1 いにしえの魔獣
生い茂る樹木の勢いは巨人のごとく。
足元より伸びる草花は腰の丈にも及び。
自然の楽園。
幼い頃より聞かされていたその言葉は、まさにここを示すに相応しい言葉であろう。
風には湿り気の混じった花の香りと、わずかに獣の匂いも紛れ込んでおり。
ここレレムの山は、遠い昔からこの森羅の様を変えていない。
なぜなら、ここは霊峰の山。
この山は通常よりも魔素の濃度が濃く、魔力に満ちる神聖な場所として、古くよりそんな風に呼ばれていたのである。
植物たちは太陽光より行う光合成に加えて、この魔素という名の栄養剤により指数的な成長を遂げている。
ゆえに、それを主食とする魔物たちは凶悪なものが多い。
しかし実際に、レレムの山一帯で魔物を目撃するのはかなり難しくなる。
この山の麓には魔族たちの大きな都市が存在していて、そこから定期的に魔物狩りの巡回兵が出歩くため、魔物が山に住み着くことはできないようになっていた。
なぜそのようなことがなされているかというと、都市の安全を保つためというのも理由にはあるが、一番の理由はこの都市の収入源となる鉱山を守ることにある。
魔素が豊富なレレムの山の内部には、数多くの魔石が生成しており、それを採掘および加工して販売することで、レレムに住む魔族たちは生活を潤わしてきたのである。
巡回警備の任務は主にレレムに所属する軍が担っており、そこに所属するイルスト・セイビアは、まさに今日がその役割となっていた。
「どうだ? 少しは慣れたか?」
後輩でもあり、本日が初めての巡回任務となるピルム・アクレイシャへ言葉をかけると、彼はイルストの方へと向き直ってからハキハキと答えてきた。
「はい! 行軍訓練も戦闘訓練も十分ですし、万が一魔獣が出てきても行動対処方針は立ってます!」
そんな彼の回答に、イルストは頬をポリポリと掻いてしまう。
「そうか。だが、そんなに肩肘張らなくていいぞ。決められたルートを見て回るだけの簡単な仕事だ」
「わかっています! ですが、そんな地味で大したことのない仕事だからこそ、私は熱心に取り組みたいと思っています!」
「お、おう。そうか」
イルストは苦笑いを浮かべそうになるのを堪える。
この仕事は、はっきり言えば退屈なものだ。
定期巡回はかなりの頻度で行うため、新たな魔物のほとんどは幼体の段階で駆逐される。
イルスト自身も、かつては街を守る兵士という職業に大きな夢を描いていた。
だが、実際に今やっている仕事はこうして山を歩き回り、たまに見つける無抵抗の弱い魔物を槍でつくだけのつまらないものだ。
ピルムを見ていると、かつての自分を残滓しているような気がして、イルストは泥水を飲んだような思いを抱いてしまった。
「レレム軍にはもう慣れたか? 訓練課程もだるいのばかりだろう?」
「だいぶ慣れてきました! 今は新兵として、基礎的な訓練や座学に努めているところです!」
「ピルムは真面目だな。俺は座学なんてほとんど寝てたからな」
「? 寝ていても班長になれるなんて、先輩はすごいんですね!」
この返しに、イルストは苦笑いを強めるばかり。
今日初めてイルストの部下となったピルムだが、彼の性格が今の会話で何となく掴むことができた。
彼がこれを冗談で言ってきているのであればイルストも気の利いた返しができたものを、きっと本心で言っているのであろう。
「とりあえず今日はいつもの巡回ルートだ。そう肩に力を入れずに臨むといい」
「はい! 初めての実習ですので、精一杯がんばります!」
イルストにとってはうんざりとした任務を、ピルムにとっては目をキラキラと光らせてしまう任務を進めながら、その道のりが七割ほどに達した頃だろうか。
ようやく終わりが見えてきたことにイルストが安堵の息をついたとき、彼の目に不吉なモノが映った。
姿をその目にはっきり捉えたわけではない。
だが、何か巨大なモノの影がチラっと木々の向こうに見えたのである。
片手を上げてピルムへと合図し、体をかがめてヒッソリとその影があった方へと視線を送り続ける。
「せ、先輩……?」
