12
「んじゃま、とりあえず行ってみるか」
お兄さんの掛け声で私と太一さんは一斉にあの和室へと続く扉に視線を向けた。行かなきゃいけないのはわかっているんだけど、やっぱりちょっとだけ尻込みしてしまう。でも今度は私一人じゃない。そのことがすごく心強かった。
まずは太一さんが足を踏み出そうとしたのをお兄さんが「待て」と言って止めた。そして「俺が先に行く」と言って太一さんの前に出た。
「一度行ってんだから大丈夫だって」
「わかんねーだろうが。前とは違う状況なんだからよ。お前はミノリンのことちゃんと見てろ」
太一さんはしぶしぶといった感じだったけれど、ちゃんとお兄さんの言うことに従った。この二人はきっとすごく仲が良い兄弟だ。ここ最近お兄ちゃんと口喧嘩しかした記憶のない私にはやっぱり少し羨ましい。
お兄さん、私、太一さんの順番で和室へと入っていく。いつもながらどうしてこの和室はこんなにも不気味なのだろう。きっとその原因のひとつは外の光が入りにくいからなんだろうなと思った私は、ふと窓に目をやった。その瞬間窓の外に何かが見えた気がして私は「あっ」と声をあげた。
「うお! 何だよ」
「どうしたんですか? ミノリさん」
「い、今、窓の外に何かいた……」
「やめろよマジで! そーゆーの!」
「だって何かいた!」
「本当にいましたか?」
冷静な太一さんに見間違いではないかと聞かれた私はもう一度窓の外を見た。けれどそこにはただの暗闇があるだけだった。窓の外が暗いのは、今が夜だからだろうか。この不気味な部屋の窓の外の空間が同じ時を刻んでいるのかは分からないけれど、そうだと思いたい。
夜ならば何かを見間違えた可能性は十分にある。何かが窓の外を横切った気がしたのは、本当に一瞬のことだった。私は別に動体視力が良い訳ではないので、あんな一瞬では何が横切ったのかは判別不可能だ。動物かもしれないし、ビニールの袋とかかもしれない。でも――。
「……何かが見えたような……気がする」
それだけは確かだった。
「気のせいだって!」
「でもぉ……!」
「まあ、いてもおかしくはないけど」
太一さんが私の味方をしてくれたけれど、今回に限ってはあまり嬉しくない。否定されればむきになってしまうけれど、肯定されればそれはそれで恐ろしすぎる。
「おい、止めろ!」
「何だよ。この部屋自体がすでにホラーだろ。今更窓の外に幽霊の一匹や二匹いても驚かねーよ」
「幽霊は匹で数えねーよ! 人だ、人!」
「そういう問題じゃないですよ!」
三人でぎゃあぎゃあ騒いでいると、和室の電球が立てるジー、という音に加え、別の音が私たちの前方――私の部屋がある方向から響いてきた。
――ギイイイイィ。
その音に私の心臓が嫌な音を立てた。そして音が止むのと同時に和室の照度が急速に落ちた。重たい空気が辺りに満ちる。
「嘘……」
扉が閉まっていた。
私はお兄さんと太一さんを振り切り扉の前まで階段を一気に駆け上がり、目の前の閉ざされた扉をペタペタと両掌で触った。
私は確かに扉を開けてこちらに来た。ストッパー代わりにいくつかの辞典だって置いてきた。なのに今、私の目の前にある扉は一筋の光さえ漏れることなくピタリと閉まっている。
「何で! ちゃんと分厚い辞典置いてきたのに!」
叫ぶ私のすぐ後ろで「置いただけですか?」と、太一さんの声がした。
「そうだけど……でも重いよ⁉」
「扉の方が重ければ意味ないだろ」
お兄さんの声も。
「嘘……そんな……!」
そうだ。ストッパーは扉に噛ませるものなんだ。置いて来るだけじゃ駄目だったんだ。何で気付かなかったのと、私は己の馬鹿さ加減に心底嫌気がさした。いくら気が動転していたとはいえ、命綱が最初から綻びていたら、それは命綱足り得ないのに。
「どうしよう……。私、もう戻れないの?」
今日、泣くのは何度目だろう。
ぼたぼたと溢れてくる涙で目が霞んだ。無情にも閉ざされてしまった扉に縋り、私は泣いた。お母さんとか、お父さんとか、お兄ちゃんとか。色々叫んでいた気がする。
だけどそんな私の肩を太一さんが揺さぶった。
