2
「あの……」
少しだけ俯き、彼が言い淀んだ。
「なに?」
「あの、なんか、何でもいいんで。何かこの部屋のもの貰えませんか?」
「え?」
「……これ夢なのかなって若干思ってるんで、夢じゃない証拠に」
一瞬何を言っているんだろうと思い呆れたけれど、好奇心だけでこうやって扉を開けて来た彼ならばそう考えるのかなと妙に納得も出来た。
私は彼に渡すものは何が良いかなと考えながら部屋の中を見渡す。そして目についたのは以前集めていたキャラクターのキーホルダーだった。
今はもう集めていないそのキャラクターのキーホルダーは、まとめて洋服ダンスのフックにぶら下げてある。一応は妖精だという触れ込みのそれだったが、縦長のシルエットは妖精というよりも妖怪だ。色も基本はベージュ色だけれど、ご当地限定色として様々な色がある。
私はその中から彼の臙脂色のパーカーと同じ色系統の、けれどもっと明るい赤色のキーホルダーを取り出し、彼に手渡した。
「これでいい?」
「……なんですか、これ? 妖怪?」
やっぱり妖怪に見えるのだなと思いつつ、同時にこれを知らないなんてと思い驚いた。
「知らないの?」
「有名ですか……?」
当時はかなり流行っていたので、一度くらいは彼も目にしていても不思議ではないと思うのだけれど、どうやら彼は知らないらしい。
「数年前に流行ったよ?」
「……へえ? これが……」
私は彼の表情を見て小さく笑った。彼の顔にはありありと不可解といった心情が現れている。確かにキモ可愛い部類のキャラクターなので、興味のない人は知らないのかもしれない。
「……ありがとうございます。大切にします」
彼は宣言通り大切そうに手にキーホルダーをやんわり握り締めると、今度こそ扉の中へと足を踏み入れた。
彼は迷うこともなく全体が黄色というか薄黄緑色っぽい部屋の中央を通り、奥にあった扉を開けた。その扉の向こう側からさらに太い光が射しこんでくる。
完全に開け放たれた扉の向こうには、誰か個人の部屋と思われる光景が見えた。壁にはプロサッカー選手と思われるポスターがでかでかと貼ってあった。
ああ、男の子の部屋だなあと、そう思っていた私に部屋の向こうから男の子が声を張り上げた。
「大丈夫です! 戻れました!」
「わかったー!」
私の答えを聞いた彼は、またゆっくりと扉を閉め始める。最後にちらりとみた彼の顔には、ちょっと照れくさそうな笑みが浮かんでいた。こんな状況下で照れている彼に、私はまた小さく笑った。
彼が扉を閉め切ったのを確認して、私も扉を閉める。彼のいなくなった後のあの黄色というか薄黄緑色の部屋が妙に不気味に見えたことだけが私の心をざわつかせた。なぜか、あの部屋の姿が心に焼き付いた。
私は一度ぶるりと身体を震わせた。
それにしても……。
「これもボーイミーツガールになるのかな……」
よくわからない事態に、よくわからない出会い方。起こった現象だけみればホラーかSFだ。しかも彼はどこの誰かもわからないし、もしかしたら彼自身が幽霊だったという恐れすらある。
それでもちょっとだけ眼鏡の下の整った顔が格好いいなと思っていただけに、これでもう二度と会えないだろうという事実を少しだけ寂しいなと思った。
まあ、いっか。今のは夢だ夢。
そうやって無理やり自分を納得させてはみたが、しかし夢であるはずの扉はまだ消えてはいなかった。
彼が現れ、そして帰って行った扉。
その扉を見つめながら「……夢、だよね?」と私は小さく独り言ちる。
けれど私は確かに彼にキーホルダーを渡している。私は洋服ダンスのフックにかかっている色とりどりのキーホルダーの束を見つめた。その中でも一際目立っていた赤色のキーホルダーは確かに今はそこにはいない。
