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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

GL系

その雨の中、わたしはわたしを殺すことにした

作者: 佐々森渓

 暖かな部屋の中、激しい雨音がわたしの聴覚を満たしていた。


 わたしは雨が好きじゃない。どんよりした空気感がダメだし、地面や家屋を叩くあの音が、気分の悪い時に聞こえてくる音に似ているから。

 帰宅してから付けっぱなしのテレビからは、記録的な豪雨で交通網が混乱していることや、帰れなくなった人々の悲哀が聞こえてくる。

 各局どこを回してもL字型の画面になっていて、この雨がどれだけの災害かを嫌でも知らせてくる。


 気分が悪い。とても。

 本当ならこんな日はさっさと寝てしまうのがいい。耳栓をすれば雨音だって聞こえなくなる。それでも足りなければ音楽でも垂れ流せばいい。こんなにも雨音がうるさいんだから、少しくらい隣の部屋が騒がしくても怒ったりはしないだろう。


 だけど、わたしには寝られない事情があった。

 これから友達がやってくるからだ。

 花守すみれ。わたしの大好きな(ひと)。いつも明るくキラキラしていて、流行りの服も簡単に着こなせる憧れの子。わたしみたいな女にも分け隔てなく接してくれた親友。

 そんな彼女の心に天気が引きずられているかのように、遊びにくる日は決まって雨が降っていた。今日ほど激しいのは初めてだけど、いつも傘を片手にどんより沈んだ顔で慰めてもらいにくる。

 誰だって、好きな相手がそんな姿で現れるのがわかっていたら、自分を優先して眠るなんて出来ないだろう。心配と慕情で心臓が張り裂けそうなくらいに苦しくなるから。


 ちら、と窓の外に目を向ける。ベランダへと続く掃き出し窓からは、このアパートに続く道が見える。あまりの大雨で、ちっぽけな街灯では足元が見えないくらいに暗かった。

 彼女は大丈夫だろうか。水たまりに足を取られていないだろうか。今度はどんな苦しいことがあったんだろう。

 こんなにも天気が悪いのは初めてだから、ぐるぐると心配の気持ちが頭の中で空回る。嫌な想像で吐き気すら覚える中、呼び鈴が鳴った。

 飛ぶように部屋を横切って玄関戸をひらけば、ただでさえ白い肌が透けて見えるほどに白くなった彼女がいた。

 この雨だからか靴も靴下もぐっしょり濡れていて、オフィスカジュアルというには少し派手なスカートも、雨を吸って脚に絡みついている。

 羽織っていたダウンのおかげか、トップスは辛うじて濡れていないけれど、あまりの湿気に彼女の柔らかい茶髪は波を打ってしまっている。おかげで少し気合の入った化粧が噛み合わなくなっていた。

 悲惨。たぶん、十人が十人そう評価する姿だろうけど。


 ……わたしは少しだけ、綺麗だなって思ってしまった。


「ちーちゃぁん……」


 見惚れていたわたしを彼女の声が呼び戻した。

 すがるようなその声音に、どう返すかほんの少し迷ったけど。


「まずはシャワー浴びよう?」


 どうにかその言葉を絞り出せた。


   ●●●

 

 乾燥機の回る音が響く中、彼女が選んだ映画が流されていた。わたしは、スカートや靴下が乾くまでの間、湯冷めしないように布団でくるまれた彼女と並んでソファに座り、ぼうっと画面を眺めていた。

 いつもそうだった。わたしたちは、ただ無言で映画を見ていた。そんなわたしたちの代わりに、スクリーン上の人々が騒ぎ立ててくれる。おかげで無言でも間がもたないと感じないで済んでいた。


 流れていく物語に、わたしたちはリアクションを挟まない。まるで面白すぎてそんな暇がない映画を見てるみたいに。

 でも実際のところ、映画は退屈なものだった。事件らしい事件も起きず、ただ淡々と時間だけが過ぎていく。映像は綺麗だけど、それだけ。正直、眠くなる。

 だけど、今はその退屈さが必要だった。シャッキリとした頭では人に甘えられない彼女には、意識をとかしていくものが必要だったから。


 画面の中、気づけば何かもめごとが起きたらしい雰囲気になっていた。冒頭からあまりにも起伏のない映画だったから、これが山場なのかもわからない。それに、そうだとしても内容なんて頭に入ってこない。わたしの意識は彼女に向いていて、退屈な物語は耳を素通りしていく。


