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鬱陶しい梅雨が終わり、夏ももうすぐそこといったある日の夕暮れ時。
私がベッドの上に寝転がり仰向けで本を読んでいると、ガチャリ、と部屋の扉のノブを回す音がした。私は顔をあげて廊下へと続く部屋の扉を見たけれど、扉は閉まったまま。ノブを回してはみたものの開けることを躊躇っているのだろうか、いつまでたっても扉が開く気配がない。
家には今家族全員が揃っている。だけどお父さんは滅多に私の部屋になんか入らないしお兄ちゃんなら私の部屋に入るのに躊躇ったりなんかしない。お母さんならいつも私の部屋に入る前には声をかけてくるので何かがおかしいと思っていると、部屋の扉はいまだ閉じたままだというのに、どこからかキイイという音が聞こえてきた。
扉の開く音だ。
だけど私の部屋に扉は一つだけ。なら一体どこの扉が開いたというのだろう。
私は驚きのあまり勢いをつけて上半身を起こし部屋の中を見渡した。すると部屋の南側、いつもはただの壁であるその場所に、いつの間にか扉が現れていた。
そしてその扉は今まさに、扉の向こうにいる何者かによって全開まで開かれようとしている。
あまりの出来事に私は「え……?」と声をあげた。
私はあまりにもはっきりと存在を主張している扉に、もしやあそこに扉がなかったというのは私の記憶違いだったのかなと思い始めた。けれど私の記憶違いで実際にはあそこに扉があったのだとしても、扉の向こう側は裏庭に続いているはずだ。
とういうことは、外から誰かが入ってこようとしているってことだ。
そう考えた瞬間、私の身体から一気に血の気がひいた。
「……嘘。誰? 強盗? いやでも……そうだよ。やっぱあそこに扉なんてなかったって!」
そうだ。あの壁に扉など付いていなかった。もう十年以上この部屋を使っているのだ。間違えるわけがない。どうやら人間は驚きすぎると記憶に支障を来すらしい。防衛本能だろうか。
しかし実際に目の前には扉があり、そしてそこから何者かが私の部屋に侵入しようとしている。
私が動揺している間にも、扉はゆっくり、ゆっくりと慎重に開かれていく。私は思わず叫び出しそうになり口を手で覆った。悲鳴を上げて相手に逆上されてしまうことを恐れたのだ。
私は読みかけの本をそのままに、カタカタと震え出した身体を無理やり動かし、ベッドからそろそろと降りる。途中毛布が脚に引っ掛かってベッドから落ちてしまったけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
私は廊下へ続く扉に、転ばないようゆっくりと後ろ向きで近づいた。目を離した隙にあの扉の向こうから何かが飛び出してきそうで怖かった。
私が後ろ手で扉のノブに触れた瞬間、目の前の扉が開き切った。そして現れたのは――。
「……あれ?」
眼鏡をかけた男の子だった。
細い黒縁眼鏡に、茶色い癖毛。年は高校一年生の私よりも若そうだ。中学生くらいだろうか。深い臙脂色のパーカーにベージュ色のチノパン。足元はスリッパ。こんなときだといういのに私は、外から来たというのに彼はなぜスリッパを履いているのだろうと不思議に思った。
「え? ひとん家?」
「え?」
家に入るための扉を開けているのだから他人の家に決まっているだろうに、何故か男の子は驚いている様子だった。扉を開けて入って来た瞬間、男の子はわずかに眉を顰め、そしてすぐに大きく目を見開いたのだ。
私がじっと男の子を見つめていると、男の子が急に慌て出した。
「す、すみません俺! まさかひとん家に続いているだなんて思わなくて!」
言っていることは理解し難かったけれど、こうやって見る限り悪い人間には見えなかった。それに本当に驚いているように見える。演技だとしたらたいしたものだ。
入って来たのが恐ろしい強盗などではなくいたって普通の子だったことに安堵した私は、今も慌てているその子に声をかけた。ツッコミと言ってもいい。
