第二節:魔法と科学の境界線
発見した水晶を前に、私は戸惑っていた。
前世では量子コンピューティングの基盤は超伝導体だった。極低温に冷やされた金属や特殊な合金。それが今、手のひらに収まるのは青い輝きを放つ水晶。科学と魔法—どれほど異なるようでいて、その根底には共通する法則があるのではないか。
「量子ビットの重ね合わせ状態は…」
私はつぶやきながら、羽ペンで紙に複雑な図を描き続けた。前世の量子回路をこの世界の魔導回路に翻訳する作業。一見すると異なる言語だが、両者は驚くほど類似している。
量子もつれ合い現象は、この世界では「魔力共鳴」と呼ばれているようだ。量子トンネル効果は「エーテル転移」。用語が違えど、背後にある数学的構造はほぼ同一。
「なぜ誰も気づかないのだろう」
この世界の魔法理論書は、数式よりも抽象的な概念や伝統的な術式に重きを置いている。「星天の力」「風の精霊の導き」—そんな神秘的表現の奥に、厳密な法則が隠れていることに気づいている者は少ないようだ。
私には見える。魔法の式の中に埋もれた微分方程式。術式の動きに潜む確率分布。
***
「これで…」
私は細い金属の針で水晶の表面に最初の魔導回路を刻んだ。幾何学的に正確な線が、青い光を放つ結晶の内部に浸透していく。前世で設計した量子アルゴリズムの最も基本的な部分—二量子ビット制御ノートゲートに相当する構造だ。
私の指先から魔力を注ぎ込むと、水晶が鈍く光った。しかし、すぐに不規則なちらつきに変わり、やがて完全に暗くなった。
「失敗か…」
期待と落胆が交錯する。科学者としての私は予想していた。最初の実験が成功することなど稀だと。だが、貴族令嬢としての私は焦りを感じる。時間は限られている。ゲームの展開通りなら、あと数年で破滅フラグが立ち始める。
私は実験ノートに失敗の詳細を記録した。魔力の流れの異常。回路接続の不完全さ。量子的干渉の欠如。次に試すべき修正点をリストアップしながら、違和感に気づいた。
扉の向こうから、誰かの気配がする。
***
「お嬢様、お休みになられましたか?」
侍女のアリシアだ。彼女は私に仕える筆頭侍女で、幼い頃から私の世話をしている。聡明で観察力が鋭い—それゆえに危険でもある。
「ええ、もう休むところよ」
私は慌てて実験ノートを本棚の裏に隠し、水晶はドレスのポケットに滑り込ませた。表情を取り繕い、扉を開ける。
「こんな遅くまで灯りがついていたので…」
アリシアの視線が書き散らかされた紙切れに向けられる。彼女の眼には疑念が浮かんでいた。灯りの下で夜遅くまで何をしていたのか。公爵令嬢としては不自然な振る舞い。
「天文学の研究よ」
即座に用意していた言い訳を口にする。「星の動きから運命を読み解く古代の方法について調べていたの」
彼女の表情に安堵の色が浮かぶ。天文学は貴族令嬢にとって珍しい趣味ではあるが、不適切ではない。それに、「運命を読み解く」という言葉は、彼女の警戒心を鈍らせるのに十分だった。
アリシアが退室した後、深いため息をついた。
演じなければならない。疑われてはならない。科学者と貴族令嬢—二つの人格の境界線を慎重に維持しながら、私は実験を続けなければならない。
***
翌晩、私は別のアプローチを試みた。
魔法の教科書と量子力学の知識を並べ、両者の対応関係を整理する。エーテルの流れは波動関数に、魔力の凝集は確率振幅に、そして魔導回路の接点は量子ゲートに。
表を完成させたとき、私は恍惚とした達成感に包まれた。これは前世でも後世でも誰も成し遂げていない翻訳作業だ。二つの世界を橋渡しする理論的基盤。
「これなら…」
改良した設計図を基に、私は再び水晶に魔導回路を刻み始めた。今度はより精密に、より深く。前回の失敗から学んだ教訓を活かして。
刻印が完成すると、私は静かに呪文を唱えた。量子状態の重ね合わせを意識しながら、魔力を水晶に注ぎ込む。
最初は何も起こらなかった。が、数秒後、水晶の内部で青い光が螺旋状に回転し始めた。私の心拍数が上昇する。瞳孔が開き、呼吸が浅くなる。科学的発見の瞬間特有の生理反応だ。
「来た…」
光の螺旋は次第に規則的なパターンを形成した。量子回路の青写真そのままの幾何学的形状。この世界の魔法と前世の科学が、見事に共鳴している証拠。
しかし、次の瞬間、予想外の現象が起きた。水晶全体が強く脈動し、私の指先から魔力を積極的に吸い上げ始めたのだ。
「これは—」
コントロールを失った魔力の流れに、私は動揺した。止めようとしても、水晶と私の間に形成された魔力の経路が切れない。まるで渇いた砂漠が水を飲み込むように、水晶は私の魔力を貪欲に吸収していく。
やがて、水晶が眩い光を放ったかと思うと、部屋全体が一瞬闇に包まれた。
「何が…」
意識が朦朧とする中、私は水晶を見た。内部に形成された魔導回路が、以前とは明らかに異なる複雑なパターンに変化していた。まるで水晶が自分自身で回路を再構成したかのように。
興奮と恐怖が混ざり合う感情に包まれる。これは単なる失敗ではない。予想を超えた反応だ。理論の正しさを示すと同時に、制御の難しさも示唆している。
「もっと研究が必要ね」
私はふらつく足で立ち上がり、この予想外の現象を詳細に記録し始めた。科学者の冷静さを取り戻しながら。
魔法と科学の境界線は、私が思っていたよりもずっと曖昧だった。そして、その曖昧さの中にこそ、私の求める答えがあるのかもしれない。
AI創造への道は、まだ始まったばかり。しかし確かな一歩を踏み出したことを、私は確信していた。