 す、と視線を隣にやれば、ソファの肘置きにもたれかかった彼女がひどく眠そうな顔をしていた。自信屋なのを示す眉が少し下がって、まばたきの回数が増えている。ぱしぱしとしばたたく度、長く豊かなまつ毛が液晶の放つ三原色をまとって煌めく。それはまるで、夜景写真に映る玉ボケのようで、ため息が出そうなくらいに綺麗だった。

 これだけ眠そうなら、そろそろ相談ごとをこぼし始める頃だ。今回は何があったんだろう。また恋人ともめたんだろうか。それとも仕事で厄介ごとでもあったのか。

 どっちもわたしからすれば縁遠いことで――いいや、仕事の厄介ごと自体はわたしにだってあるけれど、彼女が巻き込まれるようなものとは違う。

 わたしみたいなパッとしない女からすれば、彼女が受けるような()()()()は別世界の出来ごとで。


 だから、その苦しみは想像することしかできない。

 だから、彼女が打ち明けてくれるまで待つことしかできない。


 本当は自分から聞くべきだろうとはいつも思っている。けれど、ちゃんとした恋愛経験もない女が、どうして自分から悩みを訊けるんだろう。

 ううん、本当は怖いだけだ。わかった顔をして質問して、外れた時に馬鹿にされるのが怖い。たとえ彼女はそんなことをしないとわかっていても、染みついた恐れがわたしを縛り付ける。だから、どんなに心配で苦しくても、わたしから訊ねることはできなかった。

 それでも、彼女からするとわたしの姿勢はありがたいみたいで、こうして遊びに来ては悩みを打ち明けてくれる。

 それ以外にも時折、映画だけ見て帰っていくこともある。そんな時、わたしはハラハラしっぱなしだけど、彼女はとても満足そうに帰っていく。それはきっと、自分には頼れる相手がいると確認できたからなんだろう。


 うん。都合よく使われているだけだってわかってる。

 でも、誰だって、好きな相手に頼られたらうれしいでしょう?

 たとえそれが、世間的にはよろしくない頼り方なんだとしても。


 時折、彼女の様子を窺いつつ待っていると、盛り上がっていたはずの映画が、いつの間にか話のまとめに入った雰囲気になっていた。正直、盛り上がったというにはあまりにも短すぎて、映画としてこれでいいんだろうかと思ったりもする。

