表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

私を縛っていた旦那が急死してしまった

作者: アルファ

旦那が病気であっさりと急死した。

その知らせが家の中に響き渡ったとき、彼女は一瞬、何も感じなかった。まるで、空気が一切の感情を飲み込んでしまったように。ただ静かに、事実だけがそこにあった。二十四年の人生の中で、すでに何度も感じていた重み――彼の存在の圧倒的な力。その力が突然消えたことに、どうしていいのか分からなかった。


旦那の急死は、あっという間だった。病が進行するのを知ってから、わずか数日後、彼は息を引き取った。長い間、彼を支え、尽くし、そして何度も何度も彼に従い続けた彼女にとって、その死はほとんど予期されていた。彼の支配から解放される日が来るのだと、何度も想像してきた。しかし、実際にその日が来たとき、彼女にはその解放感が感じられなかった。


結婚してからの数年間、彼女の人生は決して自由ではなかった。旦那の支配的な性格と、周囲には別の顔で接して評判の良い彼の性格は、彼女を巧みに縛り続けていた。外出は許されていたが、行き先を制限され、何を着るか、何を食べるか、誰と話すか、すべてが彼の管理下にあった。その支配から解放されるはずなのに、彼女はその空虚な広がりにどう向き合っていいのか分からなかった。


彼女は立ち上がり、葬儀が終わった後、屋敷の広間に置かれた大きな鏡の前に立った。その鏡は、普段はほとんど見ない場所だった。彼女は鏡の中の自分をじっと見つめる。薄い唇を引き締め、瞳をきつく細める。冷徹な表情が映し出されている。誰もが彼女を「幸せな妻」と思っていたが、実際にはどうだったのだろうか。


「これからが私の人生だ…」

彼女は心の中で呟く。


しかし、その言葉に続く感情は湧いてこなかった。自由を手に入れたはずなのに、その自由が空虚で、心の中はむしろ深い空洞が広がっているような気がした。


鏡の中の自分は、今までの彼女と違って見えた。しかし、その違和感は、自由というものが本当には何を意味するのかを理解できない彼女の心の奥底から来ていることを、彼女自身はまだ気づいていなかった。


彼女は鏡から目をそらし、家の中を静かに歩きながら、自分の部屋へと向かう。その足音だけが響く中、これからどう生きていくべきなのか、答えを見つけられないまま、彼女は一人部屋に戻った。


彼女が部屋に戻ると、無人の空間が静かに広がっていた。小さな商家の屋敷は、思い出と彼女の記憶が詰まった場所だったが、今はそのすべてが無機質に感じられた。家具のひとつひとつも、彼女が過ごした時間を語りかけてくるようでありながら、どこか遠くに感じられる。まるで、全てが過去のものになったかのように、すべてが冷たい。


彼女は窓辺に歩み寄り、外の風景を見つめる。普段ならば彼女の視界を遮るはずの大きな家の壁が、今はどこか遠く感じられた。遠くの景色が、彼女には一層鮮明に映る。今までは彼女のすべてがその屋敷に縛られていたように感じたが、突然その広がりの中で孤立している自分に気づいてしまった。


「自由って、こんなにも孤独なんだろうか…」


呟いた言葉は、窓の外に吸い込まれていった。彼女はどこにも帰れないような気がした。旦那の死という出来事が、彼女に与えた解放感は、思っていたよりも遥かに複雑であった。


彼女はふと、歩みを止め、棚の上に置かれた古びた日記帳に目を留める。あの頃、何度も自分に問いかけていたことを思い出す。結婚前、あんなに多くの疑問を抱えていたにもかかわらず、彼女はそのすべてを受け入れた。日記帳のページには、何もかもを拒否せずに従う自分が綴られていた。それを今、見返すことで何かが変わるのだろうか、と彼女はそのページを開く。


そのページに目を通すごとに、胸の奥が締め付けられるような思いが溢れ出してきた。過去に自分が何をしていたのか、どれほど無理してきたのかが、改めてわかる。しかし、そのわかりやすい感情とは裏腹に、今彼女が感じているのは、まるで自分の行動が無意味だったかのような空虚感だった。


彼女は本を閉じ、ゆっくりとそれを棚に戻す。今の自分には、それをどう受け入れるべきなのか、まったくわからない。それが今後の人生にどう影響を与えるのかも、全く見えない。ほんの数日前までは、旦那に従うことが当たり前で、他の選択肢などなかったのに、今その自由が目の前に広がっているにもかかわらず、彼女はそれを受け入れる準備ができていないようだった。


