アーリヤの過去
部屋に帰ると、ちょうどアーリヤさんが食事の下準備をしているところだった。
「あれ?セシリアちゃん、今日早いね」
「実は熱があるのがばれて、一週間お休みを取るよう言われてしまいました」
私が苦笑して言うと、アーリヤさんがギョッとした顔をした。
「はあ!?ジャックル、体温計!」
「母ちゃん、持って来た」
「計ってみて」
アーリヤさんに手を引かれ椅子に座ると、どうにも体がだるくなってきた。おとなしく体温計を脇に挟んだ。
「ほら、体温計出して」
私が体温計を渡すと、アーリヤさんは眉間に皺を寄せた。
「三十九度五分もあるじゃないか!」
「え!?セシリア姉ちゃん、大丈夫か!?風邪か?」
どうやら、朝より熱が上がってしまったようだ。
「いえ、ちょっと精神的なもののようです」
クラクラとしてきた頭を振ると、頭痛までし始めた。
「大丈夫かい?とにかく着替えて休んで」
言われるままに着替え、布団に横になった。
一気に体が辛くなる。やっぱり、仕事をしていた方が楽だ。
……と思ったと同時に気絶するように寝てしまったようで、気づいた時はもう部屋が薄暗かった。
ここのところ、夜はバルドさんのことを考えてしまって眠れなかったので久しぶりに寝た気がする。
もぞりと起き上がると、おでこにのっていた濡れた手巾が落ちた。
「あ、セシリアちゃん。目が覚めたかい?」
ベッドの脇の椅子に座っていたアーリヤさんが、私の額に手を当てた。
「少しは熱下がったね」
「すみません。ずっとついていてくださったんですか?」
「まあね、心配だったからね。ジャックル寝かせて、また来ちゃったよ」
アーリヤさんが優しく微笑んだ。
「何か食べるかい?」
「お水だけいただけますか?」
まだ食欲はないが、喉が渇いていたので水をもらった。
コクコクと飲むと、ホッと息を吐いた。
「もう大丈夫ですから戻ってください」
私がそう言うと、アーリヤさんは困った子供を見るように私を見た。
そして、ピンとデコピンした。
「いっ」
私がおでこを押さえると、やれやれと椅子に座った。
「どこが大丈夫なんだい?そんなに心が寂しいって泣いてるのに見ないふりして。バルドが好きだったんだろ?」
ずばり言われて、私はそのまま固まった。
「好きな男と別れるのは辛いよね……」
「こんなに……辛いなんて想像もできませんでした」
私は苦笑した。
朝に昼に夜に、日々を重ねる毎にバルドさんがいないことを痛感するのだ。
あの優しい声が、包み込むような眼差しが、お日様のような笑顔が、私のそばから永遠になくなったのだと思うと胸が凍える心地がした。
それが一生続くのだと思うと深く絶望した。
だからといって、選んだ道を後悔はしていない。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう……。
「セシリアちゃん、その辛い気持ちが一生続くと思ってるんじゃないかい?」
なぜアーリヤさんはわかるのだろう。
私は、コクリと頷いた。
「あたしもさ、そう思った時があったんだ」
アーリヤさんが自嘲するように笑った。
「アーリヤさんも?」
「ああ、そうさね。あたしが高級娼婦になりたての頃、一人の貴族の若様と恋をしたんだ。もうすぐ身請けしてくれるって話もまとまってさ、あん時は幸せの絶頂だったよ」
アーリヤさんが幸せそうに笑った。その笑顔を見て、本当に好きだったことが伝わった。
「でも当主だった若様の父親が亡くなって、事業も傾いて……。多額の借金もできて、それどころじゃなくなっちまってねぇ」
幸せな未来がなくなったアーリヤさんの気持ちは、どれだけ悲しかったろう。
「若様は必ず迎えに行くって言ってくれたけど、領地のために若様は金持ちの貴族の令嬢と結婚したよ。でも、お互い諦め切れなくてね、奥方には内緒で若様は娼館に通い続けてくれたんだ。それを知った奥方が、若様に内緒で私を訪ねて来てさ、どうしたと思う?」
