前世で徳を積んだ宰相
「やっとですの?」
ウルブシュアは、不快そうに眉を寄せてグラビスを見た。
セシリアは先日のラテアートの講師を引き受けたことで、貸しを返してもらったと思っているようだが冗談ではない。
自分はウルブシュアなのだ。
借りた恩は倍で返さなければ、プライドが許さない。
「で?どういう状況ですの?」
だいたいのセシリアの情報は把握してあるが、グラビスは新しい情報を持っていそうだ。
「いや、本当に愉快なことになってるよ〜。実はね――」
ウルブシュアは、グラビスから件の書簡を受け取って中を確かめた。
「まあ……」
ウルブシュアが、うっそりと微笑んだ。
夫の、宰相であるホルソフォンは、立場上、今は貴族至上主義である王太后にも、それに反対する王太子妃にも、中立を保っていた。
だがウルブシュアは、セシリアを排除しようとする王太后にグツグツとはらわたが煮えくり返っていた。
貴族至上主義など、無能の集団だ。平民でもセシリアのように能力の高い者がいることは、ウルブシュアが誰よりもよく知っていた。
愛しいダーリンのためにも、平民でも能力の高い者を王城で働かせた方が間違いなく負担が減る。
グラビスから受け取った書簡に、内心で高笑いした。
これなら愛しいダーリンも、諸手を上げてあの無能集団を駆除できるだろう。
「ユリア様が言うには、この件は陛下より王太子殿下の方がお勧めだって」
「わかりましたわ」
その時、慌てたように公爵邸の侍女がウルブシュアに耳打ちした。
ウルブシュアから、ストンと表情が消えた。
そして、一拍後に地獄の底から響くような笑い声をあげた。
「オホホホホ……グラビス、セシリアさんがロザリーへの不敬罪で捕えられたそうですわ」
「は?」
グラビスからもストンと表情が消えた。
「ええ、ええ……どうしてやりましょうかしら」
「うん、うん……どうしてやろうねぇ」
二人の底冷えするような笑い声が公爵邸に響いた。
◆
宰相ホルソフォンは、公爵邸のウルブシュアからの急な呼び出しに、文字通りすっとんで帰って来た。
ウルブシュアが、急に自分を呼び出すなんて滅多にない。
ホルソフォンより一回り以上も下の美しい妻は、慎ましく優しく愛らしく天使のような妻だった。
ホルソフォンは若かりし頃、縁談は山ほどきたものの、自分と目を合わせると震えるか失神する令嬢達を前に、早々に結婚を諦めた。
そんな自分が、こんなに素晴らしい女性と結婚できるなんて、前世でどれだけの徳を積んだのか。
きっと世界を救った英雄だったのかもしれない。
毎日、前世の自分に感謝の祈りを捧げていた。
目に入れても痛くない、むしろずっと目に入れていたいほど愛してやまない妻だった。
「ソフォン様……」
ウルブシュアのルビーのような紅い瞳が潤み、長い睫毛が瞬きすると頬に涙が一筋流れた。
王城では切れ者、泰然自若、鉄仮面と呼ばれるホルソフォンは、真っ青になり慌てた。
「ど、ど、ど、どうしたのだ!?」
「私の大切なお友達が冤罪をかけられて捕まってしまったのです……」
ウルブシュアは堪えきれないというように、ホルソフォンの胸に縋りついた。
ふんわりと柔らかく、いい匂いがした。
ホルソフォンは思わずポヤンとしたが、痛々しく泣いて震えるウルブシュアにハッと顔を引き締めた。
「一体誰が誰に冤罪をかけられたのだ?」
「私の親友セシリアさんが、ロザリー・ケミスト伯爵令嬢に不敬罪で訴えられたのですわ!」
「なんと!」
セシリアの名前は、ホルソフォンもよく覚えていた。
自分とウルブシュアの恋のキューピッドの名だ。
彼女のお陰で、いじらしいウルブシュアの気持ちを知り、結婚することができたのだ。
大恩人だった。
「ソフォン様、見てくださいませ。私、セシリアさんからこれを託されましたわ」
ウルブシュアが、書簡をホルソフォンに渡した。
「これは!」
ホルソフォンの顔が、みるみる宰相の顔となった。
「この字はレイモンド元騎士団長の字だそうですわ。この玉璽は偽物ではないでしょうか?」
「ああ。陛下の字ではないし、玉璽はよく似ているが違う」
ホルソフォンの頭が、パズルを組み立てていくように目まぐるしく回り始める。
ウルブシュアがその様子を、うっとりと見つめた。
「ああ、なるほど……」
やがてぽつりと呟いた。
「ソフォン様、この件は王太子殿下にお伝えするのはいかがでしょう?」
「そうだな。陛下は王太后に甘いからな」
全てわかった顔でホルソフォンは頷いた。
「どうか、どうかセシリアさんをお助けくださいませ」
キュッとしがみつく嫋やかで愛らしいウルブシュアを、ホルソフォンは宝物のように抱きしめた。
「ああ。私の大切なシュアを泣かせた代償は、きっちり倍にして取り立ててくる」
ホルソフォンの腕の中で、ウルブシュアがニンマリと微笑んだ。
お読みくださり、ありがとうございます ♪