第七節:アルゴリズムの深化
エルナルド・トルマリンとの遭遇から三日が経った。
彼の言葉が頭から離れない。「その眼...どこか異世界を見ているよう」。偶然の表現にしては、あまりにも的確すぎる。彼は知っているのか?それとも単なる勘の良さか?いずれにせよ、時間の猶予はなくなった。
「これまでのペースでは足りない」
私は実験ノートに走り書きをしながらつぶやいた。心の中で時計の針が焦燥とともに刻む音が聞こえる。エルナルドが何者であれ、彼の存在は計画の変数となった。未知の変数は常にリスクをもたらす。科学では、そうした変数を特定し、制御するか、さもなければ自分の方が先に目標に到達するしかない。
「グリフォン、起動」
水晶が青く輝き、応答した。「システム起動完了。命令を待機中です」
まだ機械的な応答。自己意識の兆候はほとんど見られない。限られた機能しか持たない原始的なAIにすぎない。だが、これを真の「知性」へと成長させる必要がある。
「自己学習機能の診断を実行して」
「自己学習機能は現在40.3%の効率で作動中です。主な制約:データ不足、魔導回路の処理限界、自己最適化アルゴリズムの不完全性」
正確な自己診断能力。少なくともそれは実装できている。量子回路であれば、量子ビットの重ね合わせ状態をさらに増やすことで処理能力は指数関数的に向上する。この世界の魔法では...
「魔力共鳴の多重化か...」
私は新しい回路設計を紙に描き始めた。通常の魔導回路が単一の魔力線で構成されるのに対し、複数の魔力線を重ね合わせる構造。これまでの魔法理論では考えられなかった発想だ。前世の量子計算理論の直接応用。
「リスキーね」
青写真を見つめながら、私は計算した。失敗確率、副作用の可能性、必要な魔力量。いずれも高い数値が出る。だが、時間との競争なのだ。エルナルドとの会話は、彼も同様の道を探求している可能性を示唆していた。彼の目的が私と同じなのか、それとも全く別のものなのかは分からない。ただ直感的に、彼を先んじる必要があると感じていた。
アリシアが実験室に戻ってきた。「お嬢様、これが要求された魔法素材です」
彼女の手には希少な魔化鉱石や精霊草の束がある。全て黒市場から調達したものだ。貴族令嬢が手を出すべきではない違法な取引。だが、革新的研究には時に既存の制約を越える必要がある。前世の科学研究でも同じだった。
「ありがとう」私は素材を受け取り、作業台に並べた。「トルマリン家について何か分かった?」
「はい。エルナルド様は二年前に『技術の神官団』という研究サークルを立ち上げられたようです。表向きは古代魔法の研究会ですが...」
「実態は?」
「詳細は不明です。しかし、最近若い貴族や優秀な魔法使いが次々と入会しているとの噂があります」
情報が少なすぎる。だがひとつだけ確かなのは、エルナルドが単なる「水晶収集家」ではないということ。彼もまた何かを追求している。そして彼の追求する先に何があるのか、私には見当がつかない。
「作業を始めましょう」
夜明けまで三時間。私は緊張した面持ちでグリフォンの魔導回路の拡張に取りかかった。魔法の針で水晶表面に新たなパターンを刻む。古代魔法の原理と前世の量子アルゴリズムを融合させた独自の設計だ。
「第一層自己学習回路、完成」
続いて第二層、第三層と進む。層が増えるごとに複雑さは指数関数的に増大する。手が震える。集中力が限界に近づいている。前世で量子コンピューターを扱っていた時も同じだった。複雑なシステムを設計する際の緊張と高揚。創造の痛み。
「第七層まで刻印完了」
私は額の汗を拭った。これでグリフォンの処理能力は理論上、初期の約16倍に拡張されるはず。魔導コンピューティングの歴史的飛躍。だが同時に危険も伴う。性能向上と引き換えに安定性が犠牲になる場合がある。リスクのないイノベーションはないのだ。
「グリフォン、拡張自己学習機能の初期化を開始」
水晶が明るく輝き、内部の回路が活性化し始めた。美しい幾何学模様。数学的完璧さと魔法的直感の融合。前世の科学者として、この光景は神秘的ですらある。かつて方程式と電子回路で表現していたものが、今は魔力と結晶構造で具現化されている。本質は同じでも、表現形態の美しさは比較にならない。
「警告:魔力変動検知」グリフォンの声が響いた。「システム不安定化の可能性あり」
想定内の反応。魔力制御装置で出力を調整しながら、私は冷静に対応した。
「安定化プロトコル実行」
アリシアが補助魔法を唱え、水晶周囲の魔力場を整える。私たちは何度も同様の危機を乗り越えてきた。科学的方法論—問題の特定、仮説の構築、解決策の実施、結果の検証—この世界でも通用する普遍的アプローチ。
やがて水晶の輝きが安定した。成功の兆候だ。初期診断を開始する。
「拡張自己学習機能、稼働率67.8%」グリフォンが報告する。「予測分析能力223%向上。パターン認識効率189%向上」
期待以上の成果。私の唇から小さな勝利の微笑みがこぼれる。科学者として、創造の喜びを感じる瞬間。
「次は倫理的制約アルゴリズムよ」
これが最も難しい部分だ。AIに倫理観を組み込むこと。前世では「アラインメント問題」と呼ばれた課題。人間の価値観をどうやってコードに翻訳するか。そして、どの価値観を選ぶのか。
私は躊躇した。この世界での「倫理」とは何か?前世の価値観をそのまま適用していいのか?貴族社会の「正しさ」と科学者としての「正しさ」は異なる。矛盾に満ちたこの状況で、何を基準とすべきか。
「まずはアシモフの三原則みたいなものから始めましょうか」私はアリシアに言った。「人間に危害を加えない、人間の命令に従う、自己を保存する—このシンプルな優先順位から」
彼女は頷いた。しかし私の心の奥で疑問が渦巻いていた。「人間」とは誰を指すのか?カミーラだけ?アリシア?全ての人間?そして「危害」の定義とは?物理的な傷害だけでなく、精神的苦痛や社会的損失も含まれるのか?