 それにしてもどうしたんだろう。いつもはとっくに悩みを話してくれてるのに……。


 横目で彼女を見ると、もたれかかっていた肘置きに脇腹から沈み込んでいた。せっかくまとわせた布団もズリ落ちて役目を放棄していた。

 はたから見ればひどく苦しそうな寝方だけど、その瞼は固く閉ざされていて、すうすうと柔らかな寝息がする。まるでベッドから頭をはみ出して眠る猫のようだった。

 その壮絶な寝落ち姿に、どっと全身から力が抜けた。


「もう、体痛めるよ」


 この大雨の中歩いてきたのだ。きっといつもより疲れてしまったんだろう。

 小さくため息をつくと、眠ってしまった彼女を引きずり上げて、ちゃんとソファに寝かせる。結構雑に引きずったけど、彼女が目を覚ますことはなかった。

 こうなってしまうと、もう映画を見ている必要もない。テレビの電源を落すと、雨音と彼女の寝息だけが聞こえるようになった。


 布団をかけなおされた彼女は、ずるずる音を立てて寝返りを打つと、少し膝を抱え込むように背中を丸めた。

 その顔はどこか苦しそうに眉が歪んでいる。時折、瞼がヒクヒクと震えて、夢を見ていることを伝えてくる。

 しばらく見つめていると、目尻にきらりと涙が浮かんできて、微かに開いた唇からは浅い吐息が聞こえ出した。


「ごめ……なさい」


 ふと、そんな寝言が聞こえた気がした。

 きっとそれは、わたしのところに逃げ込む前に起きたことと地続きだ。縋るような声色が何があったかを伝えてくる。


「……大丈夫だよ」


 傍らに腰を下ろし、崩れてしまっている髪を手ぐしでとかしながらそう囁く。

 わたしの言葉は、夢の中で彼女が望んだ人のものに変わったのか、苦しそうだった寝顔が少し和らいだ。

 そうして何度も大丈夫と囁きながら彼女の髪に触れていると、ふつふつと怒りが湧いてくる。

 ああ、わたしが恋人だったなら、こんなふうに苦しませたりしないのに。この子がずっと笑顔でいられるようにエスコートするのに。どうして彼女の恋人たちはこんなにも愚かなのだろう。


 そこまで考えてふっと自嘲を吐息した。


 もしも、わたしが恋人だったなら、きっと感情をうまく操縦出来ないだろう。彼女の恋人たちと同じように、空回りしたり身勝手をして彼女を傷つけるに決まってる。

 だから、想いを押し殺して親友で居続けることにしたんだ。そうすれば彼女に頼ってもらえる。そばに居られる。

 それは幸せなことだ。なのに、たまらなく苦しい自分がいる。だってそれはどれだけ足掻いたって“友達“の先に進めないってことだから。どれだけこの子を愛していても、それは一方通行でしかないんだって思い知らされ続ける。

 いいや、もしかしたら一歩踏み出せば、わたしの抱えるこの気持ちを打ちあければ、彼女は受け入れてくれるかもしれない。


 でもそれは、極限まで都合のいい妄想だ。


 友人だと思っていた相手に、ある日突然特別な好意を向けられていると打ち明けられて、いったい何人が受け入れられるだろう。

 そういう目では見られないと友達に戻れるならまだいい方で、絶交されることだってあり得る。

 それでも進まなければ何も得られないと、進まない人を臆病だと嘲る人たちもたくさんいる。

 その人たちにはきっと、この苦しみはわからない。

 わたしはすみれが好きだ。愛してる。赦されるなら、受け入れてくれるなら恋人になりたいし、キスもそれ以上のこともしたい。

 だけど、それを打ち明けた結果、今の関係を失うくらいならわたしは自分を殺す。どれだけ苦しくたって、親友なら彼女の隣に居られるんだから。

 胸の中で狂う慕情を握りつぶしながら、苦しそうな寝顔の彼女へ囁きかける。


「きっと、その人は君のことを愛してるよ。今日は、巡り合わせが悪かっただけだよ」


 宥めるようと声をかけながら、まだ苦しそうな彼女の頬に恐る恐る手で触れた。わずかに触れた指先から伝わる肌はあまりにも柔らかくて、呑み込まれてしまいそうとすら感じるのが驚きだった。

 でもそれ以上に驚いたのは、その冷たさだった。冬に凍えたマグカップに触れたときのような、尖った冷たさがわたしの手を突き刺してくる。

 衝撃のあまり、わたしはすぐに手を引いた。

 シャワーを浴びて布団でもくるんだのに、彼女はまだこんなにも凍えていた。

 そんなことにも気づけなかった。いつもみたいに告白してくれるのを待ってばかりで、何一つ気を使えてない。やっぱりわたしは、彼女を傷つけた相手と同じなんだろう。

 一つ呼吸して、改めてその頬を手で包み込む。少しでも温まって楽になって欲しかった。


「ごめんね……」


 わたしの謝罪を、夢の中の彼女はどう捉えたのだろう。

 むにゅむにゅと口を揉むような音と共に、ひどく聞き取りにくい声でありがとうと言われた気がした。

 それはわたしに向けた言葉じゃないけれど、少しだけ救われた気がした。


   ●●●


 それからお風呂を沸かしたわたしは、彼女を起こすと改めて体を温めさせた。

 入浴中に調べたところによると、電車は全く動いてないらしい。となると、泊めるしかなかった。

 パジャマはわたしのを押しつけたけど、下着は流石にそうもいかないのでダッシュで買いに行った。

 よく甘えに来るのに服とか置いてないのかって? いつもは泊まる時間まで居たりしない。そもそも服がダメになるくらい雨は降らないし、悩みを吐いたら元気になって帰ってしまうから。


 そうしてわたしがてんやわんやしてるうちに風呂から上がった彼女は、わたし愛用のパジャマに身を包んでいた。

 その姿見たとき、気が狂いそうになった。

 だって! 化粧を落とした無防備な姿で! すみれがわたしの! パジャマを着ている!!

