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「……何これ」
窓の外に広がっていたのは日本の昔話に出てくるような、そしてどこか懐かしい感覚すら呼び起こすような、長閑な田舎の風景だった。それに今はもう夕方を過ぎ夜に差し掛かろうという時刻だというのに、窓の外では燦燦とした太陽に照らされた緑の稲が輝いている。完全に昼間だ。白い雲の棚引く青い空には、カラスくらいの黒い鳥が旋回している。でもカラスじゃない。カラスがあんな飛び方をしているのを、私は見たことがなかった。
私は力なく開け放った窓を閉め直した。窓のサッシに添えられた手は細かく震えていた。
私は愕然としていた。確かに窓から出れば外には出られるかもしれない。しかし出た先が何処かはわからない。同じ時刻だったのならまだ外に出る勇気が出たかもしれないけれど、それすら異なるとなれば安易に踏み出すわけにはいかなかった。
「……外にも出られないの?」
絶望した私はよろよろとベッドに腰を降ろした。もう安心できるのはこの部屋の中だけだった。無造作に置かれていた毛布を抱きしめると、涙がとめどなく溢れてきて頬を濡らした。
「なんで……どうしよう。……お父さん、お母さん……お兄ちゃん」
ひとしきり泣いた後には吐き気も催して来たのだけれど、それを私は必死になだめすかした。この場で吐いたら後で片付けも面倒だ。
「夢……夢だよ。きっと夢だ……」
まず突然現れた扉から男の子が出てくるところからしておかしかった。きっと私はベッドの上で本を読みながら寝てしまったのだろう。
寝て、起きれば今度こそ夢から覚める。
そう思った私は眠ろうと目を閉じたが、どれだけ待っても睡魔は訪れなかった。それどころかしんと静まり返った部屋に己の荒い呼吸音だけが響いているのをずっと聞いていると、思わず叫び出しそうになってしまう。
叫んだからと言って誰にも文句は言われないし、むしろその叫び声が誰かに聞こえたのなら助けに来てもらえるかもしれないとも思ったのだけれど、一度叫んでしまったらそのまま正気を失いそうで怖かった。
寝るのを諦めた私は上半身を起こしベッドの上で胡坐をかき、起きた出来事を順に思い出すことにした。何か手がかりが見つかるかもしれないと思ったのだ。
(まずは、ベッドで本を読んでいたときに、扉のノブを回す音が聞こえたんだよね……。それから廊下へ続く扉を見たけど全然開かなくて、なのにキイイっていう扉が開く音がしたから驚いて部屋の中を見回して……)
順に思い出していくと、そういえば、自分はあの扉が出現するところを見ていないなということに気が付いた。
何故、どうやってあの扉は現れたのか。どうして最初から廊下へと続く扉に繋がらなかったのか。
新しく部屋の中に扉を出現させる意味はなんだろうと考えてみたけれど、考えても考えてもその理由は思いつかなかった。
(つくわけないじゃん、そんなの。ホラーなんてそんなもんだよ)
けれどあの男の子は部屋の押し入れの扉を開けたら、あの部屋があったと言っていた。となるとやはり普段ない扉が現れたことの方が、イレギュラーなのかも知れない。
(……そうだ。この部屋から出られないなら、あの和室を通って向こう側に行けば、またあの男の子の部屋に出ないかな? そしたらどうにか助けてくれるかも……)
そこまで考えて、私はふいに嫌な予感を覚えた。あの和室を通り抜けて辿り着く部屋。それは本当にあの男の子の部屋なのかと。
(……もしかして、あの和室にはじめて入る時は自分の部屋の扉からあの和室に繋がって、和室から反対側の扉に出る時だけは、別の誰かの部屋に繋がるとか? それも元々ある扉じゃなくて、新しく、扉のないところに扉を作って……)
まだ一例しか知らないから法則とも呼べない法則だったけれど、あの和室へと続く扉が移動していることを考えれば、また彼の部屋に辿りつけるかは未知数であり、何の確証もないまま行動を起こすことはかなりの冒険に思われた。
けれど私の部屋の扉があの和室に繋がったのは、どう考えてもあの男の子が私の部屋に出てきたからだろう。となると、あの男の子の部屋にも誰かが和室の扉を繋げたということになる。そしてそのことに彼は気づいていないとしたら――。
彼と同じ方法を取れば、もう一度部屋に戻った時には廊下へと続く扉は元に戻っている可能性はある。けれどそうなれば今度は繋がった先の部屋の住人が、私と同じ目に合うかもしれない。
「そしたらどうしよう……」
もしそうだとするなら、やっぱりその後の解決策が見つかるまで実行しない方が良いのかもしれない。でも一人で考えていても埒が明かないだろうし、それにこのままずっとこの部屋に閉じ込められていては、いつかはおかしくなってしまう。そんな予感がしていた。
ならば、と私はもう一度窓へと視線をやった。
窓の外には行ける。出た場所がどこかはわからないけど。でも、もしかしたら同じように閉じ込められた人達の中には、外へと逃げた人もいたかもしれない。
なぜなら、あんな薄気味悪い部屋が急に扉の向こうに現れたとしても、入ってみようなどと思う人間がそうそういるとは思えないから。
私は今度はじっと扉を見つめた。扉の向こうにはきっと今もまだ、あの薄気味悪い和室が待っているのだろう。
「……やっぱ怖いよあの部屋!」
私はあの子が無事通って来たことを知っているから行こうかなと思えるけれど、あんな薄気味悪い部屋へ入るよりは、外へ出た方が幾分マシな気がする。
窓の外に見えた景色は、綺麗で平和そうだった。
このまま精神が疲弊しきってしまったら、私もあの場所を選んでしまうかもしれない。けれど一度外へ出たら最後、戻ろうとしても外から開けた窓のこちら側が元と同じ空間かはわからないし、本当に開くのかどうかすら分からない。となれば、誰かの家に出るだろうことがすでにわかっているあの和室を通った方がいいような気もする。
(行って……みる? 出た先にもし人がいたら、事情を話して……って、話してどうにかなるかな? 話のわからない人だったら? 問答無用で攻撃されたら?)
考えれば考えるほど今更ながらあの男の子の行動は無謀に思えた。けれど思い返してみれば最初からあの男の子は落ち着いていた。むしろ冷静だったからこそああいう行動を取ったのかもしれない。
(いや、最初は気が動転したって言ってたっけ。でも話した感じ能天気というかなんというか……図太い。てか、大物?)
それでも不審者には違いないためすぐに追い返してしまったけれど、今はあの男の子が恋しかった。
どうにかまたあの子に会えないだろうか。そしたら、きっと彼は私の力になってくれる気がするのだ。