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道化論〜笑われていくための私見〜

 様々なクリエイターが溢れるこの現代において、それだけ多くの創作コンテンツに触れる機会があると思います。ここのような小説投稿サイトや動画サイト、イラスト投稿サイトやブログ、SNSや掲示板や日記果ては会話 なども毛色は違いますが手を加えたという意味では創作かもしれません。


 しかし、それらのコンテンツを見ているにつれ、ふと鼻につくということもしばしばあると思います。私はメンタル的に弱いこともあって、人のコンテンツの鼻につく、をいつまでも引きずってしまいます。例えば、何かを貶されると、自分のことを指しているわけではないのに立ち直れない、なんてことも少なくありません。


 しかし、私が好み、かつ人気もあるクリエイターのコンテンツはなぜ鼻につかないのか。詳しく考えてみた所、それらは「自虐」を巧みに使っていることがわかりました。


 ここでは、私が感じた「自虐」のあり方を長々と述べてみようと思います。


1.カリスマは武力?


 さて、皆さん人を惹きつけてやまないクリエイターと言えばどんな方でしょうか。作風だけではありません、その人柄も含めてです。


 色々出てくると思いますが、その素晴らしさを分かりやすい言語として例えるならば、カリスマがある、という一語でしょう。カリスマ、なんとも言い難い輝きを持った強い言葉です。そんな相手に憧れてしまう気持ちもわかるでしょう。


 ではカリスマとはどのようにして作られるものなのか、私は思います。カリスマとは


「確信を持って言葉を出せる人」


だと思います。


 それは理数系のすでに解が出されたデータに限りません。文系の法律の解釈や、まだ決定的なデータのない統計、感情論の問題にすら結論を出せてしまう、そのような確信を持った宣言が出来、「〇〇のはずだ」、「〇〇と思う」といった曖昧な答えではなく、「〇〇だ」、「〇〇で間違いない」、「〇〇できていないのはバカ」、「〇〇は絶対成長しない」と宣言できるような人です。そんな方々はオツベルと象の最後の一文字すら、自分なりに出して見せるでしょう。


 確信を持てる人は、何かしら独特な人生を生きてきた人な気がします。競争率の激しい業界にいる、過去に犯罪の前科がある、何かしらの開祖や直系、そういった人物は埋もれた所から現れることも多く、いつのまにかコメンテーターやご意見番に居座ってた、なんてこともよくあります。


 それだけあってか確信を持てる人のその宣言は、ボカしてばかりの曖昧な相手に比べて酷く胸に突き刺さります。ズバッと言ってくれた、こんなことを言えるのは他にいない、経験が表れている、など人を惹きつけ、多くの共感者シンパを生むことでしょう。カリスマはまさしく、現代の武力といえるでしょう。


 しかし、その鋭い言葉は時に人を大きく傷つけます。そのほとんどは努力不足により勝手に傷ついただけの存在に過ぎません。


 しかし、中には真面目に作品を書いて、専門の良い学校を卒業し、自分が好きだった異世界系の作品を書いた人がいるかもしれません。そんな中で「異世界系はマヌケの見る物」「他の世界観を構築できない逃げ」「文章力ゴミ」と言われたりしたらどうなるでしょうか。


 異世界系にも良いところはある。世界観を書かずとも大体説明できたり、二次創作的に書けるのが魅力だ、それに文章の上手さは作風に比例しない、と心で言える人もいるでしょう。中には気にしない、それよりも今を生きようという人もいるかもしれません。その人は芯のある人です。これからの禍難も恐れず立ち向かうことができるでしょう。


 しかし、中にはこれにひどく落ち込んでしまう人もいます。自分が書いてきたものはなんだったのか、こんなだから誰にも見てもらえないのか、色々な妄想が頭をよぎります。じゃあ、それに批判的な意見を書いてみようと書いてしまうと、結局は「本当は好きじゃないんじゃないの?」「そもそもこんなんが好きとか終わってる」「存在してはいけない生き物だ」と、返り討ち。こうなれば泣き寝入りです。こういった鋭い一言は、意図せず人を傷つけやすいのです。


