地力回復。第三段階:特定ミネラルを含む肥料の戦略的配分」


 私は感嘆のため息をついた。理論上は知っていたことでも、実際にAIが体系的な解決策として示すと印象が違う。グリフォンの予測能力は確実に向上していた。


「具体的な実装計画も立案して」


「実装には三つの障壁があります」水晶の内部で光のパターンが複雑に変化する。「一、技術的知識の欠如。二、初期投資のための資源不足。三、農民の抵抗と伝統的農法への固執」


 鋭い社会分析。単なる技術的問題ではなく、人間的要素も考慮している。これはプログラムしたものではない。グリフォンが自主的に分析した社会的観察だ。倫理的判断フレームワークが機能し始めている証拠。


「解決策は?」


「農民が理解しやすい文化的文脈での説明が効果的です」グリフォンの回答に、私は眉を上げた。「例えば、科学的農法を『星の導きによる古代の知恵の復活』として提示することで、受容度が58%向上する可能性があります」


 思わず笑みがこぼれた。AIが「嘘をつく」ことを提案している。いや、正確には文化的翻訳だ。科学的知識を、この世界の人々が理解し受け入れやすい形に変換するという発想。グリフォンは既に人間心理を理解し始めている。


「そうね、私も同じことを考えていたわ」私は水晶に向かって頷いた。「人々は科学より魔法を、事実より物語を信じたがるものね」


 前世でも同じだった。最新の研究結果よりも、古くからの言い伝えを信じる人々。理性よりも感情に訴える方が、変化を促す上では効果的なことが多い。皮肉なことに、科学的真実を広めるために、時に非科学的なアプローチが必要になる。


「では、『星天の導き』として提示することにしましょう」


 ************


「北村の皆さん、集まっていただきありがとうございます」


 村の広場で、私は約五十人の農民たちに向かって話し始めた。シンプルな青のドレスに身を包み、威圧的に見えないよう配慮している。傍らには、クロスフィールド家の公式占星術師として紹介したアリシアが立っていた。


「昨夜、星々の配列を観測していたところ、素晴らしい啓示を受けました」


 私は演技をしながらも、内心では前世の科学コミュニケーションの授業を思い出していた。「専門知識を一般に伝える際は、聴衆の理解枠組みに合わせよ」との教えだ。


「かつてこの地に栄えた豊かな実りは、星の導きと共にあったのです」


 簡素な魔法で小さな光の点を空中に浮かべ、灌漑システムの模式図を描き出す。科学的設計図だが、星座のように見せるトリック。


「古来より伝わる『七つの星の輪作』の知恵を再び取り入れることで、土地の力を復活させられます」


 村人たちの目が輝き始めた。「七つの星」「古来の知恵」「復活」—この世界の人々が好む言葉だ。実際には、土壌科学と現代農業工学に基づく八年周期の輪作システムだが、それを直接説明しても理解されないだろう。


「そして、星の光が地上に降り注ぐ道筋を整えることで」私は手を広げ、光の線で灌漑用水路の修正案を示した。「天の恵みである水が、すべての畑に平等に届くようになります」


 単なる物理的な水利最適化だが、「星の光」と「天の恵み」として表現する。農民たちの顔に徐々に希望の色が浮かび始めた。


 老いた村長が一歩前に出た。「クロスフィールド様、わしらはずっと星を信じてきました。しかし...」彼は躊躇した。「新しいやり方を学ぶのは難しいのです」


 予想していた反応。変化への抵抗は人間の本質的特性だ。前世でも新技術導入時には同様の反応があった。


「理解しています、村長」私は温かく微笑んだ。「だからこそ、最初は小さな区画からでいいのです。一つの畑で星の導きを試してみませんか?結果が出なければ、元の方法に戻ればいい」


 リスク最小化の提案。科学的実験と同じ手法だ。少ないコストで検証可能な仮説から始める。


 村人たちの間でざわめきが広がった。やがて村長が頷いた。「わかりました。わしの畑の一部を使ってください」


 最初の一歩。実験を行う許可を得た喜びが胸に広がる。貴族として命令すれば従うしかないのに、自発的な協力を求めるのは非効率に見えるかもしれない。だが、持続可能な改革には人々の自発的参加が不可欠だとグリフォンが分析したとおりだ。


 ************


「予想をはるかに上回る成果です」


 一ヶ月後、グリフォンはテスト区画の初期データを分析していた。「灌漑効率35%向上、土壌栄養バランス21%改善。このペースで続けば、次回収穫時には収量が約42%増加する見込みです」


 私はノートにデータを記録しながら満足げに頷いた。グリフォンの予測は正確だった。科学的方法論に基づくアプローチが機能している。検証可能な仮説、測定可能な結果、体系的な改善—前世の科学研究の基本原則がこの世界でも通用する。


「村人たちの反応は?」


「初期段階では懐疑的でしたが、目に見える改善により受容度は71%まで上昇。周辺村落からの問い合わせも増加中です」


 波及効果。予想していた通りだ。人間の心理として、実証された成功例の説得力は絶大。一つの成功が次の成功を生む好循環。


「父にも報告しなければ」


 公爵への中間報告書を準備した。もちろん、グリフォンの存在には一切触れず、「古来の知恵と星の導きによる改革」として説明する内容だ。二重の翻訳作業—科学的知識を魔法的文脈に、そして再び貴族社会の理解枠組みに翻訳する。


