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2. 緑色の酒の中で、溶けた角砂糖と無関心が踊る


 《ミアの店》はエルンスト通りとケルナー通りの狭間にある、正確には《タンツ・ミット・ミア》って名前の酒場だ。看板に書いてあるのは《ミアと(Tanz mit)踊って( Mia)》だけど、聞いただけでは《私と(Tanz )踊って(mit mir)》だと思うはずだ。

 ここは女主人ミアが切り盛りしている、何者でもない輩の溜まり場だ。失業者も、モルヒネ常習者(モルフィニスチン)も、女装家も、同性愛者も、なんでもござれ。


 黒いペンキが剥げかかった扉を開くと、カウンターの向こうから女主人がしな(・・)を作って現れた。たっぷりと白粉をはたき黒いアイラインを引いて、シルエットが透けるような衣装を身に纏っており、さながら映画女優のようだった。髪の毛はヘンナで赤く染めているが、実際より若く見せることに成功しているとは言えない。安物の香水が気に食わなくて、おいらはばさばさと翼を広げた。

 マチウは煙草をくわえながら言った。


「それで、君の友人(・・)のコンラートはどうしている?」


 エーゴンは毛羽立ったおいらの羽根を直しながら、上の空で答えた。


「いなくなった。戻ってきたが」

「それは問題だな──君、火はあるかい?」


 エーゴンが動こうとしないので、おいらはやつのジャケットからマッチ入れ(ヴェスタ・ケース)を引っ張り出してやった。

 マチウはおいらの嘴を軽く叩いてからマッチを擦った。この男はイタリア製の煙草を好んでいた。この香りは嫌いじゃない。

 エーゴンは独り言のように言った。


「一度いなくなったものはもう元に戻らない」おいらは首を傾げた。「本当に?」


 マチウはミアにアブサンを持って来させ、女主人はもったいぶってグラスの上の角砂糖に火をつけた。青い炎を上げる角砂糖の上に水をかけると、緑色の酒は滴る砂糖と混ざって白く濁っていく。

 エーゴンはアブサンを一気に飲み干した。

 マチウは言った。


「新しいガラクタが必要なら、良いものがあるんだ」

「どんな?」


 マチウはポケットから目玉を取り出した──ガラスでてきた、薄水色の虹彩の義眼。

 それを見るなりエーゴンは立ち上がり、テーブルにぶつかって酒がこぼれた。

 

「やめろ!どこからそんなものを手に入れたんだ!」

「蚤の市だよ。いったい何を慌てている?」


 やつの肩から転げ落ちそうになったおいらは抗議の鳴き声を上げた。カア、カア(krah, krah)

 エーゴンはおいらを抱えこんで椅子に座り直し、落ち着くために新しい煙草に火をつけようとして失敗し、頭を抱えた。おいらが腕の隙間から嘴をつっこんでやつの顔を覗きこむと、その口元は譫言(うわごと)を呟いていた。


「ロシア人だ……ロシア人の目玉だ……」


 マチウはエーゴンの方に手を置いた。


「話してごらん、どうしたんだ?」


 しばらくブツブツ言った後、エーゴンは答えた。


「グローデクで俺が吊るしたロシア人たち──やつらの目玉を食らった鴉どもが、明るい色の目で俺を眺めて嘲笑っている……」

「それももう何年も前の話だ。それに、この義眼はまごうことなきドイツ製だぞ」


 やれやれ。エーゴンはずっと戦場に取り残されたまま。だっておいらが忘れさせてやらないからね。

 おいらは首を傾げ、ある方の目で義眼を眺めた。それはとても綺麗だった。のっぺりした水色なんかじゃなくて、透き通った青の中に白や金の粒が閉じ込められており、本物の目玉よりきらきらしている。確かにこんなのはロシア人にゃ作れないだろう。

 おいらはそのガラスの義眼をマチウの手から奪い取り、飲みこんで、自分の空っぽの目玉の代わりにした。それからわざと水色の目でエーゴンを見つめ、しわがれた声で「お前は呪われているぅ!」と言い放った。

 マチウは少し呆れたように言った。


「ラーべナース殿は気に入ったらしい」


 エーゴンは再び頭を抱えて唸った。おいらは鴉らしくカア、カア(krah, krah)!と鳴いてやった。哀れな絞首刑執行人(ヘンカー)め!

 その時、軍人崩れの女装家が──よりによって!──デッサウ行進曲を歌い始めた。死んでいる、死んでいる、俺たちゃ毎日死んでいる!

 いよいよエーゴンの顔色が悪くなったので、マチウは女装家に、どうぞ別の歌を歌ってくれと頼んでから、エーゴンの肩を抱いた。


「なあ、君もヴァイマルに来なよ──君、ウィーンのイッテンのことは覚えているだろう?」

「イッテンは俺が嫌いだった」

「そんなことはないさ……」



**********



 二人は順調に酔っ払っていった。鴉──おいらはエーゴンの膝の上でひっくり返っていた。

 マチウはエーゴンにしなだれかかっている。いつもは自制心のある男だけど、それもただの仮面でしかない。アブサンの妖精は誰とでも踊り、そいつの仮面を引っぺがす。

 金髪の男はエーゴンと鼻がくっつきそうなほど顔を近づけてきた。ノルウェーの氷河のように美しい青い瞳。


「ねえ……僕らは、たまたま向かい合わせの(ページ)になった雑誌の広告みたいなものだよ」

「美しい出会いだ」

「そう、無二のものさ」

「またとない……」


 エーゴンは物思いに耽り始めた……どんな雑誌の広告かは重要だ。シュトルム誌?デア・ブレンナー誌?それともアクツィオーン誌?

 そこでマチウがキスしてきたため、エーゴンはちょっとだけ虚をつかれたが、《ミアの店》に行く時点で予想のつくことだったのであまり気にしないことにした……らしい。

 鴉は二人の間で押しつぶされそうになった。鴉──おいらは抗議すべくマチウの脇腹を突いた。

 彼は気に食わなさげにエーゴンから離れ、言った。


「いったいいつまでこの鴉が必要なんだ?」


 エーゴンは……虚を見つめながら呟いた。


「もはや為すべきことはなにもなく、為すべきだったことがあるだけ、俺は幽霊だ……大都市の幽霊……」


 マチウはさらに言いつのった。


「コンラートだって、こんなことを望んでいないはずだ」


 おいらはマチウを強く突いた。「お前に何が分かる!」


 その時、ミアがこちらに声をかけた。


「お二人さん、続きをやるなら奥に部屋があるわよ!」


 マチウとエーゴンは顔を見合わせ、店を出た。


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