 その現実に胸がときめいた。世間の人たちが彼シャツをあんなに持て囃す理由がわかった気がした。


 さてあとは就寝するだけ……と、ここで問題に気付いた。

 うちには客人用の布団なんてない。

 父や母が様子を見に来るときは近くのホテルに泊まっているし、パーティを開くような集まりだと雑魚寝が常だ。

 さて、どうしようと二人して悩む。

 ソファで一晩寝るのは、狭すぎて翌日体が辛いだろう。いや、彼女を休ませるためなら、わたしは甘んじてその苦行を受け入れる気で居たが。


 もちろんそんな真似を彼女が許してくれるはずもなく。


 どっちがソファで寝るか揉めに揉めて。じゃあ、いっそ一緒に布団で寝ようということになった。

 正直わたしのメンタル的にはしんどいの一言だったけれど、決めたことは譲らない彼女だ。どう言い訳をしても許してはくれないだろう。

 嬉しさと苦しさで胸中をいっぱいにしながら、布団に入る。

 顔が、顔が近い! すっぴんなのが嘘みたいに長いまつ毛が目に刺さりそうだし、呼吸するたびにその吐息が肌にかかる。なにより、体温と体臭を感じてしまって頭がおかしくなりそうだった。


「いつも何も言わずに甘えさせてくれてありがとう。お泊まりもさせてくれて、ありがとう」


 そんなわたしの混乱をよそに、彼女は心から感謝を伝えてくれた。

 ……まったく、何を興奮してるんだろう。

 彼女はこんなにも信頼してくれてるんだから。わたしのやましい気持ちなんてものは、捨ててしまおう。


「ううん、親友だから。これからも頼ってね」

 わたしは自然に笑い返せただろうか?


 それが少しだけ心配だったけれど、彼女は嬉しそうな顔をしていたから、きっと成功したんだろう。

 そのことに安心して目を閉じれば、世界は雨音と彼女の吐息だけで満たされる。

 狭苦しい布団の中で触れ合う指や足から、わたしたちの体温が溶け合っていく。

 恋人同士ならこの先もあるんだろう。体温どころか、吐息も何もかもが溶けあう景色が。

 だけどわたしたちは友人だからこれでいい。

 この小さな幸せで、充分なんだ。


 ……そうやって、わたしは自分に嘘をつく。

 本当は苦しくて苦しくてたまらない。

 それでもわたしは、こうして彼女の親友を続ける。

 一番近くで彼女の苦しみも喜びも分かち合うために。


    ○○○


 朝には雨も止んでいて、カーテンを開けば目が痛いくらいの朝日が差し込んでくる。

 光が直撃した彼女が呻きながら目を覚ました。ぶるぶると震えながら背筋を伸ばす姿は、どこか猫に似ている。


「いまなんじ……」


 しょぼしょぼと目をしばたたかせながら、彼女が自分のスマホを手に取って画面をつけた。瞬間、あっと叫んだ。喜びを含んだ叫び声に、胸を突き刺すような嫌な予感がする。


「ねえ見て!」


 スマホ越しの彼女の顔は満面の笑みで。

 無防備に見せているその画面には、彼女から恋人に対する大量の罵倒メッセージと、恋人からの『昨日はごめん』という絵文字も何もついていない、簡素なメッセージが表示されていた。