「静かに! 何かいた。明らかに大きい」
影が見えただけなので推定ではあるが、少なくとも彼らの身長より大きいということだけは言える。
音を立てないように注意しながら草を避けて何とか視界を確保しようとするも、生い茂る草木の妨害は数知れず、向こうの方を見通すことができない。
「ピルム、俺が先行する。お前はここで待機だ。いざという時は逃げろ」
「で、ですが、こういう時は一緒に行動した方がいいと教本に――」
「教本なんて現場じゃほとんど役に立たない。初めての実習の学びとして覚えておけ」
投げつけるようにその言葉を飛ばして、前進を開始する。
何かがいる。
僅かではあるが、息遣いが聞えて来るのでそれは間違いないであろう。
逃げた方がいいのかもしれないが、さすがに姿も確認せず、よくわからない何かがいた、なんて上司に報告するわけにもいかない。
せめて姿恰好と、可能なら戦闘力くらいは目算をつける必要があるであろう。
草をかき分けて、だいぶ進んだであろうか、まだ奴の姿が見えてこない。
あるいは本当に見間違えだったのだろうか。
――と思った瞬間。
「ぐぁぁ! ぎぇぇ、がはっ……!」
自分の背後からその声が聞こえて来て、背筋が凍り付く。
すぐさま振り返ると、ピルムが宙吊りになっていた。
そのはらわたは獣の爪によって背中から貫かれており、臓物がぶちまけられ、口からは大量の血を吐いているところだった。
「ピルム!!」
急いで背後に戻ろうとするも、奴の姿を目視して足が止まってしまった。
「なんだ……、こいつは……!?」
見たこともない生き物。
特筆すべきは、体がまるで別の生き物を繋ぎ合わせたかのようになっていることだ。
キメラという生き物をイルストは物語の中で聞いたことがあるが、目の前にいるソレはまさにそんな風貌に見える。
「せん……はい……たす、けえ」
痙攣反応起こしながら、ピルムが助けを求めて手を伸ばしてくる。
今日出会ったばかりの、おまけに若干忌々しく思ってしまう後輩ではあったが、だからと言ってそれを見捨てるほど人情のない魔族ではない。
何とかして現状を打開しようと頭を捻るが、どれだけ考えても彼をあそこから救い出す方法が思い浮かばない。
目の前のキメラは明らかにイルストを上回る戦闘力を有している。
本当はこの場から全速力でレレムにまで逃げ、助けを呼びに行くのが最も彼の命を救える可能性が高い。
なのに、ピルムの微かな希望を求めるその瞳がどうしてもイルストの足を動かさせてくれない。
かつて、自分が夢を描いた兵士という仕事。
その夢を彼の瞳はまだ追っている。
あるいは、それを知ってしまったから、イルスト足は奴へと立ち向かう方へと動いてしまうのだろうか。
「くそっ! 【アイススピア】!」
氷槍の魔法を放って、それと共に抜刀しながら突撃。
この行為がいかに無謀であるかは、長くこの巡回任務に就いてきたイルストであれば直感できる。
だがそれでも、冷静さより人情を重んじる彼の心は、足を後ろにではなく前へと向けていた。
氷槍はヒョイと避けられて、そのまま――
視界が飛び、イルストが気付いたときには地べたに横たわっていた。
――手が濡れている。血か?
それを見て理解した。
ああ、自分の血なのか、と。
視界をあげてみる。
横たわった自分を舐めるように見つめるキメラの瞳がそこにはあった。
腕の一本の爪には未だにピルムが貫かれたままで、彼はすでに気絶している。
いや、息を引き取っているのかもしれない。
そしておそらくは、自分もあと数秒で同じ運命を辿るのであろう。
体を動かそうとするもうまく動いてくれない。
たぶんだが、奴の尻尾に薙ぎ払われて、木に激突したと思われる。
痛みの具合から、骨はおろか、内臓も破損している。
もう助からない。
「こん、な、さいご、か……」
諦めのため息とともに死を悟ったイルストは目を閉じた。
結局、目の前の退屈さに努力すらやめてしまった自分には、ある意味相応しい最期だ。
意識が深いところへと落ちていく最中、イルストは遠くから声が聞こえた気がした。
誰か、女性の声を。