軽く頬を抓ってみたけれど、当然の如く夢からは覚めない。
確かに夢にしては随分とはっきりとしていた。視覚も、聴覚も、触覚も。すべてが鮮明だ。私は今もまだある彼の消えていった扉へと視線を戻す。そのまましばしその場に佇み扉を見つめていたけれど、いつまで経っても消えない扉に痺れを切らした私は、部屋を出ることを決意した。
「よし! もうそろそろ夕食の時間だから……これから夕食を食べて、戻ってきたら扉は消えている。きっと消えている」
己に暗示をかけるように私はわざと大きく声を出した。
「……もし消えてなかったら―――。……お父さんとお母さんに相談だな」
床に落としてしまった毛布を拾い上げ適当にベッドの上に投げてから、私は部屋の扉を開けて廊下に出ようとした。目の前にはいつも通り、木目調の狭い廊下と私の部屋の真正面にあるお兄ちゃんの部屋の扉が――――
―――あるはずだったのに。
「へあ……」
思わず変な声を出してしまった。
なぜなら自室から出た私の目の前には、暗い階段を数段下りた先にある全体的に黄色というか薄黄緑色の気味の悪い和室が待っていたからだ。
「ちょ……待ってよ、何で……」
額からぶわっと汗が吹き出し、心臓が一気に激しく鼓動を打ち始めた。しかし何度目を瞬かせてみても、目の前の部屋は消えてなくならない。
先ほど男の子と一緒の時には気にならなかったジー、という電気の音だけがやけに耳に残った。
私は震える手で部屋の扉を閉め、後ろ向きのまま部屋の中へと戻った。そしてそのまま扉に寄りかかるようにしてペタリと床に座り込む。
「え……何で? 何で……?」
あの部屋が廊下へと続く扉の向こう側にあるということは――。
私は勢いよく部屋の中を振り返った。そしてあの男の子の出てきた扉がまだあるのかどうかを確認して――。
「嘘……ない」
あの扉はすでにその場所にはなかった。自室から出る唯一の扉は目の前のこの一枚だけ。けれどこの扉の向こうにはあの和室が待っている。
「どうしよう……なんで? なんで……」
これ以上ないというくらい動揺していた私の脳裏に、あの男の子のことが思い浮かんだ。彼はちゃんと自分の部屋に戻れたのだろうかと。
あの部屋の扉の向こうには彼の部屋がすでに見えていた。だから多分帰れたはずだとは思うのだけれど、もし私と同じように部屋から廊下へ出ようとして、またあの部屋に繋がってしまったというような異常事態に見舞われていたとしたら――。
しかし今の私にこれ以上あの男の子のことを考えている余裕はなかった。大丈夫だ。こちらに助けを求めてきていないのだから、大丈夫。そう自分に言い聞かせた。
それよりも、今は自分のことだ。
私はもう一度廊下へと続く扉をそうっと開いた。しかし十センチも開かないうちにまた扉を閉めた。ちらりと見えた向こう側に、やはりあの和室が見えたからだ。
「もう~、待ってよ~。何でえ……!」
あまりの事態に私の目には涙があふれて来た。
恐怖とともに苛立ちもこみ上げてきて、床を平手で何度も叩く。しかしそうやって床を叩いていても何も解決はしなかった。私の手が赤くなっただけだ。
じんじんと痛む掌をすり合わせながら、まずはこの部屋から出ることが先決だと私は考えた。
そう決意したところで、私ははっとして立ち上がり窓の外を見た。窓を開ければそこは外だ。私の部屋は一階にあるので、窓からならばきっと外に出ることが出来る。
窓の向こうには普段と変わらぬ景色がある。青、白、ピンクといった紫陽花が部屋の明かりに照らされて美しく咲いていた。石垣を背負った裏庭に面しているので、紫陽花には適地なのだ。
私は喜び勇み窓を開けた。
しかし開け放った窓から見えた景色は、透明なガラス越しに見ていた景色とはまるで別物だった。