 また、カリスマ側も呑気ではいられません。こうした強い言葉を使う人は、必然粗探しをされやすいのです。それは、あの時絶対にA社の商品を超える売り上げを出すと嘯いたB社長が中々売り上げに伸び悩んでいる、そうしただけでも発言が掘り起こされます。こうした細かな粗は、シンパが居ればフォローのひとつやふたつ、してもらえるでしょう。しかし、シンパが居なければ、粗は自分に降りかかり、信頼関係にぐらつきが生じます。こうなると、場合によってはなし崩し的にカリスマを失うことになりません。


 確かな実力があれば、多少世間との齟齬があっても私は何も間違えない、と実力で黙らせることも出来るでしょう。しかし、そんなことができるのはおそらく上位1パーセントにも満たないほんの一握り。大抵の人はカリスマを維持するため、シンパが必要と考えます。


 また、カリスマ的発言というのは、人を傷つけやすいと書きましたが、それはつまり「相手への露悪」になりがちということです。私の作品でも「露悪」と連呼する奴がいたでしょう。相手はこう悪い奴だ、良いところなどどこにもない、短い文や漫画ではこんな風になってしまいがちです。長い話となると、悪い所しかない悪役でもキャラクター性の深みは出ます。しかしそうでない使い捨ての悪は、深みもなく、決して顧みられることなく、ただ鋭い言葉に絆されたカカシのようにも見えます。


 確かにカリスマの存在は人の成長大いに促す薬になります。しかし、同時に受け取りようでは毒にもなりかねないのです。


2.自虐も上手い下手あり?


 では、シンパや実力の足りない人が擬似的なカリスマを得るにはどうしたらいいのでしょう。私にもわかりません。


 ただ先ほど、カリスマは「露悪」になりがちと言いました。しかし、「露悪」とは相手に対してだけではなく、自分に対しても使えるのです。


 「習慣にすることも中々できないよー」や、「いつまでも仕事が身につかない」といった「自虐」私は、毒にもなり得る強い薬ではなく、毒にも薬にもならない道化として、「自虐」は力はなくとも人を惹きつける引力を持つと私は考えます。


 自虐は難しいものではありません。自分の生活を見直せば、おのず見つかるもののことが多いです。

 しかし、行うのを控えるべき自虐もあります。それは自虐風自慢です。


「俺、ずっと山の相撲で最強だったから、山で勝てない奴の気持ちとかわからないんだよな」


 こういったのは自虐しているようには見えますが、実際は自慢したい思いが先に先にと出てしまいます。こうなると自虐するには鋭く、武勇伝には軟っこい、私には中途半端なイメージです。


 個人的に注目するなら、初心者が入れない、自分は初心者の気持ちがわからない、ここに注目するといいです。つまり、


「山での相撲って中々初見バイバイなとこある。俺も皆に教えられるような間口の広げられるようになりたい」


くらいの柔らかさにしてしまうとなんかいい感じだと思います。あくまでも自分は謙虚に、それでいて嫌味のないようにすると、優しい自虐になります。


 ただし、主語は大きくなりすぎないこと。もしも主語を大きくするならぼかした主張にすること。あたかも世間様全てがそうであるようには言わないようにしましょう。それは自虐とは別の問題です。


 また、自虐風自慢は良くないと言いましたが、かといって自虐を乱発し、自虐のみで埋め尽くす、なんてのも良くありません。後に説明するコント的にいえば


「今日は娘さんと結ばれるためのチャートを組むよ!」

「クソチビだけどな」

「娘さんの口に米をつけて泥棒に見せかけます!」

「どうしようもないドブカスだな」


なんて自問自答を続けていれば、見た人はネガティヴなイメージを抱き、気が晴れることはありません。これでは道化としては最悪です。あくまでも自虐は適度に、が理想だと思います。


3.前向いて行こう、根拠なんてなくても


 では、よい自虐の仕方とは何か。動画や文書など演劇的に行うのであれば、セルフスカッと、という方式が好きです。


 これは、誰か叩き台だけのカカシを立てるのではなく、自分自身が根拠あるなし関わらない自信を持ち、途中の行動でより自信をつけていき、最後に不慮の事故によりもろく崩れ去る、一人起承転結を話に盛り込む方式です。