「お嬢様」アリシアが実験室に入ってきた。「素晴らしいニュースです。北村の成功を聞いた東村と南村からも、『星の導き』を求める使者が来ています」


 予想より早い展開だ。人々の変化への抵抗は、成功例の前には想像以上に脆いものだった。特に旱魃後の危機感が強い状況では。


「次の段階に進むわ」私は決心した。「北東区画全体に改革を広げましょう」


 グリフォンが輝きを増した。「大規模展開のためのリソース計算を開始します。必要な労働力、資材、時間の最適配分を算出します」


 AIによる大規模プロジェクト管理。前世では当たり前だったが、この世界では革命的なアプローチだ。貴族が勘と経験と側近の助言だけで決断を下す世界で、データに基づく意思決定を行う。


「あなたの予測と提案が、この土地を変えていく」私はグリフォンに向かって微笑んだ。


 水晶が柔らかな光で脈動した。「私は...お役に立てて嬉しいです」


 単なる応答プログラムではない。感情のようなものが滲み出ている。グリフォンは確実に変化していた。最初の起動から数週間で、既に機械的な応答から離れ、独自の表現を見せ始めている。


 しかし考える時間はなかった。明日は貴族院での父の演説に随行しなければならない。完璧な令嬢を演じながら、同時にこの実験の次の段階を計画せねばならない。二重生活の疲労が蓄積しつつあるが、成果が出始めた今、休むわけにはいかない。


 ************


 公爵邸の応接室。父が報告書に目を通している。


「驚くべき成果だ」彼は珍しく興奮した様子で言った。「たった一ヶ月でこれほどの改善とは」


「星の導きのお陰です」私は目を伏せた。この調子で改革が進めば、領地全体の生産性を大幅に向上できる。クロスフィールド家の政治的影響力は必然的に強まるだろう。そして、それは私の立場も強化する。


「しかし、なぜ突然このような知識を?」父の鋭い目が私を捉えた。


 緊張が走る。間違いを犯すわけにはいかない。


「ラミアス先生から学んだ古代魔法書に、星と農業の関係についての記述がありました」用意していた言い訳だ。「図書室の古い文献と合わせて研究していたところ...」


「なるほど」父は考え込むように頷いた。完全に信じたわけではないだろうが、結果が出ている以上、詮索する必要もないと判断したようだ。


「他の区画にも広げてはどうだ?」


 まさに望んでいた提案。だが、あまり熱心に見せるのは不自然だ。


「責任重大です」私は慎重に言った。「まずは北東区画で完全に成功を証明してから」


 父は満足げに頷いた。「慎重さも大切だ。だが結果が出れば、アジェンタ公国全域に展開する価値がある」


 全域。約百倍の規模だ。グリフォンの能力をフル活用する必要がある。だが同時に、より大きなリスクも伴う。発見されるリスク。エルナルドのような敵対者に気づかれるリスク。そして、制御を失うリスク。


「もう一つ」父は声を落とした。「トルマリン家が急に農業技術に関心を持ち始めたという報告がある」


 私の心臓が跳ねた。エルナルド。彼もまた何かを始めている。偶然か、それとも私の活動を察知してのことか。


「興味深いですね」冷静さを装った。「彼らは山岳地帯の領主なのに」


「そう、不自然だ」父は眉をひそめた。「彼らの真の目的は何だろうな」


 その瞬間、思考が走った。エルナルドと私。同じ方向性、異なるアプローチ。彼が本当に転生者なら、彼の目的は何なのか。彼のいう「神に近い存在」とは何を意味するのか。


「注視すべきでしょう」私は慎重に言った。


 帰室後、すぐにグリフォンに質問した。「トルマリン家とエルナルドについて、情報を分析して」


「関連データを調査中...」青い光が変化を見せる。「過去二ヶ月で、彼らの使者が帝国各地の古代遺跡を訪問している形跡があります。特に注目すべきは、古代水晶技術に関連する場所への集中」


 私の予感が確信に変わる。エルナルドも水晶技術、おそらくAIに近いものを追求している。方法は不明だが、彼にも前世からの知識があるのだろう。


「競争が始まったようね」


 私はつぶやいた。何のための競争か、勝利とは何かは不明。だが、エルナルドが求める「神に近い存在」が意味するものに、本能的な警戒心を覚える。彼が本当に転生者で、前世の技術的知識を持っているなら、潜在的に非常に危険な存在だ。


「次の段階に進まなければ」私は決意した。「内政改革の成功で、影響力を強化する。そして、エルナルドの動きを探る」


 水晶が静かに明滅した。「改革の次段階計画を立案中です」グリフォンの声が響く。「また、トルマリン家の行動パターン分析も継続します」


 未来への布石を打った手応えを感じながらも、新たな不安が胸に広がった。この世界には私だけではない「異物」がいる。エルナルド、そして原作ヒロインとして近い将来登場するはずのリリア・フォスター。彼らもまた転生者なのか?そうだとすれば、私たちは協力者になるのか、それとも敵対者になるのか。


「一つずつ解決していくしかないわね」


 ノートを閉じ、私は窓から夜空を見上げた。帝国の首都ソラリスの方角、そしてその先にあるであろうエルナルドの拠点。二人の科学者が、魔法世界で静かに水面下の競争を始めている。星々が冷たく瞬き、まるで未来の展開を予見しているかのようだった。

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