「……さん。……ミノリさん! 落ち着いて……。大丈夫。多分まだ扉はミノリさんの部屋に繋がったままです」
「………え?」
「俺たちの部屋に続く扉は開いたままです。多分ですけど……どちらかの部屋へと続く扉が開いていれば、繋がっている場所は固定されたままだと思います」
「ほ、本当に……?」
「開けてみましょう」
太一さんの言葉を聞き、お兄さんも頷いているのを見た私はようやく泣き止むことが出来た。散々取り乱してしまったことが恥ずかしい。でも二人はそんな私の態度を見て見ぬ振りをしてくれた。
「い、行くよ?」
私の掛け声に二人が頷いた。私は大きく音を立てる心臓の上に片手を置き、ゆっくりと扉を開ける。見えてきたのは見慣れた私の部屋の中。
オレンジとベージュのチェック柄で統一した温かみのある色彩のカーテンとベッドカバー。一目ぼれした布でお母さんに作ってもらったものだ。そこにちょっと薄い茶色とベージュのチェック柄のクッションを合わせてみた。夏はちょっと暑苦しい色なんだけど、秋から冬にかけては本当に暖かそうで落ち着く色だった。
「……私の部屋だ」
また涙が零れてきた。そんな私にお兄さんが「良かったな」と声をかけてくれた。後ろを振り返れば太一さんが微笑んでいる。
一人じゃなくて良かった。
二人がいてくれて良かった。
まだ何にも解決してないけれど、私は心からそう思った。
「で、だ。どうするよ」
お兄さんと私と太一さんは全員で顔を見合わせた。今度は私の部屋の床に二人は腰を降ろしている。ベッドに座っても良いと言ったのに、二人は遠慮してさっさと床に座ってしまったのだ。
「とりあえずさっきも言った通り、お互いの部屋の扉のどちらかが開いていれば俺たちの部屋とミノリさんの部屋で固定できると思う。それに、俺たちの部屋にはあのキーホルダーがあるから、万が一両方の扉が閉まっても、もう一度繋がる確率は高くなると思うんだ」
太一さんの言っていることには一応の信憑性がある。なぜなら、一度完全に互いの部屋の扉を閉めた後でも、私の部屋からは太一さんたちの部屋に出られたからだ。
「あのキーホルダーは本来向こうにはないはずの存在なんだ。多分なんだけど……あのキーホルダーがこっちとあっちを繋ぐ鍵だと思う。だからさ……」
そう言って太一さんは私に何かを差し出して来た。
「何これ?」
「俺の部屋にあったキーホルダーです」
私の目の前には金属製のロケットを象ったキーホルダーが揺れていた。
「あの扉が部屋同士を繋ぐっていうなら、部屋にあったものって所が重要なんじゃないかなと思って。兄貴も言ってたけど、これで万が一扉が閉まっても、ミノリさんの部屋と俺たちの部屋が固定される可能性はあります。念のため、この部屋に置いておきましょう」
太一さんの言葉に頷きつつも、私は太一さんとお兄さんが、あっちとかこっちとか、どうやら私のいた世界と太一さんたちのいた世界が別の世界だと示す言葉を意識的に使うのを避けているらしいことが気になっていた。多分私に気を使ってくれているのだろう。
でも私はといえば、まだそのことを完全には信じられないでいた。もしかしたら住んでいる世界が違うなんていうのは私たちの盛大なる勘違いで、私たちは実はまったく同じ世界に住んでいるのではないかと。
むしろ九割ほどはそう思っていると言っていい。だって私はこの目で確認していない。
「あの……本当に、向こうとこっちって別の世界なのかな……?」
太一さんとお兄さんの視線が私に突き刺さった。でもそれは否定的なものではなくて、私と同じようにそこに希望を見出している目だ。
「そうですね……。俺たち全員が奇跡的な勘違いをしているって可能性もあるかもしれない」
「……まあなあ。この部屋の中だけじゃなんとも言えないが、ミノリンがアホの子って可能性もなくはないか」
「ひどい!」
「超若年性の認知症とかな」
「違いますう!」
「――とりあえず」
いつもながらの冷静な太一さんの声に、私とお兄さんの言い合いはピタリと止まった。
「まずは本当にこの部屋から出られないのか、もう一度確認しよう」