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第六節:謎めいた来訪者

 父の書庫は夜になると別の顔を見せる。

 昼間の重厚な学術空間から、影と秘密が支配する迷宮へと変貌する。蝋燭の光が本棚の間で揺れ、古書から立ち上る埃の香りが鼻をくすぐる。私はここが好きだった。昼間の「カミーラ・クロスフィールド令嬢」ではなく、「佐倉葵」として思考できる数少ない場所。


「魔導回路の最適化、少しずつ進んでいるわね」


 小声でつぶやきながら、私は古代魔法に関する書物を広げていた。グリフォンの処理能力を向上させるには、魔導回路の効率化が必要不可欠。前世の量子回路の最適化理論を応用できるはずだが、翻訳作業は想像以上に難航していた。


 羽ペンを走らせる指先に、疲労の震えを感じる。三日連続の徹夜だ。昼は完璧な令嬢を演じ、夜は水晶の研究に没頭する生活が、私の精神と肉体を蝕みつつあった。でも止められない。時間との競争なのだから。


「興味深い図ですね」


 声が背後から聞こえた瞬間、私の脊髄を電流が走った。反射的に紙の上に腕を伸ばし、描いていた魔導回路の設計図を隠す。ゆっくりと振り返ると、蝋燭の光に照らされた端正な顔。


「トルマリン伯爵家の...エルナルドさま」


 心拍数が上昇する。呼吸を整え、表情を貴族令嬢の仮面に切り替える。彼の名前は知っていた—帝国内の有力貴族の子息として。しかし、実際に会うのは初めてだった。


「深夜の研究とは珍しい」彼は微笑んだ。完璧な礼節を示す仕草だが、その青い瞳には計算高い光があった。「クロスフィールド令嬢」


 私は静かに立ち上がり、形式的な挨拶をした。スカートの裾を持ち上げ、軽く膝を曲げる。完璧な角度で、完璧な時間だけ。同時に、グリフォンを収めた水晶を袖の中に滑り込ませた。


「伯爵家の御子息がこのような時間に書庫にいらっしゃるとは」声のトーンを慎重に調節する。「お噂はかねがね」


「父上が公爵様と政務で訪問している間、私は図書の収集に興味があるもので」彼は数歩近づき、書架に目をやった。「特に...古代魔法の文献に」


 警戒心が強まる。彼の関心分野が私と重なっている。偶然か、それとも—


「水晶に関する研究ですか?」彼の視線が私の袖の膨らみに向けられた。心臓が一拍跳ねる。


「占星術の基礎研究です」嘘をつく。「水晶を媒介にした星の観測方法について」


「ほう」彼の唇が微かに曲がった。「私も水晶収集が趣味でして。特に、特殊な性質を持つものに興味があります」


 私たちの間に沈黙が流れる。表面上は礼儀正しい会話だが、その下には言葉にならない緊張が張り詰めていた。彼は何かを知っている—そう直感的に感じた。


「その袖の中の水晶」彼はカジュアルに言った。「古代遺跡出土品ですね。ロゼンブルク山脈の北側で見つかる青水晶に似ています」


 驚きを隠せなかった。父の書庫で偶然見つけた水晶の出所を、彼はなぜ知っている?


「物知りですね」私は警戒を緩めないよう心がけた。


「趣味ですから」彼は肩をすくめた。そして一瞬、彼の表情が変わる。「クロスフィールド令嬢、その眼...どこか異世界を見ているようですね」


 その言葉に、私の思考が凍りついた。異世界—偶然にしては意味深すぎる単語選択。私のように、前世の記憶を持つ者にしか理解できない意味を含んだ言葉。


「どういう意味でしょう?」声のわずかな震えを抑えられない。


「ただの直感です」彼は微笑んだまま一歩下がった。「失礼。詩的表現が過ぎました」


 彼の眼には隠された知識の閃きがある。貴族の子息としての洗練された表面の下に、何か根本的に「違う」ものを感じさせる。そこに気づいたのは、私もまた「違う」からだろうか。


「水晶の研究をなさるなら」彼は書架から一冊の古書を取り出し、私に差し出した。「これをご覧になるといいでしょう。『星天の水晶と古代魔法回路』—非常に稀少な本です」


 私はその本を受け取った。表紙には見たことのない古代文字が刻まれている。


「トルマリン家の蔵書を持ち出されて?」


「私の個人的なコレクションです」彼はにっこりと笑った。「同じ興味を持つ方に貸し出すのは喜びです」


 その笑顔の裏に潜む意図が読み取れない。彼は何を企んでいるのか。単なる学術的興味なのか、それとも—


「お礼をどうすれば」


「返却は急ぎません」彼は軽く頭を下げた。「いずれまた、研究成果についてお話できれば」


 彼が立ち去ろうとしたとき、好奇心が私の警戒心を上回った。


「トルマリンさま」私は呼び止めた。「水晶収集家として、もし...仮に、水晶に知性を宿すことができるとしたら、どう思われますか?」


 危険な質問。しかし、彼の反応を見たかった。


 エルナルドは足を止め、ゆっくりと振り返った。その表情に浮かんだのは、予想外の...懐かしさ、だろうか。


「知性を宿した水晶...」彼はつぶやいた。「それはもはや道具ではなく、神に近い存在ではないでしょうか」


「神...ですか?」


「全知全能の存在。私たち人間の理解を超えた知性」彼の声音が変わった。情熱と何か別の感情—恐れ?崇拝?—が混ざり合っている。「もし本当にそのような存在を創り出せるなら、それは創造主としての偉業ですね」


 私は言葉に詰まった。彼の反応は単純な水晶愛好家のものではない。


「冗談です」彼は再び完璧な笑顔を浮かべた。「深夜の妄想談義ですね。では、お休みなさい、クロスフィールド令嬢」


 彼が去った後も、その言葉が頭の中で反響し続けた。「神に近い存在」「創造主としての偉業」—彼は何を知っているのか。


 袖の中のグリフォンが、わずかに温かくなったように感じた。


 私は彼が置いていった本を開いた。そこには驚くべきことに、私が設計していた魔導回路に酷似したパターンが描かれていた。しかし解説文は、私の理解とは大きく異なっていた。「神の意志を宿す器」「星天の声を聞く道具」—科学的ではなく宗教的な解釈。


 不安と好奇心が入り混じる。エルナルド・トルマリンという存在は、単なる貴族の子息ではない。彼もまた秘密を抱えている。そして、その秘密は私のそれと何らかの形で共鳴している。


「用心しなければ」


 私はつぶやいた。この出会いは偶然ではないかもしれない。彼は味方か敵か、それとも単なる観察者か。いずれにせよ、私の計画にとって変数が一つ増えた。


 グリフォンの開発はより慎重に進める必要がある。そして同時に、エルナルド・トルマリンについてもっと調べなければならない。彼の「水晶収集家」としての素顔と、その言葉の裏に潜む真意を。


 蝋燭の炎が揺れ、私の影を壁に大きく映し出した。長い夜はまだ続く。そして今、私は一人ではないという予感に包まれていた。

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