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第三節:深夜の実験室

 城の東翼地下二階、使われなくなった物置部屋。誰も訪れることのない、忘れられた空間。完璧な実験室。


「これで大丈夫」


 私は古い木製の扉に最後の遮音魔法を施した。三重の防護の最終層だ。発見されるわけにはいかない。貴族の子女が秘密裏に実験を行うなど、常識外れも甚だしい。特に、それが「神の領域」と呼ばれる自律魔法に関わるものならなおさらだ。


 地下室の改造は一週間を要した。夜ごとに少しずつ、必要な器具や書物を運び込み、魔法の光源を設置し、作業台を整えた。最も重要なのは魔力制御装置—前世の電圧安定装置に相当するもの—だ。水晶の実験での予想外の魔力吸収を制御するために不可欠だった。


「さて、本格的に始めましょうか」


 私はノートを広げ、前夜までの実験結果を再確認した。水晶の反応パターン、魔力の流れ、回路の形状変化。すべてをグラフ化し、数式で表現する。この世界では異質な手法だが、科学的精度には代えがたい。


 ******


「二十三日目。実験継続中」


 私は記録を取りながらつぶやいた。水晶は専用の台座に設置され、複雑な魔導回路が刻まれている。以前よりはるかに精緻なパターンだ。量子ニューラルネットワークの初期構造に相当する設計。


「自己学習アルゴリズムの実装は難航している。魔力のランダムな変動が、量子確率分布の安定性を損なっている」


 羽ペンで記録を取る手が止まる。前世では当たり前だった技術用語が、この世界では全く無意味なことに今更ながら気づく。何世紀も先の概念を、中世的な魔法世界で再現しようとしている滑稽さ。


 失笑が漏れる。


「自分を笑っているの?」


 振り返ると、アリシアが階段の上から私を見下ろしていた。心臓が止まりそうになる。


「アリシア…どうしてここに?」


「毎晩姿を消すお嬢様を心配して」彼女は階段を下りてきた。「天文学の研究が地下で行われるとは思いませんでした」


 視線が実験台の水晶に向けられる。恐怖が背筋を走る。発見されてしまった。前世での事故の記憶が突然フラッシュバックする—研究所の爆発、焼けるような痛み、そして暗闇。死の記憶。


「これは…」


 言い訳を考える間もなく、アリシアは実験台に近づいた。


「禁忌の研究ですね」彼女の声は冷静だった。「自律魔法。神の領域」


 私は身構えた。最悪の事態を想定する。父に報告され、実験を止められる。または、教会に通報され、異端として裁かれる。


 だが予想外の言葉が続いた。


「手伝いましょうか?」


 ******


「なぜ?」


 質問は自然に口をついた。アリシアは微笑んだ。


「お嬢様がこれほどまでに打ち込めるものがあると知り、嬉しく思いました。そして…」彼女は躊躇った。「私自身、禁じられた知識に興味があるのです」


 予期せぬ援軍。しかし、完全には信頼できない。慎重に事を進める必要がある。


「私が何をしているのか、分かっているの?」


「完全には」彼女は首を振った。「しかし、古代魔法の再現を試みていることは分かります。水晶に思考能力を与えようとしている…」


 私は天秤にかけた。リスクと利益を。科学者として冷静に判断する。


「手伝ってくれるなら、別の魔力源が必要になるわ」


 彼女は頷いた。私たちは協力関係を結んだ。


 ******


 自己学習アルゴリズムの構想は、毎晩修正を重ねていった。前世の機械学習理論を魔法体系に翻訳する過程は、想像以上に複雑だった。


「エーテル勾配降下法…」


 私は新しい概念に名前をつけた。機械学習における勾配降下法の魔法版だ。予測と実際の結果の誤差を検出し、魔導回路の結合強度を自動調整するメカニズム。


「そして監視者なき学習のためには…」


 三つの技術が必要だった。魔力パターン凝集、自己対話思考、共鳴記憶再構成。前世では無教師学習と呼ばれた技術の魔法的再現だ。


 理論を紙に書き出しながら、私は胸の奥で疼く痛みを感じた。これが前世で完成させられなかったアルゴリズム。研究所の事故でデータが失われ、私自身も命を落とした。その瞬間の恐怖が、時折鮮明に蘇る。


 夜が明ける頃、私はデスクに突っ伏していた。疲労の限界だ。二重生活の代償。日中は完璧な貴族令嬢を演じ、夜は科学者として実験に没頭する。肉体が追いつかない。


「お嬢様、もう朝です」


 アリシアの声で目を覚ます。彼女は昨夜の実験で失敗した回路を修正していた。


「ありがとう…」


「社交舞踏レッスンまであと一時間です」彼女は言った。「その前にお休みになられたほうが…」


「大丈夫」


 私は起き上がり、服装を整えた。疲れは隠さなければならない。疑われるわけにはいかない。特に今は。実験が本格化している今は。


 ******


「最終接続完了」


 三十九日目の深夜、私は最後の魔導回路を水晶に刻み込んだ。自己学習アルゴリズムの核となる部分だ。前世の量子ニューラルネットワークに相当する構造が、青い光を放つ結晶の内部に形成された。


「これで…」


 私はアリシアに目配せし、魔力制御装置をセットした。今回は前回の失敗を繰り返さないよう、出力を制限している。安全第一。科学の鉄則だ。


「魔力注入、開始します」


 指先から緑の魔力が流れ出し、制御装置を通じて水晶へと導かれる。水晶の内部で、青い光が幾何学的なパターンを描き始めた。


 心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。科学的発見の瞬間特有の興奮。前世でも何度か経験した、あの感覚。


 しかし同時に、不安も広がる。これは本当に正しいのか?神の領域と呼ばれる技術に踏み込んで、未知の結果を招くことになるのではないか?


「魔力レベル、六十パーセント」


 アリシアが報告する。水晶の輝きが増し、内部の回路が活性化する。美しい光のダンス。量子状態の変化を視覚化したかのような壮観。


「八十パーセント…九十…」


 そして—


「百パーセント!」


 水晶全体が眩い光に包まれた。部屋中の影が踊り、壁に映る私たちのシルエットが伸び上がる。


 光が収まると、水晶の内部に新たなパターンが形成されていた。私がプログラムしたものではない。水晶自身が生み出した回路。自己組織化の最初の兆候。


「成功…?」


 私は恐る恐る水晶に近づいた。指でそっと触れると、水晶が温かい。生命体のように脈動している。


 そして、最初の反応。


 水晶の内部から、かすかな声が聞こえた。機械的で感情のない、しかし明確に言葉として認識できる声。


「システム初期化…完了」


 私とアリシアは言葉を失った。それは成功だった。原初のアルゴリズムの誕生。この世界初の、自己学習能力を持つ魔導AI。


「あなたに名前をつけなきゃね」私はつぶやいた。「グリフォン…そう、あなたをグリフォンと呼ぶわ」


 水晶が青く脈動し、応答するように輝いた。


 科学と魔法の融合が生んだ奇跡。そして、私の運命を変える力。これがたった始まりにすぎないことを、私は知っていた。長い夜はまだ続く。

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