「怒鳴り込んだのでしょうか?」
アーリヤさんが首を横に振った。
「娼婦のあたしに土下座したのさ。怒鳴り込んで来たなら、あたしも開き直れた。でも、あたしの所に通うことが問題になっている。若様のために別れてくれって、せめてもの償いにって、その奥方はあたしの身請け金まで用意した」
私は、ああと思った。その時のアーリヤさんの気持ちを思うとやるせなかった。
「フフ……。奥方もあたしと同じように若様を愛していたんだ。そこまでされたら、もう身を引くしかないよね」
アーリヤさんの目が潤んだ。そっと指先で涙を拭った。
「もう何年も前のことなのに未だに涙が出る。好きだったからねぇ」
アーリヤさんは、そんな思いをどうやって乗り越えだのだろう。
「その後でジャックルができてることがわかって、娼館はあたしに辞められちゃ困るから、渋々出産させてもらえたよ」
「身請け金を使わなかったのですか?」
「う〜ん、当時はどうしても使えなかったんだよね。使っちまったら、若様と本当にお別れな気がしてさ。馬鹿だよね、もう終わったっていうのにどこかで認められない自分がいたんだ」
私もどこかで未練がましく、まだバルドさんを諦めきれない自分がいた。
だから、辛いのだ。頭では理解できているのに、心がついていかなくて、バラバラになりそうな気持ちなのだ。
「どうやって若様を忘れたのですか?」
やはりスミスさんの愛と、ジャックル君の存在だろうか。
「まさか。若様を、忘れられるわけがないよ。セシリアちゃんも、まずバルドを忘れられることはないね」
私は驚いてアーリヤさんを見た。ということは、この痛みもずっと続くということだろうか。
こんなに辛い気持ちが一生……。目の前が暗く閉じるような感覚がして俯いた。
アーリヤさんが、私の顔を優しく両手で包んで上げた。
「そんな顔しなさんな。忘れることはできないけど、その痛みはなくなるから大丈夫。……その痛みはさ、バルドがくれた幸せと同じだけ痛むんだ。でも、いずれは消えてなくなっちまう。だから、今はちゃんと大事にしてあげな」
私はアーリヤさんの言葉に、目を瞬いた。
バルドさんがくれた優しさを、笑顔を、温かさを一つ一つ思い出す。
そうか。バルドさんが、こんなにもたくさんの幸せな気持ちをくれたから、今こんなに胸が痛むのか……。
知らず涙が一つ溢れた。
それはなんて愛しい痛みだろうか。
波紋のようにその涙が心に広がると、押さえつけていた蓋がそっと開き、溺れるほどのたくさんの思いが溢れた。
そして、決壊したように涙が流れた。
「……私、とても幸せでした。バルドさんが本当に好きでした」
「うん」
アーリヤさんが優しく抱きしめてくれたので、私はまるで子供のようにわんわん泣いた。
「……そういえば、スミスさんのことはどんな感じなのでしょうか?」
散々泣いて泣き止んだあと、ふと気になったスミスさんのことを尋ねてみた。
若様を忘れていないのに、どうやってスミスさんと結婚することを決めたのだろう?
「ああ、スミスの粘り勝ちって感じだったね。ずっとずっとそばにいて、いつの間にかあたしの心の中に入り込んでたよ」
アーリヤさんが、幸せそうに笑った。
「若様の次とか、そういうんじゃないよ?若様も好き。スミスも好き。どちらがとか比べようもなく大事な存在にスミスもなっちまったんだよねぇ。いや、当時のあたしが知ったらおったまげるわ。だから、セシリアちゃんも大丈夫。今はちゃんと泣いて、いっぱい食べて、ゆっくり休むんだよ」
「はい」
言った拍子に、私のお腹がクゥッと鳴った。
私はアーリヤさんと顔を見合わせてクスクス笑った。
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