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「いや、まだ閉めないでくださいよ! せめて俺が向こう側行って扉の向こう戻れるか確認するまで開けといてください! ここから見えるから」
扉から出てすぐの踊り場と階段下の和室には高低差はあったが、少し身をかがめれば反対側にある今は開け放たれている扉が見える。
「……わかった。帰るまで見てる」
「……絶対ですよ。俺の部屋に戻れたら合図しますんで」
そういって俺は扉の向こう側へと足を踏み入れ―――る直前、女の子を振り返った。
「あの……」
今から言うことが少しだけ恥ずかしくて、俺は顔を僅かに俯けた。
「なに?」
「あの、なんか、何でもいいんで。何かこの部屋のもの貰えませんか?」
「え?」
「……これ夢なのかなって若干思ってるんで、夢じゃない証拠に」
俺は先ほどからやっぱりこれは心霊現象ではなく夢なのかな、などと思い始めていた。こんな怪奇現象の末に自分好みの女の子に出会えるなんて、そんなこと普通有り得ない。もしこれが夢ではないのなら、もしかしたらこの子は普通の人間に見えるだけで男を惑わす妖怪の類なのかもしれない。
女の子の大きい綺麗な目がさらに大きくなるのを、俺はじっと見ていた。でも女の子はすぐにくるりと俺に背を向け部屋の中を見渡した。きっと俺に何を渡そうか迷っているのだろう。
きょろきょろと部屋を見渡していた女の子だったけれど、ある一点で視線を止めるとつかつかとそこに向かって歩き出した。女の子はその場所で何やらごそごそとしている。俺には背中しか見えなかったけれど、振り返った女の子の手には何か赤いものが握られていた。
「これでいい?」
そう言って手渡されたのは、縦に長い変な生き物のフェルトマスコットだった。それがキーホルダーになっている。
「……なんですか、これ? 妖怪?」
微妙に気持ち悪いそのマスコットは、こんなに可愛い女の子が持っているとは思えないような代物だった。
「知らないの?」
「有名ですか……?」
知らないのと言われて少し戸惑う。知らないとおかしいくらい有名な妖怪なのだろうか。勉強は結構出来る方だし物知りな方だとも思っていたのに。
「数年前に流行ったよ?」
「……へえ? これが……」
流行ったという言葉を聞いて、きっと何かのキャラクターなのだろうと当たりを付ける。それなら俺が知らなくてもおかしくはない。そういったキャラクターはほとんど知らないからだ。けれど兄貴だったら知ってるかもしれないので、あとで聞いてみることにした。
お礼を言おうと顔を上げた俺は、女の子の微笑みを目の当たりにし一瞬息を止めた。
(笑った……。やっぱ可愛いな)
「……ありがとうございます。大切にします」
少し気持ち悪い外見だけれど、彼女に貰ったと思えば可愛く見えないこともない。俺はキーホルダーをつぶさないよう軽く握り締めると、今度こそ扉の中に足を踏み入れた。
階段を降り、来た時と同じように和室を横切る。部屋の中央まで来た時にはすでに開いたままの扉が見えて俺はホッと息を吐いた。ゆっくりと階段を上りつつ扉の向こう側を覗き見れば、そこには見慣れた部屋が待っていた。
俺は踊り場に立ち後ろを振り返り、彼女の姿を視界に入れる。これきり会えないかもと思えば、急に身体全体が重くなった気がした。
それでもこうするより他にない。あの女の子が現実に存在する人間だということすら、俺にはわからない。俺に出来るのはこうやって思い出の品を手に入れることくらいだ。
『妖怪とか幽霊とか、そういう存在に心を許したが最後、魅入られちまうぞ』
兄貴のその言葉が頭の中に木霊した。
その言葉を振り払い、俺は女の子に向かって大きく声を張り上げる。
「大丈夫です! 戻れました!」
「わかったー!」
向こうからも同じように大きな声で返事があった。
後ろ髪を引かれながらも、俺は自分の部屋へと足を踏み入れる。そしてそのまま扉を閉めた。部屋の中はいつもと何も変わっていない。俺と、兄貴。二人で使っている部屋だ。
俺は部屋の一番広い壁の真ん中にでかでかと貼ってある兄貴の好きなサッカー選手のポスターをぼうっと眺めた。
「夢……だったのか?」
結構な時間、俺はただぼうっとしていたと思う。しばらくして俺は、夢でないことを確かめたい、もう一度だけと自分に言い訳をして押入れの扉を開けた。しかし扉の向こう側にあったのは、物が詰め込まれたいつも通りの空間だった。
「やっぱ夢か……」
そうつぶやいた俺は、しかし掌の中に納まる柔らかな感触を思い出す。ちょっと奇妙な、赤い妖怪のフェルトマスコットのキーホルダー。
「夢……じゃない」
夢ではなかった。手の中にある奇妙なそれが、さっきまでの出来事が夢ではなく現実だということを教えてくれた。
俺はよろよろとした足取りでベッドまで行き、ダイブする。そしてそのまままたしばらくの間天井を見つめ続けた。何もかもが白昼夢の中の出来事のようだった。あの薄気味悪い部屋と、それを抜けた先にあったあの笑顔。天国と地獄のように相反するその印象が、より白昼夢っぽさを演出している。
「これ……兄貴に言っても信じねーだろうな」
いかにホラー好きの兄貴といえでも、さすがにこんな荒唐無稽な話は一蹴されて終わりだろう。けれど何か有益なアドバイスが貰えるのではないかと思った俺は、兄貴が帰ってきたら信じて貰えなくても必ずこの話をしようと心に決めた。