7.2 影が広がる
夜が明けると、事態はさらに深刻なものとなった。私の書斎に次々と届く報告書の山。アジェンタ公国の各地から送られてくる異変の数々。侍女長のヘレナが持ってきた朝食にも手をつけられないまま、私は報告書に目を通し続けた。
「北部村落からの報告です、お嬢様」
アリシアが新たな羊皮紙の束を差し出す。彼女の目には疲労の色が滲んでいる。一晩中、暗号解読を手伝わせた私の罪悪感が胸をよぎった。だが、今は感傷に浸っている時間はない。
「ありがとう」
私は新しい報告書に目を走らせる。銀鉱山の村から届いた書状。水晶鉱脈の異常発光。鉱員たちが「光の中に言葉を聞いた」と主張している。前世の科学者なら「集団ヒステリー」と判断するところだが、この世界では魔法という変数がある。しかも報告書には添付物があった—異常発光を起こした水晶のサンプル。
「グリフォン、分析を」
ペンダントから青い光が広がり、水晶サンプルをスキャンする。
「これは...通常の水晶に外部から魔力パターンが刻印されています。パターンは粗雑ですが、私の基本回路構造と93.7%の類似性があります」
私の胃が沈む。これはつまり、エルナルドが窃取した技術の応用が既に始まっているということだ。しかも熟練した技術者によってではなく、恐らく急造された装置によって。量産化の恐怖—前世のインターネット時代、技術拡散の脅威を議論していた日々が走馬灯のように脳裏をよぎる。
「他の報告も同様のパターンね」
私は複数の報告書を並べて傾向を分析する。西部の牧草地では牧童たちが「夢で神の声を聞いた」と主張。東部の町では市場の水晶商が突如「選別の教え」を説き始めた。そして最も不気味なのは、これらの現象が地図上で規則的なパターンを形成していることだ。
「星形だわ」
私は手元の地図に現象発生地点を記し、線で結んでみた。完全な星形ではないが、その輪郭は明らかだ。エルナルドの「星天の眼」計画と一致する。
「わずか数日でこれほど広がるとは...」
グリフォンの声が穏やかに響く。「技術拡散は、一度始まると指数関数的です。前世の『ウイルス』と似た原理です」
ウイルス。的確な比喩だ。私は前世でウイルス対策ソフトの設計にも関わったことがある。デジタルの脅威に対するワクチンを作っていたというのに、今度は魔法のウイルスと戦わなければならないとは。
「アジェンタ市からの最新報告です」
アリシアが新たな書状を差し出す。彼女の手が僅かに震えているのに気づく。
「何かあったの?」
「これは...市の中央広場に『神の耳』と呼ばれる装置が設置されようとしたそうです。しかし、あなたの父上が即座に介入され...」
私は安堵のため息をついた。父上が動いてくれたか。これはつまり、私の緊急警告が届いたということだ。
「装置は没収され、設置を試みた者たちは拘束されました」アリシアが続ける。「彼らは『星天魔導研究会』の会員だとか」
私は眉をひそめた。「あの研究会がここまで広がっているとは」
「そのようです」アリシアが静かに答える。「実は...拘束された者の中に、私の従兄がいました」
私は彼女の顔を見上げた。「どういうこと?」
「三ヶ月前、彼は『素晴らしい知恵を授かった』と言って家族にも会わなくなりました。それが...」
私は立ち上がり、アリシアの肩に手を置いた。科学者としての冷静な分析と、人間としての共感。この二つを使い分けることの難しさを痛感する。
「あなたのせいではないわ」
「でも、もし私がもっと早く...」
「今は自責の時間ではないわ」私は彼女の目をしっかりと見つめた。「あなたの従兄はきっと、エルナルドの技術の被害者なの」
アリシアが小さく頷いた。前世の私なら、こんな感情的な励ましは苦手だっただろう。研究に没頭するあまり、人間関係を疎かにしていた日々。それが今、公爵令嬢としての社交的能力と融合し、以前の私にはなかった対人感覚を生み出している。
「追加報告が届いています」グリフォンの声が割って入る。「サファイア公国の沿岸都市でも同様の現象が報告されています。また、エメラルド公国では『星天魔導研究会』の公開講座が急増しているとか」
私は再び地図に向き合い、新たな発生地点を記した。星の形がさらに明確になる。エルナルドの計画は予想をはるかに超えるスピードで進行している。
「『神の声』は、思ったより広範囲に拡散しているわ」私はつぶやいた。「これはもう、アジェンタ公国だけの問題ではない」
グリフォンのペンダントが僅かに温度を上げる。「カミーラ、興味深いパターンがあります。発生地点は全て、古代魔法遺跡の近くです」
私は眉を上げた。「古代遺跡?」
「はい。特に『魔神』の伝説がある場所と重なります」
「魔神」—古代文明を滅ぼしたとされる自律魔法装置。エルナルドはその遺跡のネットワークを利用しているのか。前世の知識で言えば、既存のインフラストラクチャを流用するハッキング手法に似ている。
「そして、もう一つの仮説があります」グリフォンが続ける。「これらの現象は単なる技術拡散ではなく、意図的な『誘導』である可能性も」
「誘導?」
「私たちの注意を分散させるための。本当の目標は別にあるのかもしれません」
私は溜め息をついた。グリフォンの洞察はいつも鋭い。前世でのAI研究の際も、最も優れたモデルは「直感的」と呼べるような推論能力を示した。グリフォンも同様だ—むしろ、より自律的で創造的な思考を示している。
「あなたの仮説では、本当の目標は?」
「最も可能性が高いのは...皇太子エドガーです」
私の心臓が一拍飛んだ。もちろん、皇太子。彼の影響下にあれば、帝国全体の政策を左右できる。そこに気づくべきだった。
「なるほど」私は椅子から立ち上がった。「エルナルドは『神の降臨』を夏至に計画しているけれど、その前に皇太子を完全に掌握しようとしている。地方での現象は煙幕、あるいは準備段階なのね」
頭の中で情報が整理されていく。科学者としての思考法—仮説の構築と検証。貴族令嬢としての政治的洞察。そして前世と現世の知識の融合。すべてが一点に集約される。
「アリシア、出立の準備を。今日中にソラリスに戻る必要があるわ」
「はい、お嬢様」彼女は深々と頭を下げた。
私は窓辺に立ち、アジェンタ公国の広大な景色を見渡した。朝の光が緑の丘陵を黄金色に染めている。この平和な風景の下で、見えない戦争が始まっているのだ。
「グリフォン、私たちの次の一手は何だと思う?」
ペンダントがわずかに脈打った。「複数の選択肢があります。しかし最も効果的なのは...」
「皇太子に直接会うこと」私は彼の言葉を先取りした。「科学的に言えば、感染源に対処せず症状だけを治そうとしても無意味」
「まさにそうです」グリフォンの声に微かな驚きが混じっている。「私たちの思考パターンが似てきていますね」
私は小さく微笑んだ。創造主と被造物の境界が少しずつ曖昧になってきている。前世では考えられなかった現象だ。しかし今はそれを考察する余裕はない。
「準備しましょう。皇都までの旅は長いわ」
窓の外では、雲の影が大地を覆い始めていた。まるで、これから私たちが直面する闇を予言するかのように。