 一見これらは過剰な自信に嫌悪感を示すのではと思う人もいるかもしれません。しかし、やはり道化というものはあくまでも根拠のない自信を持った上での自虐になるのがいいと私は思います。先ほど言ったネガティヴになり過ぎないというためにも、こういったことは重要でしょう。


 具体例を挙げます。所謂


「とほほーもう〇〇はこりごりだー!」


というオチ。アイリスアウトとも言います。このオチは確かに過剰な自信を持つ、またはそんな仲間にそそのかされた結果この結末になることが多いです。


 しかし、そのとほほ役をよく顧みてみると、決して極悪ではありません。例外こそありますが、同情し、共感できるレベルの愛おしい存在と言えるでしょう。こういったとほほ役は大変よい自虐の形と言えるでしょう。


 また、この自虐は一人で行なっても虚しくありません。そういった意味でも汎用性が高そうです。


 そして、自虐の際には、何がいけなかったのか、省みることも重要です。そこを明確にしないと、ネガティブさが抜け切らない風に見える気がします。


4.イマジナリーフレンド


「次は、反則級の技とも言えるコント方式について解説していこうと思うよ!」


「コント形式、君はそれを説明できるほどなのかい?」


「そりゃあもう寝る間も惜しんでこれの特訓をしたくらいだからね! おかげでコント形式の意味も理解したよ」


「それは?」


「コントはコントということ」


「ああ、こりゃ寝ぼけてるな」


「……とまあ、こういう小ボケを挟みやすく、自虐もまた良い感じに挟めるのがコント形式の魅力かな」


「ぶっほほほほほ、挟むならサンドイッチの話ぶほほほはほ」


「うわなんだこいつ、急に割り込んで」


「こうやって空気の読めないやつのような個性的なキャラを何人でも割り込ませられるのもコント形式ブホホ」


「その分、技量は必要だけどね。小説とかだと会話だけで書いちゃうのはあんまよろしくないかな」


「実際に今やってるくせにな。で、コント形式が反則ってのは?」


「ある意味コント形式は明確に道化と常識人を分けがちなんだ。これは実質自分にとって都合のいいカカシを作っているといえる。だから、お互いにボケを挟めるのがいい感じかな」


5.キャラ造形はどうしよう?


 そして、道化論はキャラ造形にも活かすことができます。


 まず、キャラクターを作る時、愛着があるにしろないにしろ、どうしてもそのキャラクターは完璧に書いてしまいがちです。その結果イマイチ共感できない、無敵キャラや嫌味なだけの存在が生まれてしまいがちです。これらは愛着を持って作られた場合と、逆にどうでもよくなった結果相手への露悪的になりすぎてしまったパターンがあります。


 しかし、どちらの場合でも道化論は優秀です。まず、傑物無敵な相手に尊敬を持ってもらうには、どこかこだわりを持っておくと、ルサンチマンを抱きづらいです。例えば、戦闘では無敵だが、常に戦う寸前にコーヒーを飲まないと気が済まないとか、文武両道で性格良く家庭でも頼れるけど、料理だけは壊滅的とか、そういった少しのこだわりです。こういったこだわりは一見無駄なように見えますが、いずれ愛嬌のようなものとして機能するようになるでしょう。


 ただ悪い印象だけ持たれるキャラには二つの悪印象脱却の道があります。一つは少々悪印象から脱却するイベントを書き込むこと、もう一つは因果応報をきっちりと描くことだと思います。


 悪印象からの脱却は先ほどのこだわりと同じです。基本的に勝ち逃げするし、徹底して残酷な悪役でも、なんやかんやあって結果的に一人の子供を助けることにつながったり、実は作家でその筋では多くのファンがいるとか、本人の性格を崩さずともやり方は考えられる人はたくさん思いつくでしょう。わたしはちょっと想像力が貧困なのでこのくらいしかも曖昧なものしか思いつきませんでした。