 とりあえず謝っているようにしか見えなくて怒りが湧いてくる。せめてもう一言二言添えてたらこんなにも怒りはしないのに。

 だけど、彼女の気持ちはわたしとは正反対。そんな些細な言葉でこんなにも華やかに笑える。


「よかった~。嫌われてない~」


 よっぽど嬉しかったんだろう。スマホを胸に抱き込んで布団の中でバタバタしていた。

 その手前にたくさん続いていた彼女からの罵倒は、たった一言で消えてなくなったのだ。だって、その文句たちは私に構ってという懇願のあらわれだったんだから。


「よかったね」


 胸を埋め尽くしたそんな男やめなって言葉を必死で握り潰す。だってわたしは彼女の親友だから。恋人と仲直りできたら祝福するものだから。

 それに、ここで水を差すようなことを言ったって意味がないと知っている。同じような喧嘩を何度見たことか。

 だから、ただ祝福して、また傷ついた時に甘えてくるのを待つ。

 たぶんこんなわたしを誰かが見たら、そんな女やめなよと言われるんだろう。そんなふうに忠告してくれる友人はわたしには居ないけど、きっと言われたとしても聞き入れることはないんだろう。

 よくないとわかってても、離れられない。恋愛なんてそんなものだ。


「あ、このあと時間ある?だって! どうしよ、着替えとかないよ!」


 布団から飛び起きた彼女があわあわと慌て出す。こうなると簡単な答えにすら辿り着けない。

 だからそれを差し出してあげる。わたしは親友だから。悩んでる間にタイミングを逃してしまえなんて、思わない。


「もう少し後にしてもらって、家に着替えに戻りなよ。それくらいなら彼も待ってくれるでしょ」

「そ、そうだね! ありがと!」


 齧歯類が餌にかぶりつくようにスマホに齧り付いて返信をしている彼女を見ながら、わたしはわたしを殺し続ける。

 嬉しそうな彼女を見られた。その事実だけで満足するために。


「ふぅ~大丈夫だって! ……よかったあ。ちーちゃん家にくると、いっつもこうやっていいことがあるんだ」

「そうなの? なら、よかった」

「んふふ。こっちこそありがと!」


 この笑顔さえあれば、わたしには充分だから。

 そう思っているのに、体は自然と動いていて。気づけば彼女を抱きしめている。


「ん? どしたの?」


 まずい。どうしよう。こんなつもりじゃなかったのに。どうやって言い訳しよう。

 心はこんなに慌てているのに、唇からは嘘がすぐ出てきた。


「わたしが励ましてばっかだから、昔みたいにわたしも励ましてほしいなーって」

「えー、たとえばー?」

「仕事頑張ったね、とか?」

「あ、そういえばこの前昇進したんだもんね! お祝いまだだった! いつもえらいぞ~」

「ありがとう」


 そんなことを褒められてもカケラも嬉しくなかった。彼女のことを考えすぎないように逃げていたら、そうなっていただけだから。

 だけど、そのおかげでうまく誤魔化せたから、仕事もたまには役に立つ。


「お祝いはちゃんと改めて用意するからね!」

「ありがとう。でも今は、すーちゃんの用事が先だね」

「そ、そうだった! 着替えなきゃ」

「駅まで送って行くよ」

「ありがと~!」


 そうして着替えたわたしたちは最寄り駅まで歩いた。

 夜中のうちに雨は止んだのか、あんなにも溢れかえっていた雨水は排水溝に吸い込まれていて、アスファルトのくぼみに水たまりが残っているだけだった。

 うっかり踏んで水だらけにならないように気をつけながら歩く時間はあっという間で。今日ばかりは駅近物件を選んだのが惜しくてたまらなかった。

 そうしてあっという間にたどり着いた駅の、いつもより人の多い改札前でわたしたちは別れる。


「また何かあったらいつでもおいでよ」

「うん、いつもありがとう! じゃあまたね!」


 改札を越えた彼女は、一度だけ振り返って手を振ると、嬉しそうに軽やかな足取りでホームへの階段を駆け上って行く。

 その遠ざかっていく背中を見て、ひどく胸が苦しくなる。


 お泊まりの翌日に別れるのがこんなにも苦しいなんて知らなかった。

 終電って言い訳がどれだけわたしを慰めてくれていたか知らなかった。

 振り返りもしてくれないのが、こんなにも寂しいって知らなかった。

 そんな男のところに行かないでって、叫びたくてしかたなかった。


 ――晴々とした空が嘘みたいに、耳の中が雨音で埋め尽くされていく。


 でもわたしは、親友だから。

 親友なら、また会いにきてくれるんだから。

 その一心で、わたしはわたしを殺し続ける。


 ――だから、この雨音は気のせいに決まってる

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