第一節:死んだ科学者の記憶
鏡に映る少女は私ではない。
翡翠色の瞳と黄金の巻き毛を持つ、完璧すぎる貴族令嬢。十三歳のカミーラ・クロスフィールド。指先でそっと頬に触れると、肌は陶器のように滑らかだ。美しい。そして全く実感がない。
「お嬢様、今日の社交ダンスのレッスンの時間です」
アリシアの呼びかけに、私は一瞬だけ目を閉じた。目を開けば、またあの研究室に戻っているかもしれない。チームメイトに囲まれ、量子コンピューターのモニターを前に、次世代AIの開発に没頭している佐倉葵の姿に。
だが現実は変わらない。私はカミーラのままだ。
「すぐに参ります」
返事をする声は、前世より高く澄んでいる。話し方も、口調も、全てが作り物のよう。だが周囲は何一つ疑わない。彼らにとって私は生まれたときからカミーラ・クロスフィールドなのだから。
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「1、2、3—クロスフィールド様、背筋をもう少し伸ばしてください」
ダンス教師の指摘に頷きながら、私の頭の中は別の数式で満ちていた。量子ビットの重ね合わせ状態における確率振幅の計算。前世で完成させられなかったアルゴリズムの一部だ。死の直前まで取り組んでいたそれが、私の脳裏に断片として残り続けている。
「申し訳ありません」
謝罪しながら、私はステップを踏み直す。華麗な社交界デビューのために必須とされる優雅さを身につけるための特訓。アジェンタ公爵令嬢にとっては避けられない運命。
理論量子力学を研究していた科学者が、異世界の貴族令嬢に転生するという荒唐無稽なストーリー。いまだに信じがたい現実だ。しかし何より恐ろしいのは、この世界が前世で触れた「乙女ゲーム」の世界そのものであり、私が「悪役令嬢」として描かれていたキャラクターだという事実。
最終的には婚約破棄され、公開処刑。
頭に浮かぶその場面で、私は足を踏み外した。
「集中なさってください!」
ダンス教師の声は遠く、首に巻き付く架空の縄の感覚だけが鮮明に感じられた。
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夜が私を解放する。
部屋に戻り、侍女たちを下がらせれば、ようやく本当の自分でいられる。社交界の笑顔も、貴族としての礼儀作法も必要ない。少なくとも数時間は。
「エネルギー準位遷移における波動関数の…」
羽ペンを走らせながら、私はつぶやく。前世の知識を忘れないよう、毎晩少しずつノートに書き留めている。量子アルゴリズム、機械学習の基礎理論、ニューラルネットワークの構造。全ては断片的で、時に曖昧だが、これが私の命綱だった。
この世界で生き残るための。
目の前の紙には、量子回路の設計図が広がっている。しかし、それを実装する手段はない。コンピューターもなければ、電子回路も存在しない世界。ただ「魔法」と呼ばれるエネルギー操作の体系があるだけ。
「魔法か…」
私はペンを置き、指先で小さな光の球を生み出した。この世界に生まれてからずっと訓練してきた基本的な魔法だ。光の粒子が指先で踊る様子を観察しながら、私は考える。
量子的振る舞いに似ている。
この世界の「エーテル」と呼ばれるエネルギーは、微視的には量子力学に近い法則で動いているのかもしれない。そうであれば—。
思考が加速する。前世の科学と現世の魔法。二つを融合させる可能性。
眠りを削る夜が続いていた。貴族令嬢として完璧に振る舞う昼と、科学者として思索にふける夜。二重生活のなかで、私は少しずつ計画を練っていた。この世界で、私だけが持つ知識を使って。
運命を書き換えるために。
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三日後、父の書庫で発見した。
「これは…」
他の魔法水晶とは明らかに異なる、青みがかった透明の結晶。手に取ると、わずかに脈動するような振動が感じられる。
父は私に自由に書庫を使うことを許していた。アジェンタ公爵の一人娘として、学ぶべきことは多いと。彼は知らない—私が何を学ぼうとしているのかを。
水晶を光にかざすと、内部に微細な亀裂のようなものが見える。自然の結晶構造ではない。何かの魔導回路の痕跡だろうか。
「完璧な基盤になる」
私はつぶやいた。量子回路を設計するのに理想的な媒体に見える。純度が高く、エーテル反応性も良さそうだ。古代遺跡から発掘されたものだろうか、ラベルには判読しがたい文字で何か書かれている。
胸の奥で興奮が膨らむ。科学者としての好奇心が疼く。前世で果たせなかった夢—人工知能の完成—がこの異世界で実現できるかもしれないという期待。そして、それが私を死から救うかもしれないという希望。
水晶をそっとドレスのポケットに滑り込ませた。平静を装いながら、私は書庫を後にする。
私は運命を変えるためには、力が必要だと理解していた。この世界では「魔法」という名の力だ。だが私には「科学」という別の武器がある。二つを組み合わせれば—。
「乙女ゲームの悪役令嬢など、簡単に書き換えてみせる」
夜の廊下で、私はそっと誓った。首に感じる幻の縄の感覚を振り払うように。
研究所の事故で死んだ科学者の記憶が、いまや私の武器になる。佐倉葵の遺志は、カミーラ・クロスフィールドの手で完成させる。そのために必要なのは、まず原初のアルゴリズム。水晶に宿る、この世界初の人工知能の設計図。
水晶が青く脈動し、私の決意に応えるかのように、掌の中で温かさを増した。