「何かを変えたい、でも…」


それでも、彼女は諦めたわけではなかった。何かを変える必要があると思っていた。彼の死後の空虚な生活を繰り返すわけにはいかない。あの日から何も変わらない自分を感じたくはなかった。しかし、その「何か」をどう始めれば良いのか、手がかりもなく、彼女はその場で立ち尽くしてしまった。


その時、ふと彼女は窓の外に目を向ける。柔らかな光が差し込む中、まだ静かな空気が広がっている。ふと、その静寂の中に、次第に明るい何かが芽生えていくような気がしてきた。それは、恐れるべきものでなく、新たな一歩を踏み出すための予兆のように感じられた。


彼女は深呼吸をし、そのまま立ち上がる。少しずつ、何かを変えていくべきだと感じる。その最初の一歩として、彼女は屋敷を出て、結婚していらい騒がしいのが嫌いな旦那に禁止をされていて長らく足を踏み入れなかった市場へと向かうことを決意する。


屋敷を出ると、外の空気は予想以上に冷たく感じた。しかし、それが逆に彼女の心を引き締めるようだった。家の中では感じられなかった、外の世界の広がりを感じながら、彼女は足を踏み出す。


町の道を歩きながら、周りの喧騒が耳に入ってくる。市場の声、子どもたちの笑い声、商人たちの呼びかけ、すべてが普段ならば無意識に耳に入っていたはずの音だが、今はそのひとつひとつが新鮮に感じられた。自由になった今、何もかもが一新されたように思えた。


彼女が歩く先に、馴染みのない店や顔が目に入ってきた。数年ぶりに見る景色に、心の中で少しだけ驚きの気持ちが湧き上がった。今までずっと、外出しても彼の監視のもとで動いていたため、自由に歩くことがなかった。その自由さに戸惑いながらも、同時にその感覚がどこか心地よくもあった。


足が自然と向かう先は、昔、恋人だった時に旦那と一緒に訪れたことのある小さなカフェだった。あの頃、彼と手を取り合って歩いた道を、今は一人で歩いている。不安や寂しさが込み上げてくる瞬間もあったが、彼女はそのままカフェの扉を開けた。


店内は温かい光に包まれ、穏やかな雰囲気が漂っていた。カウンター席に座り、静かにメニューを眺める。注文を決める際、彼女はふと、旦那が好んでいたものと、自分が食べたかったものを比べてしまう。これまで、彼の好みに合わせて食べ物を選んでいたことが、今やひとつの習慣となっていた。


注文を終え、静かな店内に座っていると、突然、誰かに声をかけられた。


「お久しぶりですね。」


その声に振り向くと、見覚えのある顔が目の前にあった。町でよく顔を合わせていた商人の女性だった。彼女とは、旦那の商売に関わることがあり、何度か会話を交わしたことがある。しかし、旦那の監視下では、会話もお世辞程度でしか交わさなかった。彼女もまた、その関係を知っていた。


「最近、どうしているのか気になっていました。」商人の女性は、少しばかり遠慮しながらも、彼女に微笑んだ。「ご主人様が急にいなくなって、きっと驚かれているでしょうね。」


その言葉に、彼女は一瞬黙り込んだ。誰かに自分の状態を言葉にされることで、思わず涙がこぼれそうになった。けれど、それを堪え、穏やかに微笑み返した。


「ええ、そうですね。まだ、少し…」


彼女は言葉を濁し、店内を見回す。ここには、あの日々の記憶が色濃く残っているような気がしたが、その一方で、今の自分の心はどんどん重くなっているのを感じた。自由になった自分が、何を求めているのか、まだ明確には分からないが、それを少しずつ見つけるために歩み続けるしかないという思いが強くなった。


商人の女性は、しばらく彼女と会話を交わし、去って行った。その後、彼女はしばらく黙ってカフェの窓の外を見つめた。周りの世界がどんどん動いている中で、彼女はその一歩を踏み出す準備が整ったことを感じていた。


彼女は、今の自分にとって最も重要なことを見つけるために、これからどんな道を歩むべきなのかを考え続けた。どんな未来が待っているのか、まだ何も分からない。けれど、今はその一歩一歩が、確かなものになっていくように感じていた。


カフェを後にした彼女は、町の道を歩きながら、ふと立ち止まった。空は薄曇りで、春の柔らかい風が吹いている。町の賑やかな音と、人々の歩く音が静かに混ざり合っている。彼女は足を進めながら、何度も思い返す。


