ニルス・ラウンドア
――時はほんの少し前に遡る。
ニルス・ラウンドアは、ラウンドア子爵家の次男として生まれた。
ラウンドア子爵家は、子爵とはいえ、貴族至上主義の中でも王太后の覚えのめでたい由緒正しい貴族家であり、ニルスも幼い頃から、貴族としての高い矜持を胸に育った。
貴族から見て、平民はしゃべる家畜のような物だ。
平民など、貴族のいうことをただ聞いていればいいと当然のように思っていた。
あの忌々しいセシリアのせいで、その家畜と同然の平民になった時、ニルスはこの上ない屈辱と魂の全てを引きちぎられたような痛みを感じた。
しかし、それに耐えて来たのは、いずれ王太后が貴族至上主義の王を立てれば、全てが元通りになると信じていたからだった。
いつだったか酔った父が、ラウンドア子爵家は王太后にその厚い忠誠を認められているから、貴族至上主義の王が立ったら、侯爵に陞爵されると言っていた。
そうしたら、自分は高位貴族の集まる第一騎士団の騎士になるのだ。
だから、それまでの辛抱だとニルスは自分に言い聞かせた。
ニルスは、汚らしい平民が住むような下宿屋に住んだ。あっと言う間に、髪はボサボサになり、不精髭が生え、知り合いが見ても一目ではニルスとわからないような容貌になった。
さすがに平民と交ざって働くことはできなかった。金がなくなるたびに、新しく当主となって王都の子爵邸に住み始めた兄に、金をもらいに行く生活をした。
ニルスが、いつものように目立たないように夜遅くにこっそり兄を訪ねると、珍しいことに、領地に引っ込んでいた父までいた。
「父上、お久しぶりです。お元気でしたか?」
ニルスは、とりあえず挨拶した。
しかし、父はギョッとした顔をしてその姿を一瞥すると、忌々しげに顔を顰めた。そして、犬を追い払うように手を振った。
「何だ、この汚らしい平民は?頭がおかしいのか?さっさとこいつをつまみ出せ」
全く息子と気づかない父に、ニルスは愕然とした。
「父上。これは、ニルスですよ」
兄が笑いを含んだ声で父に教えた。
「はあ!?これが!?……まあ、そんなことはどうでもいい。私達は今忙しい。さっさと用件を言え」
これが久しぶりに会った息子にかける言葉かと思ったが、怒らせて金をもらえなくなっては困るのでぐっと我慢した。
「金がなくなったから金をください」
ニルスが答えると、兄がやれやれというように肩をすくめた。
しかし、何かを思いついたようにニヤリとした。
「喜べ。お前に仕事をやろう」
「仕事?」
今までは、ニルスをラウンドア子爵家になるべく関わらせようとせず、金をもらいに来る時も、誰にも見つからないようにしろときつく言われていたのに珍しいことだ。
「お前は、セシリアとかいう平民の顔と住処を知っているな?」
「はい」
ニルスは、その不愉快な名前に顔を顰めながら頷いた。
「明日、そいつを見張って何か怪しい動きをしていないか探るんだ」
「おお!それはいい考えだ!もし、第二騎士団の奴らに何か聞いたのだとしたら、明日あの平民は動くだろう」
父は感心したように、兄の肩を叩いた。
「一体どういうことですか?」
ニルスが訳がわからず尋ねると、二人は不快げに舌打ちをした。
「お前は黙って従えばいいんだ」
「……わかりました」
ここで揉めて二人を怒らせたら金をもらえなくなってしまう。ニルスは渋々返事した。
ニルスが次の日、セシリアの家の前で見張っていると、セシリアは気づくそぶりもなく王城に向かって行った。
ニルスはこっそり王城の門まで後をつけて行ったが、今日は休みなのか、少しするとセシリアは王城から帰って行った。
その後は、間抜けにもセシリアは、下からよく見える窓のそばにいたので、ニルスは見張りやすかった。しばらくしてまた出かけて行ったが、実家に遊びに行っただけで怪しい様子は見られなかった。
だから、父と兄には特に怪しい動きはなかったと報告した。
兄は、よくやったと一言褒めると、床に金を放った。ニルスは喜んで金を拾って顔を上げると、ふと二人と目が合った。
(この目……?)
ぼんやりと、どこかで見たことがある目だと思った。
「もっと金がほしいか?」
「はい」
ニルスは食い気味に返事をした。
「じゃあ、明日王城に捕えられている第二騎士団の騎士達に紛れて、奴らを探って来い」
(捕えられている第二騎士団の騎士達?)
なぜ捕らえられているのか、全く状況がわからない。
「どういうことですか?」
「お前は何も考えず、私の言うことをただ聞けばいいんだ」
ニルスが尋ねても、父も兄も馬鹿にしたように首を振るだけだ。
「みんな俺の顔を知っているんですよ。無理です」
「大丈夫だ。夜、奴らは暗い一室で雑魚寝をしている。そのはじにでも潜り込めばいい。みんなお前のように汚らしい身なりをしているから、ばれんだろう。奴らが話していたことは全て知らせろ。それとも、金はいらないのか?」
「……やります」
ニルスは、金のために引き受けた。
そうして、第一騎士団にいる貴族至上主義の騎士の手引きで王城に潜んだニルスだったが、しばらくした頃、何やら王城が騒がしくなった。よもや自分が潜んでいるのがばれたのかと、嫌な汗がダラダラと出たが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
予定では、貴族至上主義の誰かが、夜にこっそりとニルスを第二騎士団の騎士達のいる部屋に連れて行く手筈だと聞いていた。ニルスは、そのまま息を潜めて迎えが来るのを待った。
しかし、誰も来ず、そのまま放置された。
そして、何が何やらわからないまま翌朝を迎えたニルスは、メイド達のおしゃべりで貴族至上主義が粛清されたことを知った。
ラウンドア子爵家は一族諸共処刑が決まり、父と兄は、すでに処刑されたようだった。
ニルスは、ぼんやりとした頭で最後に見た父と兄の目を思い出した。
(ああ、わかった……。父上と兄上の俺を見るあの目は、平民を見る目だ……)
気づくと、無性におかしくてニルスはただただ笑った。
涙が溢れた。
(全部、全部、あの平民のせいだ……!)
お読みくださり、ありがとうございます。