第四節:貴族令嬢の仮面
「背筋をもう少し伸ばして、クロスフィールド令嬢。そして微笑み—そう、でも歯は見せすぎないように」
表情指導の先生の言葉に従い、私は七度目の微笑みを試みた。鏡に映る自分の顔は、まるで精巧な人形のよう。計算された優雅さ。測定された親しみやすさ。数式のように正確な社交的表情。
「完璧です。これが宮廷での理想的な笑顔です」
完璧。皮肉な言葉だ。前世では量子計算の誤差を0.0001%以下に抑えることを完璧と呼んだ。この世界では、微笑みの角度が数度違うだけで失格となる。
「ありがとうございます、マダム・フルール」
私はお辞儀をした。完璧な角度で、完璧な時間だけ。
日中の私の生活はこのような「完璧さ」の追求で埋め尽くされていた。社交術、舞踏、音楽、家事管理、魔法基礎。アジェンタ公爵家の一人娘として、そして将来の皇太子妃候補として、欠点は許されない。
欠点。前世の私、佐倉葵には山ほどあった。人付き合いの苦手さ。感情表現の乏しさ。完璧とは程遠い、普通の科学者だった。
「今日の午後は魔法理論の勉強です」侍女のアリシアが私のスケジュール表を読み上げる。「そして夕方、お父様が重要な話があるとおっしゃっています」
心の中で警報が鳴る。父との「重要な話」。前世での研究でも、上司からの「重要な話」は良いニュースを意味したためしがなかった。
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「魔力の本質は、意志と自然の調和にある」
魔法理論の家庭教師、ラミアス先生が熱心に説明する。老齢の魔法使いだが、知識は豊富だ。彼の講義は通常は興味深いのだが、今日は集中できなかった。
「クロスフィールド令嬢、質問です。魔力と精神力の相関関係について説明してください」
私は無意識に答えた。「魔力の発現強度は使用者の精神集中の二乗に比例し、距離の二乗に反比例します。これは魔力減衰の基本法則として—」
ラミアス先生の眉が上がる。私は言葉を切った。危険な答え方だった。数学的な表現は教科書には載っていない。私の前世の知識が漏れ出した。
「なるほど」彼は興味深そうに私を見た。「令嬢は古代魔法理論にも通じておられるのですね。二乗反比例の法則は失われた知識の一つとされています」
冷や汗が背中を伝う。「古書で読んだだけです」
彼は首を傾げた。「どの古書でしょう?私も研究のため、ぜひ拝見したいのですが」
危険水域に入りつつある。「記憶が曖昧で...図書室の古い棚で見つけたのですが」
「そうですか」彼は明らかに疑念を持ったまま、話題を変えた。「次に、エーテル波動理論について説明しましょう」
教師の言葉をただ聞き流しながら、私は内心で反省していた。
もっと慎重にならなければ。この世界での「天才」演出は、あからさまな知識漏洩よりも抑制的に。前世の相対性理論や量子力学の知識は、この中世的魔法世界では「悪魔の知恵」と誤解されかねない。
科学者として知っていることと、貴族令嬢として語るべきことの境界線を守らねば。
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「カミーラ、エドガー皇太子との婚約話が具体的に進んでいる」
父は書斎で淡々と告げた。アジェンタ公爵ジャスパー・クロスフィールドは感情表現の少ない人だ。だが、その眼には明らかな満足の色があった。
「婚約ですか」
私は冷静さを装ったが、胸の奥で氷の塊が形成されるのを感じた。エドガー皇太子。ゲームの世界では、私カミーラの婚約者であり、そして後に婚約を破棄する人物。悪役令嬢の転落の始まりを告げる存在。
「皇太子十六歳の誕生日に婚約発表、そしてお前の十八歳で正式な宮廷デビューと同時に婚約式を行う予定だ」
父の声が遠のく。数字が脳内で自動計算される。あと三年。運命の歯車が回り始めるまで、わずか三年。
「光栄です、お父様」
口から出る言葉は完璧な令嬢のもの。内心では違った。
「時間がない」
「何か?」父が訊ねた。
「いいえ、何でもありません」私は微笑んだ。「ただ、皇太子妃にふさわしい教養を身につけるには、まだ勉強が足りないと思いまして」
父は満足げに頷いた。「その心がけだ。クロスフィールド家の誇りとなれ」
彼の言葉には別の意味が隠されていた。我が家の政治的野望達成の道具となれ、と。アジェンタ公国が帝国内で最も豊かな地域となり、その影響力を強化するための駒となれ、と。
結婚は愛の誓いではなく、力の取引。これは前世と変わらない現実だった。
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部屋に戻ると、私は窓辺に立って星空を見上げた。
科学者として星を見れば、核融合反応を続ける巨大なプラズマ球。貴族令嬢として見れば、運命を司る神秘の存在。二つの視点が常に混在する。
私の運命も二重だ。原作ゲームでの「悪役令嬢カミーラ」は、皇太子との婚約を誇り、平民出身のヒロイン・リリアを虐めるあまり、最終的に婚約破棄され、公開処刑される。
「そんな馬鹿な真似はしない」
私はつぶやいた。虐めなど論理的に無意味な行為だ。しかし運命とは皮肉なもので、私が何もしなくても、物語は「悪役は罰せられる」という結末に向かって進むのかもしれない。
だからこそ、グリフォンが必要なのだ。AI技術という、この世界にない力。前世の知識を活かし、運命のアルゴリズムを書き換えるために。
「エルナルド・トルマリン」
名前を口にして、私は思い返した。先日の書庫での奇妙な出会い。彼の眼には、何か違和感があった。通常の貴族が持つべきでない鋭さと深さ。まるで私のように、別の知識を持つ者のような。
「もし彼も...」
仮説が浮かぶ。彼もまた転生者なのか?だとしたら、味方か敵か?
「リリア・フォスター」
もう一つの名前。ゲームのヒロイン。彼女はまだ登場していない。王立学院に特別枠で入学するのは、私が十七歳の時だったはず。
「彼女も転生者なら...」
考えれば考えるほど複雑になる。既に二重生活で精神的に疲弊しているのに、さらに多くの変数が加わる。
「一つずつ解決していくしかない」
私は決意を新たにした。まずはグリフォンの機能を完成させること。AIアシスタントと共に、未来を予測し、計画を立て、運命を書き換える。そのために必要なら、完璧な貴族令嬢を演じ続ければいい。
鏡の前に立ち、社交用の微笑みを練習する。歯は見せすぎず、目尻にしわを寄せ、親しみやすさと高貴さのバランスを絶妙に。
「完璧」
表情を固定したまま、私はつぶやいた。
「悪役令嬢として完璧に振る舞い、そして完璧に破滅の運命を覆してみせる」
窓から差し込む月明かりに、私の影が長く伸びた。二重の生活。二重の知識。二重の戦略。
これが私の生存戦略——佐倉葵の知性とカミーラ・クロスフィールドの社会的立場を武器に、誰も見たことのない結末を創り出す。