「あの頃の私…」


旦那と過ごした日々の記憶が、胸の奥でざわつくように蘇る。彼女の手には、彼が好きだった色のスカーフが握られていた。気づけば、どこかで買ってしまった。それは、旦那が好きだった色であり、彼女が旦那が死んでたから今まで避けてきた色でもあった。しかし、今その色を手にしてみると、何とも言えない感情が湧き上がってきた。


「何もかもが、過去の一部になってしまったのね。」


旦那の死後、彼女の中で何かが変わった。結婚してからの数年間、彼女は少しずつ彼の意向に従うようになり、常に彼の顔色を伺って生きていた。外見では満ち足りているように見えたかもしれないが、内心では何か大きな欠けた部分を感じていた。それが今、ようやく自分を自由にしてくれるのだと思っていた。しかし、現実にはその自由が重く、圧倒的に空虚だった。


彼女はそのまま町外れの小道に入り、彼の墓がある墓地へ向かって歩き始めた。その道は少し外れた場所にあったため、普段はあまり通らなかった場所だ。しかし、今は自然と足が向かう。墓地に近づくにつれ、静かな空気が一層深くなり、心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。


墓地に到着し、彼女は静かに旦那の墓の前に立った。無言でその墓石を見つめる。彼女がこうして墓の前に立つのは初めてだった。結婚してから、彼に従うことが全てで、彼が亡くなって今まで墓参りに行くこともなかった。しかし、今、ここに立つ自分は確かに「生きている」ことを感じる。


「あなたがいてくれたから、私は…」


彼女は静かに言葉を口にするが、次第にその言葉が不完全であることに気づく。何もかもが空回りしている。旦那を支配し続けられていたこと、そしてその支配から解放された今、その解放感がまるで意味を持たない。まるで、何かを失ったような、何も手に入れていないような、そんな気持ちが湧き上がる。


彼女は墓前で少しの間立ち尽くし、そして静かに目を閉じた。


彼女は街を歩き続けていた。そして出会った場所へと辿り着く。そこは子供の頃からずっと存在する大きな花畑だ。足元には、旦那と何度も歩いた道が広がっていた。どこまでも続くその道は、今も変わらず美しい花が咲き乱れていたが、彼女にとっては、もう二度と以前のように心地よく歩ける道ではなくなっていた。


「ここで、私たちは…」


彼女は歩みを止め、目を閉じた。風が静かに頬を撫で、花の香りが鼻をくすぐる。だがその香りは、もう彼と一緒に感じたものではない。あの頃の温もりが、今は遠く感じられた。胸の奥が締めつけられるような痛みが走る。

出会った頃を思い出す。お互い子供で何にも考えていなかったあの頃を…


その足は、気づけばあの花畑へと向かっていた。花畑は変わらず、色とりどりの花々が咲き誇り、あの日の思い出が重なり合う。しかし、その美しい景色も、今の彼女にはどこか空虚に感じられた。


「ここで…私たちは、何度も笑い合った。何度も手を取り合って歩いたのに。」


彼女の胸が痛み、涙がこぼれそうになった。しかし、目を閉じれば、あの部屋の温もりが蘇る。旦那の手が優しく彼女を抱きしめ、彼女を愛してくれる感覚が蘇る。


「私の身体も、心も、まだ貴方のものなの?」


彼女はその問いに答えることができなかった。旦那が死んだことによって、全てが終わったはずだった。彼女はもう、彼に縛られることなく自由に生きるはずだった。しかしその自由は、思っていたものとは違った。彼女は心の中で、彼の愛を求め続けていた。支配されていた日々が、結局は愛されることを望む心の裏返しだったことに気づく。


「私は貴方に愛して欲しかったから、ずっと縛られていたのに…」


彼女は涙を流しながら、その思いに浸った。自由を手に入れたはずなのに、その自由は彼女にとって苦しみのように感じられた。心が沈み、彼女はどこへ向かえばいいのか分からなくなった。


「私が望んでいたのは、ただ貴方に愛して欲しかっただけなのに…」


彼女は膝をつき、涙をこぼしながらその問いかけを繰り返した。解放されたはずなのに、心はどこかで旦那を求めている。彼の支配が終わり、彼女は自由を手に入れたが、その自由が思うように彼女を満たすことはなかった。


彼女はしばらくその場に座り込んだまま、花畑の景色をぼんやりと眺め続けた。心の中で答えを探し続けながら、時間だけが静かに流れていった。

面白いと思っていただけたらぜひポイントをお願いします

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