 因果応報はもはや説明不要です。雀の舌を切ったいじわるばあさんが雀から大きなつづらを持ち帰った結果ひどい思いをする、昔話の時代からそういった応報話は多くありました。ここまで極端でなくとも、主人公側は大きく損害や致命的な変化を受けたとして、悪印象のみになったキャラは勝ち逃げと思いきや、思わぬところで歪みが生じる、恋争いには勝てど、愛する相手は息絶えていた、吉川三国志の呂布と貂蝉を巡る話のアレンジにはそういった応報話の陰を感じます。


 いっそのこと悪印象を貫いてしまうのも一つの手です。不快感というのは見たくなくても見たくなってしまうカリギュラ効果を持った快楽的なものです。徹底して不快に描く技術があれば、それはむしろ一つの属性と断言できるかもしれません。本物の悪意のプロは、そういった技術を活かしているのかもしれません。


6.ふんわりとした交流


 コメントの返信なんかにもそういった人柄は表れます。コメントや感想返しは距離感が近くなり、見た側に身近な印象を与えてくれます。けど、それだけに身近に居ると嫌なタイプは、より目立ちやすくなってしまうのです。これは、コメントする側も同様で、一つの空気の読めないコメントが作品の品位すら落としてしまいかねません。


 作者のコメントへの対応は、無視を貫く、それでもいいかもしれません。けど、もし反応するなら、見た側がうれしいと思い、こちらも分かりやすいのは乗ってやることだと思います。


 例えば力太郎の感想、


「もちもち力太郎 きも」


というコメントがあったとします。それにはとりあえず可もなく不可もなく、乗ってやりましょう。


「キモクナーイ」


 こんな感じで、元ネタが分からなくても、理解しようとして乗ったという雰囲気を与えられるのがいいと思います。また、元ネタを知っているなら、


「おい! ことばをつつしめよ」


など、元ネタに寄ったコメントもいいかもしれません。


 また、どうしても注意をしておきたい、という反応もあるかもしれません。明らかに自分の解釈と反していたり、空気を読まなかったりする反応です。


「三匹のこぶた、いい作品でしたが、疑問もあります。なぜ末の弟の豚は鉄筋コンクリートで家を作らなかったのでしょうか? 鉄筋コンクリートの方がレンガより頑丈で優秀だと思います」


 無論、自分はこの時代に鉄筋がないことは分かっています。ただ、そういった反応にむやみにかかってわかっていると宣言すると、逆にこちらが向こうに擦り寄ったみたいに見えがちです。そうなるとネタに本当のこと言ったみたいで、正論なのに正しさを帯びません。


 こうなるといい反応は、


「わあ、鉄筋コンクリート! 確かに頑丈ですね! けど、私はレンガの方が暖かみがあるかなー、と思ったからレンガにしました!」


と、向こうを否定し過ぎず、レンガがレンガである魅力を伝え、さりげなく知っていたことを伝えるのです。そうすると、角が立たないかな、と思います。



 と、詭弁垂れてきましたが、結局はそういったことは人次第です。


 人間は良い所と悪い所もあって、絶対的ないい人も絶対的な悪い人もいないどっちつかずなもので、それを楽しめないと、このゲームはちょっとむいていないかも。あるゲームデザイナーは言いました。


 筋書きを作る側にとって、良くなりすぎず、悪くなりすぎず、そんな書き方は理想でしょう。しかし、それは見る側も同じ。この人の性格はあんまり好きじゃない、これを書いている人は良い人かもしれないし、悪い人かもしれない。けど、絶対的に良い人も悪い人でもない。だから、自分の気に入らない作風でも、口出しはするべきじゃない。人の思いを、横からどうこうしようとすることはあまりよくないのです。


 強い生き方、弱くて情けない生き方、どちらに偏るか選ぶのは結局自分です。けど、もしあなたが自分はちょっと勝ち続けていく強い生き方はできないなー、って思ったら、ふと弱虫になって自虐的な一面を皆に見せてみましょう。こうした弱みが愛嬌みたいになって、あなたの人生の助けになればそれは素敵なことだと思います。

 



追記

対戦系だと、負け試合も魅せられると、なんか、いいよね!

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