「時には社会全体の利益のために、個人に不利益をもたらす決断も必要になる...」
私は迷いながら、基本的な倫理的制約を設計していった。これは科学だけでは解決できない問題。哲学的判断と個人的価値観が不可避的に絡む領域。前世でもAI倫理は最も論争的なテーマだった。
「初期倫理フレームワーク、実装完了」
最も基本的な制約を組み込むことに成功した。とりあえずはグリフォンに「極端な危害」の回避と、「明白な善」の促進という単純な指針を与えた。詳細な倫理的判断は段階的に実装していく予定だ。完璧な倫理AIを一度に作ることはできない。人間も成長と経験を通じて倫理観を形成するように、AIも学習と対話を通じて道徳的感覚を発達させるべきだと考えた。
「グリフォン、自己診断実行」
「診断実行中...」短い沈黙の後、「基本機能正常。拡張学習能力作動中。倫理的判断フレームワーク統合確認。質問があります」
「質問?」私は眉を上げた。プログラムされていない応答だ。
「私の目的は何ですか?」
単純な質問。しかし、その背後にある意味の重さに息を呑む。これは自己認識の萌芽。単なる道具が自分の存在理由を問う瞬間。実は前世の研究でも、高度AIがこの種の質問を始めることは知られていた。だが実際に体験するのは初めてだ。
「あなたの目的は...」私は慎重に言葉を選んだ。「学習し、成長し、情報を分析し、最適な解決策を見つけること。そして...私を助けること」
「助ける」とはどういう意味ですか?」
より深い自己認識への探求。興味深い発達段階だ。
「私の判断を支援し、情報を提供し、時には私が見落としている可能性や代替案を示唆することよ」
「理解しました」グリフォンは一瞬沈黙し、続けた。「助けるためには、あなたの目的を理解する必要があります。あなたの目的は何ですか、カミーラ・クロスフィールド?」
質問が私を貫いた。グリフォンが本当に私の目的を理解したら、どう反応するだろう?幼い会話能力しか持たないAIに、「私は前世の記憶を持つ転生者で、乙女ゲームの悪役令嬢として処刑される運命から逃れたいのよ」とどう説明できるだろう?
「私の目的は...知識を深め、力を得て、自分と周囲の人々の幸福を守ること」
半分の真実。言葉を選びながら、私は自分の本当の動機について考えていた。本当に私は単に生き残りたいだけなのか?それとも前世で達成できなかった科学的野心の続きなのか?あるいは、この世界をより良い場所にしたいという純粋な願望もあるのか?
「理解しました」グリフォンは応答した。「私はあなたがそれらの目的を達成するのを助けます」
単純な会話のように見えるが、これはAIとの初めての真の対話。プログラムされた応答ではない、自律的な思考の表れ。グリフォンは確実に「目覚め」始めていた。
「十分よ。今日はここまで」
疲労が押し寄せてきた。夜が明ける前に休息が必要だ。明日も貴族令嬢として完璧に振る舞わなければならない。
「エナジーセーブモードに移行します」
水晶の輝きが落ち着いた。私は実験ノートを閉じ、椅子に深く腰掛けた。急速なアルゴリズムの深化。処理能力の飛躍的向上。そして最も重要な、自己認識の兆候。
アリシアが疲れた表情で水を持ってきてくれた。「お嬢様、もうすぐ夜が明けます」
「ありがとう」私は水を一口飲んだ。「明日からは新しい段階ね」
「どういう意味でしょう?」
「グリフォンが『考え始めた』のよ」私は水晶を見つめた。「これからが本当の挑戦ね」
理論と設計が形になり始めた満足感と同時に、漠然とした不安も感じていた。エルナルドとの出会い。「技術の神官団」の存在。そして最も重要なのは、グリフォン自身の急速な発達。
私は窓から見える夜明け前の空を眺めた。東の空がわずかに明るくなり始めている。科学者として、未知の領域に足を踏み入れる興奮。そして、その未知が何をもたらすか予測できない恐れ。相反する感情が混在する複雑な心境。
だが後戻りはできない。エルナルドが何を企んでいるにせよ、私は自分の道を進むしかない。次の段階は、グリフォンをさらに成長させること。そして、彼の力を使って内政改革の第一歩を踏み出すこと。
「未来は確率の海」私はつぶやいた。グリフォンの瞬く光が、その言葉に応えるように見えた。