「いや……ひとの家に決まっているでしょう?」
「ええ? いえ、でも……どうやって繋がっているのか全然わかんなくて」
男の子は言いながら首を傾げているが、今度は私が首を傾げる番だ。
「繋がっている?」
「えっと……俺家の中からここまで一歩も外に出てないんですが……」
「え?」
「俺んちが他人の家に繋がっているなんて、ありえないし」
「は?」
「……ああ、見て貰った方が早いかも?」
男の子が私を見て扉に入るように促してきたけれど、急に現れた扉の中に入るなんて普通に怖い。しかし壁に突然扉が現れるなんてこと自体がすでにあり得ないことでもある。覗くだけなら大丈夫かなと思ってしまった私は、きっと恐怖が度を越し過ぎて感覚が麻痺していたのかもしれない。
私はそろそろと扉に近づき、開け放たれた扉の向こう側をそうっと覗いた。すると奥には和室が見えた。奥に、といったのは、部屋からこの扉までの空間には数段の階段があったからだ。
「え……部屋……がある?」
私の声に気づいた男の子が、「はい」と答えた。
「あっ。でも今見えているあの部屋は俺の部屋じゃありませんよ?」
「え? どういうこと?」
「詳しく言うとですね……俺は自分の部屋の押し入れの扉を開けたつもりだったんですけど……開けたら階段の下にあの部屋がありまして……。ちょっと、俺も最初は気が動転してたんですけど、好奇心が勝ったというか。それで、入ってみたらまた扉があったんで開けてみたんですよ。そしたら……」
そういって男の子は私を見た。「ねえ」といって何故か同意を求められたが、ここで彼に言うべき台詞は一つしかない。
「……入っちゃ駄目でしょ!」
というより、こんなわけのわからない部屋によく入る気になったものだ。
「ええ⁉」
「そんなわけわかんない扉の中! 帰れなくなったらどうするつもりだったの!」
「え? 帰れないんすか、俺」
彼は私の台詞に驚いたように目を丸くした。帰れるという確証がないのに入ったのだろうか。だが私にも帰れなくなるという確証があったわけではない。だから正直にそう言った。
「わかんないけど!」
「ええ~、ヤバいな。帰れるかな」
口ではそう言いながらも、男の子はそこまで困っているようには見えなかった。むしろその態度からは余裕すら感じられた。
「わかんないけど今すぐ帰んなよ!」
「ええ、でも……」
「ほら、閉めるよ!」
私は男の子を無理やり扉の向こう側へと押し込み扉を閉めようとした。しかし男の子の抵抗にあってしまった。
「いや、まだ閉めないでくださいよ! せめて俺が向こう側行って扉の向こうに戻れるか確認するまで開けといてください! ここから見えるから」
そういって少し前かがみになって部屋の奥に見える扉を指し示す男の子。
私も彼と同じように腰を低くする。すると、奥には同じように扉が見えた。その扉の前にはよく見ると何かが置いてある。すべて閉じ切らないようにしてあるのだろう。その扉の向こうから和室には、細い光が射しこんでいた。
確かにここで扉を閉めて男の子が中に閉じ込められたら大変だ。小説や漫画の中ではこういうよくわからない扉の向こうは亜空間とか異世界と言った場合が多い。このまま元来た場所に彼が帰れるのならばそれで良いけれど、もし帰れなかった場合こちらで保護しなければならない。
それにしてもこのザ、和室という部屋に洋風の扉は似合わないな。
そんなことを思った自分に、私自身が驚いた。
先ほどから目の前で有り得ないことばかり起きていると言うのに、自分で思っているよりも冷静に対処出来ている。きっと思っていた以上にこの男の子が冷静だからなのだろうなと思う。もし彼が恐怖のあまり自我を失っているような状態だったなら、私もここまで冷静でいられたかはわからない。
「……わかった。帰るまで見てる」
「……絶対ですよ。俺の部屋に戻れたら合図しますんで」
そういって男の子は扉の向こうへ足を踏み入れ―――る直前、私に向き直った。